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婚約者は人間を食べる  作者: 伯灼ろこ
第四章 幸せな目覚めのその先で
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 6節 凜堂 紫ヲ

「イーヴォ……? なんだ、その名前は。俺の名前はれっきとした日本名だぞ」

 彼の声に滲むものは涙か。口の中に滑り落ちるしょっぱい液体が、舌の動きを鈍らせる。

 伊邑は、世ラに呼ばれた名前を頭の中で復唱し――とある結論を導き出す。

「けど、嫌いじゃあない」

 彼はその名前をいつも呼ばれていた。呼ばれたら、すぐに応えていた。母親が大好きだから。どんな遠くに離れていようとも、必ず駆けつけた――

「イーヴォちゃんっっ、会えた! 会えたよぉぉぉぉ!!」

 世ラは弟の言葉を信じていた。たとえどんな姿になっても、巡り会えると――

 両手を大きく伸ばし、首に巻き付けて頬を擦り寄せると相手もそれに応えてくれるはず。頭を撫でると、相手は気持ちよさそうに鳴いてくれるはず。――懐かしさに込めた期待は、見事に外れた。

「我が母君よ」

 戸惑いと、呆れたような笑い声が振りかかる。

 伊邑は両手の平で世ラの顔を包み込み、愛おしげに撫でるだけ。

「私はもうヨーゼフではない。姿形は変わったが、しかし再び貴女の子供になることができた幸福に、感謝致している」

「イーヴォちゃん……っっ……ずっと言葉がわからなかったけど、そんな礼儀正しいこと思ってくれてたの……?」

「……はは、礼儀正しく育ったんだ。人を喰って生きていたあの頃とは違い、今は人を喰った者を追う立場。しかし人の味を思い出した今、職業との矛盾が生じてしまったが――」

 伊邑から身体を離した世ラは、にっぱりとした笑顔で提案をする。

「ならっ、転職よ! 私に付いてきて! 病気が治ったから、どこへでも行けるの。餌くらい、いくらでも狩ってくるから!」

 狩り――かつて獣の眼で見ていた光景を思い浮かべ、伊邑は苦笑する。無邪気で残酷な母親の変わらない姿は、絶対なる安心の象徴ともいえた。

「有り難いお言葉。しかしまず、邪魔者を排除してからでないと――」

 先発隊としての職務を遂行できなかったリディックと戸須田の背後から、薔薇丘蘭人が現れる。彼は事態を理解したのか、顔を歪ませて伊邑を睨む。

「こうも想定外のことが連続で起きるものですかね。神の奇跡か悪戯か……また私は翻弄されることとなった。イーヴォ……まさか、お前だったとは」

 世ラはすぐさま伊邑の前に立ちはだかり、両手を広げる。

「セゥノ、なんのつもりですか? また私がイーヴォの首を斬り落とすとでも? ――ええ、その通りですよ!」

「させない。させるもんですか。イーヴォちゃんは、今度こそ私が護る!」

 薔薇丘は自身の背へと手を回し、コートの内側に隠し持っていた西洋風の剣を取り出して振り払う。伊邑は、一切の避ける素振りを見せない世ラの腹に手を回し、数メートル後方へ跳ぶ。あと少し遅ければ世ラの腹が裂けていたかもしれない。

 伊邑は怒鳴りつけた。

「母上っ、死にたいのか!」

「んなわけないでしょう! イーヴォちゃんを護りたいの!」

「っ……申し訳ないが、母上は非力なんですよ……昔から」

 世ラを自身の背後へ押しやり、伊邑は腰に差していた一丁の銃を抜く。

「この超文明の利器が年季の入った人喰鬼にどれほどの効力を発揮するかはわからないが――」

 一瞬、だ。一瞬のあいだに迷う間も無く狙いを定め、トリガーを引かねばならない。目標は薔薇丘だけではない。その下僕がまだ2体残っている。同時に3体を、仕留められるか――

 伊邑の額を流れる冷や汗が、ギラリと揺らめいた――そのときである。卵が破裂したような軽い音を立てて、戸須田遥の頭部が潰れたのは。

 一部始終を目撃していた世ラは、しかし速すぎる場面の移り変わりに脳の処理が追いつかない。一呼吸を置いてから巻き戻して見た光景は――地を這っていた戸須田遥の頭を着地地点として定めて踏み潰し、確実なる死を与えた少年が現れた。元の形がわからないくらいに粉砕された頭蓋骨の状態から推理するに、相当なる高さから飛び降りたと思われる。

 髪と皮膚と、赤黒い液体が絡みついたローファーの底を地で擦る少年の髪は燃えるように赤く、肌が白い。しかし第一の着目すべき特徴としては――顔が凜堂世ラと瓜二つであること。

「どこ……行ってたのよ……シォハ」

 呆れているのか怒っているのか、しかし発した声色に反して世ラの目尻には滲むものが光る。

 名を呼ばれた赤髪の少年は、驚いたように世ラへ振り返る。その理由はどうやら、世ラが呼んだ”名前“にあったようだ。

「まさか、”思い出した“の? セゥノ」

 セゥノと呼ばれた世ラは、力いっぱいに頷く。

 少年は長い溜め息を吐き、天を仰いだ。まさしく、長く待ち続けた時を噛み締めるように。

 しかし、少年が次に世ラへ振り返ったときには、困ったような微笑みを浮かべていた。

「今の時代は、”凜堂紫ヲ“でいいよ。僕もセゥノのこと、世ラって呼ぶから。というか、君がセゥノ・メルローズとしての記憶を取り戻すまでは互いのことを日本名で呼びあっていたんだよ?」

 赤髪の少年は涼やかな目元を流し、薔薇丘蘭人と対峙する赤い眼の刑事を見やる。

「おやおや……これまた立派な大人に成長したもんだね。イーヴォ」

 世ラそっくりの少年――凜堂紫ヲに目を奪われていた伊邑は、固く縛られていた口元を徐々にほどいてゆく。

 開いた唇から零れ落ちた第一声は、謝罪だ。

「まことにすまないことであるが、俺はあなたに会ったことがない」

 返答を受け、紫ヲは肩をすくめる。

「ああ、そうだったっけ」

「塔の窓からは世界がよく見渡せただろうが、地上から塔の中は見えなかった。でも」

 伊邑は片手を頭頂部に乗せる。

「でも、土の中で眠りにつくその時まで――ずっと頭を撫でてくれていたことは、覚えています」

 紫ヲは口端を吊り上げて「そうかい」と言うと、するりと背を向けた。

「さて」

 紫ヲが着用しているものは、どこかの学校の制服だ。紺色のブレザーと、灰緑色にチェック柄が入ったパンツだが、どこの学校のものなのかはわからない。

 きっちりと締められたネクタイを緩め、少し眉間に皺を寄せる紫ヲの視線の先は薔薇丘蘭人へと変更されている。

「おひさしぶりですね、お父様。また性懲りもなく僕の婚約者を奪いにきたわけですか。しかも僕の不在時に病院を襲うなんて……さすが。次は警察署まで」

 薔薇丘は頭を潰されて再起不能となった戸須田遥、片腕を千切られたリディックを順に見渡し、最後に世ラを見る。世ラの瞳には、凜堂紫ヲしか映っていなかった。

 忌々しげに下唇を噛み、艶やかな血液が滲み出す。

「お前に”お父様“などと呼ばれたのは初めてですよ――この木偶人形」

「ええ。できればもう二度と呼びたくない」

 ピリッと張り詰めた空気が流れる。これまで張り詰めていなかったわけではない。だが、この2人の対峙がその空気を完全なるものに変えたのだ。

「ずっと探していたんですよ、2万年のあいだ」

 ぼそりと薔薇丘が言葉をこぼす。

「僕も待っていたんだ、2万年のあいだを」

 気が遠くなるほどの長いあいだ、父と子が求めていたものは同じだ。だからこそ妥協を許すべきでないと互いは言う。

「もう奪われるのはご免です。返してもらいますよ、私の婚約者を」

「奪ってみれば? そうしたら、何度だって奪い返してやるさ、僕の婚約者を!」

 薔薇丘の背後に控えていたリディックが、合図を受けるでなく紫ヲに飛びかかる。片腕を失っても僅かにすら損なわれない瞬発力と脚力を最大限にまで引っ張り出し、牙を向いた――が、ほぼ同じ力と速度を保有する個体に体当たりを食らわされたリディックは、地鳴りと共に地面を転げ回る。

 面を食らっている余裕は伊邑にはなかった。卓越された剣捌きを披露する薔薇丘の一撃を銃身でガードした伊邑は、腰を深く落として足払いを繰り出す。伊邑の迎撃範囲から身を翻して逃れた薔薇丘は、リディックに馬乗りになっている”同じ獣“を視界に入れるなり舌打ちをする。

「みんな仲良く転生、ですか? ――まったく、くそくらえ、ですね」

 呆れたと言わんがばかりの溜め息が薔薇丘の声に混ざり――鋭く尖る。

「リヒテ!!」

 それは合図だった。紫ヲに名を呼ばれた”リディックの雌“は、暴れるリディックから身を離し、薔薇丘の横を高速ですり抜けて警察署の敷地内から跳び去った。リディックの雌が去ったあとには何も残っておらず、3人いたはずの人間もろとも消失していた。

「……はっ」

 思わず漏れたのは笑い声だ。最高潮に達していたはずの怒りと嫉妬は瞬間冷却されて静かになり、代わりに笑いが込み上げてきた。

「あは……はっ、ははっ」

 薔薇丘は自身の額をおさえ、吐き捨てるように笑い続ける。

 ――どうしてこうも拒否をされ続けるのだろう、と酷薄な彼らに首を傾けながら。


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