16
まだじゃ。もうちょっとだけ続くんじゃよ。
町役場の地下室で、”捕食者”による死者の記録を発見した綾奈。
口元を抑え、青い目を見開き、ホログラム画像に載せられている文字を見つめる。
それによれば、火村楓と言う当時五歳の男の子と、篠上秋穂が蛍島にて、”捕食者”により捕食されたとのことだ。それは、今から一五年前の捕食事件。
「お祖母ちゃんは、絶対にこのことを知っているはず。お祖父ちゃんも病死なんかじゃなかった……」
そしてもう一つの、当時五歳男の子の存在。火村の性とはつまり、この男の子は年代的に考えて、火村の兄なのだろう。
朱梨が語った、遺体なき墓の真相。そして、灯台にあった謎の祠の正体。それらが全て、過去にこの島に”捕食者”が出現したという事実によって、繫がった。
「そんな……私に、お兄ちゃんが、いた……。生きて、いた……」
二人して激しく動揺し、しばし呆然としていると、地上に繫がる階段から、降りてくる足音が二つあった。
「――見たのね……」
ハッチを開けて降りてきていたのは、険しい表情をした火村の母親であった。急いでここまで来たのだろう、白髪交じりの髪はぼさぼさになっており、汗も流していた。
「お母、さん……」
真実を隠し続けていた実の母親を見つめ、なにも言えなくなってしまっている紅葉を庇うように、綾奈が一歩前に出る。
「勝手に入ってすみません。でも、火村楓くん。この蛍島で生まれて、過去に生きていた男の子がいたはずです」
火村の母親を見つめながら、綾奈は言う。その手元には動かぬ証拠である、当時の記録のホログラム画像がある。
火村の母親は、綾奈とその画像を、忌々しげに交互に睨んでいた。
「なんなのよ貴女。なにがしたいの!?」
「私も火村紅葉さんも、ただ真実が知りたいんです! 教えて下さい。貴女たちの家と、私のお祖母ちゃんとの間に何があったのかっ!?」
「あの女と同じ……貴女までも私の、私たちの人生を滅茶苦茶にするつもりなの!?」
火村の母親はそう叫び、綾奈に詰め寄る。
その手に握っているホログラム画像を取り上げようと、綾奈の手元にあった電子タブレットを見つけ、綾奈の右腕を握って力強く持ち上げた。
「データを返しなさいっ!」
「痛っ!」
綾奈は悲鳴を上げるが、硬く握った右手を開くことはしなかった。
「お母さん!?」
揉みくちゃになる二人の後ろから、狂った母親の姿を見ていた紅葉が、今にも泣き出しそうな声で懇願する。
覆い被さるように綾奈の右手を掴み挙げ、握り締めた手を強引に開こうとする火村の母親の姿は、まるで地下室で生まれた悪魔のように、明かりが照らす壁に大きく動く影を作っていた。
「火村楓くんは、一五年前に”捕食者”よって亡くなっています! この島で、゛捕食者゛が出たんですか!?」
火村の母親によって壁に押しつけられながらも、必死に声を張り上げた綾奈に、紅葉は緑色の瞳を大きく揺らす。
火村の母親は、綾奈の首を片手で締め上げながら、必死になっていた。
「゛捕食者゛なんか、私は知らない! データを返して!」
「――《エクス》!」
綾奈の言葉を受け、火村は咄嗟に右手を伸ばし、掴みあう綾奈と自身の母親の足元に攻撃魔法を放つ。
衝撃波により怯んだのは、魔法が使えぬ身である火村の母親であった。
「紅葉!? 貴女、なにをして……」
「私も知りたい……お母さん。この島でなにがあったのか、私の……生きていたお兄ちゃんの事も!」
ようやく火村の母親による拘束から逃れた綾奈は、咳こみながら立ち上がる。
空気の薄い地下室と言うことで、この場にいる三人の女性とも、肩で息をしていた。
「紅葉……」
「お願いお母さん……。全部、話して……」
紅葉が綾奈を庇いつつ、母親を睨みつける。
火村の母親からすれば、もはや言い逃れもなにも出来ない状況であった。綾奈へ怒りの目を向けたまま、白髪交じりの髪の毛をかき上げる。
「真実を知っても、苦しむのは貴方たちよ……」
「なにも知らない方が、嫌です!」
「……」
火村の母親は少しだけ落ち着いたようで腕を胸の下で組み、二人の少女に向け、語り出した。
「一五年前。まだ紅葉が生まれたばかりの頃よ。貴女には確かに、お兄ちゃんがいたわ……」
「……!」
悲しげに緑色の瞳を揺らし、火村紅葉は母親の言葉に耳を傾ける。
「楓……。私が生んだ大事な子は、貴女のお祖母さんに殺されたのよ!」
「記録には捕食死とありますけど」
火村の母親の気迫に怯むこともなく、綾奈が冷静に指摘する。
「殺されたようなものよ。あの女は、人の命をなんとも思ってないのよっ! 蛍を見に行くと言って、家で待っていた私に、家の電話が鳴ったわ。かけてきたのは、篠上朱梨。……二人と一緒に山の奥に行ったけど、途中で”捕食者”に襲われて、帰って来られたのは自分だけだったって……」
「そんな……。お祖母ちゃんが、この島で”捕食者”を見ていたの……?」
「あの女は自分の旦那と人の子どもを見捨てて、一人だけ生きて戻ってきたのよ!?」
取り乱した様子で、火村の母親は綾奈に向けて怒鳴り散らす。
「私は何度も、何度もあの日の夜に時間が戻ったらと願ったわ。あの日の夜に楓を引き留めていれば……せめて一緒について行ったのが私だったら、楓だけでも絶対に生かしていた。それなのにのこのことあの女は生きているの! 今だってっ!」
火村の母親と綾奈。向かい合い、緊張の現場が続く町役場の地下室にて、そんな二人の間に紅葉は割って入っていた。今の母親が綾奈になにをしでかすのか、予断を許さない状況だった。
しかし、何よりも辛いのは、紅葉の方でもあった。
「だから私は、あの女が死ぬまで、あの山にある家が見える灯台から、あの女の生き様を見てやることにしたの。灯台にいる、楓と一緒にね」
「そんな……。そこまでやる必要なんかないはず! お兄さんを救えなかったのは、決して篠上朱梨さんのせいじゃない!」
紅葉が実の母親に言うが、そこから返ってくるのは冷酷な視線と言葉だった。
「いいえ違うわ紅葉。結果が全てなのよ。楓は死んで、あの女は生き残った。そんな理不尽で不公平なこと、あっちゃいけないのよ……!」
「お兄さんが死んで、辛いのは分かるよ……! でも、それで篠上さんを恨むのは間違っているはず!」
「貴女になにが分かるのよ!? あの子は絶対に、あんなところで死んでいいはずじゃなかった! それが、死体すら残っていないなんて……っ」
火村の母親は身体を震わせ、次には両手で顔を抑え、むせび泣いていた。
「……私のお祖母ちゃんと、会って下さい」
そんな火村の母親に向けて、頬に一筋の汗を流す綾奈は、あくまで冷静な面持ちと心情のまま、告げていた。
「なにを言っているの、貴女……?」
顔から手を離した火村の母親は、綾奈を信じられないものを見るような目で見つめ、次には睨む。
殺気すら籠もっているであろうその鋭い視線に心臓が鳴るが、綾奈は大きく深呼吸をして、恫喝する火村の母親と目線を合わす。
「楓さんが亡くなった時の、正確な情報が知りたいんです。お祖母ちゃんと会って、お祖母ちゃんの口からもちゃんと聞かないと、本当の事は分からないはずです!」
「私に、私の子を殺した女と会えと言うの!?」
「本当にお祖母ちゃんが楓さんを見捨てたのか、それは分からないと思います! 私だって、お祖母ちゃんを信じています! だから、真実を明らかにしたいんです!」
「頭おかしいんじゃないの、貴女……。どう考えてもあの女が私の子を殺したのよ!」
「――お母さんっ!」
今度は紅葉が母親の目の前に立ち、懇願するように彼女を諭す。
「お願い! お兄さんの為にも、なにが起きていたのかをはっきりさせるべきです! 一方的に相手を嫌っているだけじゃ、相手が今までどんな思いだったのかも、分からないじゃない!」
「紅葉、貴女……」
母親は驚いた様子で、娘の顔を見つめる。
肩を上下させる呼吸だが、紅葉は一歩も引く気もなく、母親を睨み続ける。
「どうして……。貴女だって、お兄さんを殺されたのよ!? それなのに、どうしてそんなのでいられるの!?」
「私には、思い出が、ないから……。もしも本当にいたなら、それは悲しいけど……。真実を知らない方が、もっと辛いから……」
「紅葉……」
「過去に縛られたままじゃ、絶対に前に進めない……。お母さんも……私も……!」
紅葉の叫び声の後ろで綾奈は息を呑み、親子の様子を見守る。
娘の反抗を受けた火村の母親は、まさかと思ったのだろう。戸惑い、後退っていた。
「篠上朱梨さんを恨み続けるなんて、お兄さんがそんなことを望んでいるなんて、私は思わない……。ちゃんと話そうよ! お母さんっ!」
「……」
激しく揺れ動く瞳の端に、涙を滾らせた紅葉の叫び声は、ようやく母親の心に届く。
なにかを観念したように、深く息を吐き出した火村の母親は、俯いたまま口を開く。
「私だって、本当は分かっているわ……。全部が朱梨のせいじゃないって事くらい……。でもそうしないと、あの人のせいにしないと、残された紅葉を育てることなんて、出来そうになかったの……」
そこまで言うと、火村の母親は、ゆっくりと顔を上げる。年相応に老けてしまっていた顔に、僅かな生気が宿っていた。
「でも、娘にまでそんなことを言われちゃ、母親失格ね……」
「ううん。辛いのは今日で終わりにしようよ、お母さん。私もここを乗り越えたら、また、魔法学園で頑張るから」
「もう私は手遅れよ……。でも紅葉。貴女だったら、過去を乗り越えて欲しいわ。私の分まで」
「うん。任せてよ……お母さん……」
火村の母親は紅葉にそう言うと、続いて立ち尽くす綾奈を見る。
「篠上さん……。ごめんなさい。貴女には、なんの罪もないというのに……」
「私は正真正銘、篠上朱梨さんの孫娘です。お祖母ちゃんのことを、私は心から尊敬しているんです。……だから、だからこそ私も、お祖母ちゃんの口からも真実が知りたいんです。私が大好きなお祖母ちゃんが、楓さんを見捨てるような事はなかったって。力を貸して下さい、火村さんのお母さん」
「……そうね」
町役場の地下室から、階段を上って町役場1階に戻ると、窓の外の茜色の空が、夕暮れを告げていた。穏やかな風景のはずが、何やら外が騒がしい。人の悲鳴や怒声が聞こえているのだ。
綾奈と紅葉と火村の母親の三人は、町役場から外へ出る。ドアは火村の母親によって壊されており、さすがにそこを通るときは、火村の母親も気まずそうな面持ちだった。
そうまでしても守りたかった過去のトラウマを乗り越えるためにも、綾奈は火村の母親と朱梨の和解が必要だと思っていた。
そして何よりも、過去にこの島に”捕食者”が出現したことを、島の人々にも伝えなくては。
そんな思いで夕陽を浴びていると、後ろにいた紅葉があっと驚いたような声を出す。
「蛍山が……燃えてる……!」
「え……」
その震える声につられ、綾奈も振り向くと、目の前で蛍ではなく、火の粉が舞っていた。
まるで一足早い秋の紅葉のように、山の緑の木々が赤く染まっていた。それは灼熱の熱を持ち、見る見るうちに広がりを見せている。
「お祖母ちゃん……誠次っ!?」
「まさか、この山火事の中にまだ二人はおんのか!?」
綾奈と紅葉が二人して誠次の安否を心配していると、町役場の正門の方からやって来る人影が二つほどあった。
キックボードに乗ったユウキと、その後ろから走ってくる駄菓子屋の店主、瀬戸だ。
「いたいた! お姉ちゃんたちっ!」
「大変じゃ! 蛍山が!」
「いったいなにがあったんです!?」
背後から迫る業火の熱を感じつつ、火村の母親がやって来た二人に聞く。
今や黒煙は天を覆うほど高く分厚く昇り、放っておけば畑は焦土となり、人が住まう民家にまで火の手は迫るだろう。地下室の静寂とはうって変わった外の地獄絵図は、まさに、一刻を争う事態であった。
「突然山の中で火の手が上がって、それが一瞬で広がったんじゃ! あんたの旦那さんがお年寄りたちを連れて、港町の船の中に避難させておる!」
「剣の兄ちゃんと山のおばさんがいないんだ!」
島の男の子が、切羽詰まった様子で言ってくる。
それを聞いた綾奈も、まさかと、激しく動揺した。
「誠次、お祖母ちゃん――っ!」
※
急に崩れ落ちてきた天井の残骸が、道場に更なる火炎をもたらす。黒い炭となった木材から更に火の勢いを増し、道場は火の海となっていた。
「けほっ、けほっ」
煙を吸い込み、咳き込む朱梨。綺麗だった紺色の袴はすでに黒ずみ、誠次の血を受け止めた箇所も、黒く汚れていた。
「ああ……この炎では、どちらにせよ終わりだよ剣術士……。やはり、そなたが足掻いたところで、この結果は決まっていた……」
すでに行き場を失った生身の身体は、未だ右手に不知火・蛍火を握り締めていた。
身体中に残った水分が蒸発していくのが分かり、長い歳をとっても変わらないままでいた顔のはりとつやは見る見るうちになくなっていき、朱梨は年相応の老婆の姿となっていく。
彼女の中で十年前に止まっていた時間が今、ようやく動きだしたのだ。
「思えば私は、ずっと死に場所を探してこの居場所のない魔法世界を彷徨い生きていたのさ……。最初に綾奈から話を聞いたときにそなたならば、もしかすれば私の長い旅を終わらせてくれるのだろうと思ったのだが。まあ……間接的にその願いは叶ったようだよ……」
力なく笑い、朱梨はそっと目を閉じる。役目は果たした。遂には一人で死ぬことすら出来なかったか弱い自分の生涯を、とうとう終わらせることが出来たのだ。
「感謝しよう剣術士。壮大な自決にそなたを巻き込んだこと、申し訳なくは思う……。ただ、分かっておくれ……。私は愛した男の後を追って死のうとも、自分では死ねなかった、意思の弱い女なのさ……」
七〇年以上を共に過ごした家と共に、その身を炎で焼かれようとした。
朱梨はそっと、瞳を閉じていく。
「――朱梨」
ぱちぱちと鳴り続ける火の手の音の最中、確かに聞こえた懐かしいその声に、朱梨ははっとなり、目を開く。
瓦礫を挟んだ道場の奥の方から、懐かしい人の声がする。それは確かに、わたしが生涯を懸けて愛した、たった一人の大事な人――。
驚いた朱梨は、左手で口を抑え、身体をわなわなと震わせた。
「嘘、だ……。秋穂……。そなたが、なぜ……」
燃え盛り、ゆらゆらと漂う炎の奥から見えたシルエット。それは確かに、死んだはずの最愛の人――秋穂の姿を映していた。
――分かっている。これは幻で、現実ではない。蛍の光が見せる幻想だ。それがよりにもよって、なぜ、ここへ来て。ずっと見ようとして、光に焦がれ、夜な夜な出歩いた先に見たかった光景が、今まさに朱梨の目の前にあった。
「もうええ朱梨……。先に逝って、すまんかった……」
「秋穂……。私はずっと、そなたに謝りたくて……。この刀も、ずっと、ずっと大切に……」
「ありがとな朱梨」
秋穂は朗らかに笑っていた。
それを見届けた朱梨の艶をなくした頬には、それでも綺麗な水の雫がぽたぽたと流れていく。
「……今からようやく、貴男の元へ向かいますゆえ……」
そうして、安堵の表情で目を瞑ろうと朱梨に、はっきりとした秋穂の声が届く。
「朱梨。それはいかん! お前には綾奈がおろう! わしとお前の孫娘を、最後まで見届けるんじゃ」
「私には、そんな資格などありません……。たった一人の愛した男と、たった一人の子どもすら守れなかった私には、もう……!」
「――俺は大丈夫だよ、おばさん」
まだ辛うじて生き残っていた蛍が一匹、朱梨の刀を握る右手の甲に止まる。
そこから確かに聞こえたのは、幼かったはずの火村楓の声だった。
「俺が死んだのは、おばさんのせいなんかじゃない。だから、自分を責めないでよ。おじさんといると、何処でも楽しいんだ」
「楓……本当に、すまなかった……。せめて私があの時、魔法が使えていたというのならば……!」
朱梨が涙を流しながら謝罪をするが、秋穂と楓は首を横に振っていた。
「じゃからこそ、綾奈や今もこの魔法世界に生きる若者たちに未来を託すんじゃ。俺らのように死んでいった人の為にも、朱梨。お前は見届けなければならん!」
「おばさん。どうか俺の大切な妹に、言っておいて欲しいんだ。上手くいかないこともたくさんあるだろうけど、とにかく頑張れって! 俺、どこからでも応援してるからさ! 海だって繋がってるんだし、たとえどんなに遠いところでも一緒に泳げるはずだからさ!」
交互に響く亡き人の声。それは蛍が最後に見せた、一瞬だけの幻であった。
「私は……私は……っ!」
咽び泣く朱梨は、右手に握った不知火・蛍火を逆手に持ち、自分の腹に狙いを定める。
それを見た秋穂と楓の幻は、咄嗟に振り向く。
――蛍が作る二人の幻が見えていたのは、朱梨だけではなかった。
燃え盛る炎のただ中、道場の奥。そこに立っていたのは、和弓を構えて矢を引き絞る誠次だった。
満身創痍の身から、残された力を全て、綾奈に言われたとおり両腕に託して使い切る。数日前の彼女の姿を思い出し、その仕草、表情を全て、ぼうっとしかける頭の中で甦らせる。
「頼む剣術士。朱梨を!」
「お願いお兄さん! おばさんを助けてあげて!」
血塗れの茶色の髪の下、血の跡を滲ませた口元を、微かに上げた。
「――ああ……分かっている……っ!」
秋穂と楓の幻に答え、火の壁が迫る中、精一杯矢を引く。この矢は、最初に朱梨に届かなかった、床に突き刺さったままの誠次が放っていた矢だ。矢じりは頑丈で折れてはおらず、レヴァテイン・弐を失った最後の接近の際に、誠次が取っていたものだ。
――落ち着いて……リラックス、リラックス……。
頭の中で反響する綾奈の声を頼りに、誠次は炎の分け目を見極める。
それでもやはり、傷だらけの身体には上手く力が入らず、荒い呼吸が照準を狂わせる。
「ハアハア……っ」
そして、僅かにでも照準がずれれば、朱梨を殺しかねない状況が、誠次に右手を離す機会を中々与えない。
「――すまんな剣術士……。お主には、朱梨が迷惑をかけたようじゃ」
ふと、燃え盛る炎の中から、秋穂が再び声をかけてくる。
「いいえ……。俺だって、綾奈さんの為にも、勝ちたいですから」
「あの子の性格は若い頃の朱梨そっくりじゃ。じゃが、さすがに胸は育ちすぎたかな。都会は美味いもんが多いから、そのせいかの?」
「蛍島の料理も美味しかったです。出来れば、また来たいです……」
「重ねてすまん。俺の代わりに綾奈のこと、頼む。朱梨に似て、ちとキツめな性格がたまにキズかもしれんがな」
「いいえ。任せて、下さい……」
「また蛍島に来てよお兄さん! 俺、俺の家族や妹が生まれて育ったこの島が大好きなんだ!」
「君がそう思っていれば、紅葉さんも、きっと喜ぶよ……。大丈夫。あの人のおかげで、俺はこうして、生きている……。きっと君の分だって……あの人は強く生きていけるはずだ……」
二人の喜びや悲しみ、悔しさや優しさ。それらを全て心に受け止めた誠次は、途切れかけの意識を立ち直らせ、もう一度矢を引き絞る。
なにかが道場の外に急速で近付いてきたのか、一陣の風が吹き、炎が揺れる。それにより僅かに生まれた炎の壁の途切れ目。その先で、泣きじゃくる朱梨が今まさに、不知火・蛍火を腹に突き立てようとしていた。
「――セイジーっ!」
道場の外で、車が急停車する音と、愛する人のこちらの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「あや、な……」
すると、激しく動いた照準はようやく定まり、刹那、誠次はそっと右手を離した。
放たれた矢は、炎を突き破りながらも真っ直ぐ飛び、誠次が狙った朱梨の右肩に、突き刺さる。
「……あ」
矢の直撃による反動で、あっと驚いた朱梨は右手に握った刀を思わず離した。
信じられないような面持ちで、左手で右肩に突き刺さった矢にそっと触り、誠次が放った矢が自身に突き刺さったことを確認する。
「まさか……剣術士のそなたが……最後の最後で……再びその矢を使うとは……」
「最後じゃない。まだ生きて、戦い続ける。俺も、貴女も――」
その誠次の声は、朱梨の耳元で聞こえた。
付加魔法を受けた赤い光を放つレヴァテインを片手に、誠次は炎を搔い潜り、朱梨の身体を抱き抱え、空中へと上昇する。
「これは夢か、それとも幻か……?」
空を舞う状況が信じられない様子で、朱梨は誠次の胸元で軽く驚く。しようと思えば出来るはずだが、それでも、誠次の腕を拒絶することはなかった。
誠次は朱梨のその言葉のどちらでもないと、首を左右に振っていた。
「俺には分かります。正真正銘、先程の二人を含め、貴女の大切な孫娘の、綾奈さんが見せてくれる魔法だ」
「……綾奈め。最後の最後で、私の邪魔をするとは……。おかげで、また、死に損なった……」
「俺も綾奈のおかげで、今を生きていられる。感謝、しないと……」
「すまぬな剣術士。私はあのような高い山に住んでいるというのに、どうにも高いところは苦手なのだ……。だから、そなたに、託す……」
朱梨はそう言ってそっと目を瞑る。まだ息はしている。ただ、お互いに有毒な煙と高温の環境に居すぎた。老人である朱梨は、それにより著しく体力を消耗してしまっていたようだ。
「俺に任せてください」
そして、誠次もまた、多くの血を失った。流れ落ちた身体の大切な一部分を補うのは、綾奈が道場の壁越しに施してくれた付加魔法の魔素だけだ。
朱梨の身体を支えていると、下の方に広がる光景に、誠次は赤い視線を奪われる。
「蛍山が、燃えている……」
山の葉が鮮烈な赤い発光色を放ち、黒い煙があちこちで昇っている。多くの蛍が生きていたこの島で、蛍の光の代わりに輝くのは、自然を殺し尽くさんばかりに燃える炎から出る火花たちであった。それらもみな、蛍よりも遙かに短い一瞬の命を燃やし尽くして、天の塵になって消えていく。
誠次は空から降り、綾奈と紅葉、そして火村の母親が乗る赤い車の前まで辿り着く。
ここも煙と熱が凄く、長居は危険な状態だった。
閉め切られた窓の車内から、綾奈が窓に両手をついて、今にも泣き出しそうな顔でこちらを窺っている。
「三人ともここはもう危険だ! 俺はこのまま朱梨さんを山の下へと運ぶ! 三人も早く!」
直後、誠次の背後から激しい爆発音と、熱風が押し寄せる。篠上家にある可燃性のなにかが、引火したのだろう。
火村の母親がこちらへ向けて「分かったわ!」と叫び返し、頷いた誠次は気を失った朱梨を抱いたまま、再び夜空へと逃げる。すぐ下を走る車は、上空の誠次の後を追っていた。
「あと少しだ、保ってくれ俺の身体っ!」
歯軋り混じりに血をはいた誠次は、車の行く手を阻んだ木々を上空から斬り裂き、レヴァテインの魔素出力を上げて、両断した幹を吹き飛ばす。
直後、そこを猛スピードで火村の車が通過した。
畑まで降りると、火の手はそこまでは追っ手はこず、種まきを終えたばかりの畑の野菜たちも無事のようだった。おそらく、港町までにも火の手は迫ってきてはいないだろう。
車の安全を確認した誠次の記憶は、正直に言えばもうここで途切れていた。港町まで向かおうとしたものの、すでに消耗しきった身体の力は入らず、意識も朦朧としていた。
そうして、誠次と朱梨は港町まであと少しのところで、方向を大きく逸れて上空から落下していく。
夜空に煌めく一筋の赤い流星が落ちていくのを、車の中から三人の女性は見ていた。
※
熱かった身体が、急激に冷えていく。重力のない空間を漂っていると思えば、まさか空を飛びすぎて、宇宙の彼方まで行ってしまったのだろうか。
息も出来ない苦しさは、身体の痛みは愚か、全身の感覚を奪っていく。そして、何処までも深く、沈んでいく感覚。周りは真っ暗で、何一つとして見えはしない。
そうだ、この感覚は、覚えている……。ここは、水の中だ。
鉛のように重くなった身体は、面白いほど素早く、水底へと沈んでいく。
もう、あの時のように火村が助けに来てくれることはない。
傍らには、気絶したままの朱梨がいる。彼女が身に纏う袴や髪が水中で浮きあがり、白い花のように漂っている。
――馬鹿な男だよ、そなたは。私など、救われてはならないと言うのに。
水中を漂う彼女の閉じた瞳の下の口元が、そう形を作って微笑んだ気がした。
ふさけるな。誠次は心の中でまで、朱梨の言葉に反対すると、右手に握ったレヴァテイン・弐の魔素を使う。
「あや、な……今度は、君がいて、くれる。だから、戦える……」
めいいっぱい伸ばした左手で、朱梨を引き寄せた誠次は、綾奈の付加魔法能力を使い、水面を目指した。
あれは、炎の明かりだろうか、それとも蛍の光なのだろうか――。海面上でゆらゆらと輝く光。ただそれだけを目指し、誠次は朱梨を抱き、混濁した意識のまま、浮上していった。




