神の足音
始まりは、グレイヒ王国の南東部にあるローリエという小さな村だった。
聖女が浄化を終えて2年が経ち、魔物の数はかなり減った。しかしこのローリエは境界線にほど近く、今でも魔物がたまに出没する。
魔物対策に当てられた騎士団が境界線付近に拠点を置いてはいるが、漏れはある。被害がゼロとは言い難かった。
数日前、ローリエから数キロ離れたバルダ村にオークが現れたという情報が入ったことで、騎士団の多くが討伐のためにバルダ村に向かっていた。
オークの情報にローリエの住人も警戒をしていたが、ここで予想外の事態が起こった。
ローリエの村にオークが出没したのだ。それも一匹ではなく、数十匹の集団だった。
戦う力を持たない村人たちは逃げるしかない。せっかく平和になったのに、と村人が絶望した時だった。
晴天だった空から激しい雷が落ちた。
雷は数匹のオークを貫き一瞬で絶望させる。
「なんだ?」
空を見上げた男の目に、不思議な影が見えた。遥か高い上空に、人影のようなものが見える。
突然の事に、表に出ていた村人は全員空を凝視する。その間にも残りのオークの集団が近付いてくるが、固まったように動けなかった。
「貫け」
顔が見えないほど遠いのに、静かな声が空に響いた。
その瞬間、先ほどと同じように雷が轟き、残りのオークに突き刺さる。
ほんの一瞬の出来事だった。
「この地から消えろ」
更に声が響く。その瞬間、オークの屍体が全て消えていた。
「どうなってるんだ、ありゃあ」
彼らの多くは魔術師や騎士が魔物と闘う姿を見てきた。だがこんなにもあっさりと跡形も無く倒す光景は見た事が無い。
しかも謎の人影は、空に浮かんでいる。空を飛べる魔術師など存在しない。
オークが消えると、人影がゆっくりと降りてきた。村人は皆、息を呑んで謎の人影を凝視する。
そこにいたのは、黒髪黒目の青年だった。
一見するとただの人間にしか見えない。しかし村人たちは、青年の持つ雰囲気に圧倒されていた。
「怪我人はいないか?」
尊大な物言いだった。しかし違和感がまるでない。
青年の問いかけに答えられる者はいなかったが、恐らく怪我人など出ていないだろうと推測できた。
被害が出る前に、青年がすべてのオークを倒してしまったからだ。
青年は辺りを見回してフと笑う。艶のある笑みだった。特別な美形ではないはずなのに、艶めかしくて惹き込まれる。立ち振る舞いには気品があり、一般市民とは考えられなかった。
「この村の代表はいないのか」
問いかけに村人の視線が一点に集中する。その視線に気付いた村長のゴードンは、慌てて青年の元に駆け出した。
「お、俺が村長のゴードンです。村を救ってくだすってありがとうございます。なにかお礼を…」
平伏しそうな勢いでゴードンは頭を下げる。壊滅するはずだった村を助けてもらった代償は大きい。
「ただの通りがかりに害虫を駆除しただけだ。気にするな」
「いや、しかし…」
恐縮するゴードンに青年はつまらなそうに応えた。
「礼をしてくれるのならば一つ訪ねたい。私と同じような髪と瞳を持つ少女を知らないか?」
「えっ…?」
思ってもみない問いかけにゴードンが言い淀む。
黒髪黒目と言われて浮かぶ少女と言えば、この国に一人しかいなかった。
しかしそれを口に出していいのか咄嗟に判断できず、問いに問いを重ねてしまう。
「それは、その。その方になんの用なんでしょう」
「彼女かい?彼女は私の対となるものだ。だから迎えに来たんだ」
「対?」
「彼女が私と共にある事は定められていた。しかしある日彼女は奪われた。私は彼女を取り戻しに来たんだよ」
「取り戻す!?聖女様をか?」
声を上げたのはゴードンではない。村の住人の一人だった。
「ドミ、黙ってろ!」
慌てたゴードンは後ろを振り返って男を睨みつける。救ってもらったからといって、この国の大事な人物を、見ず知らずの男に言うのは抵抗があった。
「聖女、とは?」
「いや、まあ、その…」
青年は聞き逃さずにゴードンに問いかける。心の奥底を探るような目に萎縮しながらも言葉を濁した。
「人間よ、早く答えなさい。無礼であるぞ」
どこからともなく女の声がしたと思ったら、青年の肩口から黒い猫が現れた。
ゴードンはあんぐりと口を開ける。
今の今まではいなかったはずだ。
「この方をどなたと心得る。さっさと答えよ」
「ね、猫が喋った…」
ゴードンを含めた村人はざわついた。黒猫はそれに苛立ったように青年の肩口に立ち、ゴードン達を睥睨する。
「いい加減にしろ!」
猫が叫んだ瞬間、空に稲妻が走る。
「ヒイィ!」
「この方の対となる神を奪った国の民が、この方に隠し立てをするなど一億年早いわ!!」
猫が叫ぶ度に晴れた空に稲妻が走る。とうとう村人も、目の前いるものが人ではない事を悟った。
魔術師と言えども、できる事に限界がある。
空を飛び、且つ自然を操る力を持つのは、神しかいない。
神の怒りは魔物などよりも恐ろしい。ゴードンは地に膝をついて頭を下げた。
「た、たいへん申し訳ありません!なんでもお話します!」
「マリー、落ち着きなさい。お前はせっかちすぎる」
「貴方様の心が広すぎるのです。この国は貴方様の対を奪ったのですよ。神を愚弄したも同然です。滅ぼしてもよいのでは?」
黒猫の言葉にゴードンは汗をダラダラと流した。
「そっそれだけはお許しを!!」
「ゴードン、と言ったか。顔を上げよ」
「は、はは!」
「何もとって食いはしない。ただ、もしも知っているのなら教えてほしい」
「はい、黒髪黒目の少女と言えば、この国では聖女様をさします。4年前に召喚された聖女様は、この国をお救いになられた方です」
ゴードンの言葉に青年は得心がいったように頷いた。
「4年前か。時期は合うな」
やはり聖女の事だったのだと、村人は冷や汗をかいた。
「あ、あの…」
その時一人の幼い少女が青年に向かって話しかけた。止めたかったが、青年に手で制されてかなわない。
「なんだい?」
「あの、聖女様はこの国の王子と結婚するんです。だから、連れてかないで」
泣きそうな瞳で懇願した少女を見て青年が微笑む。海のように広く包み込むような笑顔だ。
「それはできない。いま彼女は深い悲しみに満ちているからね」
青年は首を振った。
「離れていても私には彼女の気持ちが伝わるんだ。最初の頃は楽しそうにしていたが、今の彼女は悲しみにくれている。この場所が彼女に喜びをもたらすなら我慢できたが、悲しみをもたらすならば放って行くわけにはいくまいよ」
青年の言葉に、村人たちの脳裏に噂が過る。
婚約を発表した王子が、隣国の王女と懇意であるというものだ。
「彼女はどこにいるのかな?悲しみで彼女の気配が弱まってわからないんだ」
「は、聖女様は首都ベイリッヒにおります。ここから北西に馬で三か月ほどかかる距離にあります」
地図などないからうまく説明はできない。青年は責めもせずにゆったりと頷いた。
「なるほど、分かった。礼を言う。行こうかマリー」
「はい、主さま」
そう猫が返事をした途端、彼らの姿はもうそこには無かった。




