7節 事件の真相
リディックの雌――紫ヲがルマン=リヒテと呼ぶその獣の背に跨りながら、伊邑は納得をしていた。
ギラリと煌めく漆黒の毛並み、岩をも砕く頑丈な牙と顎、3人の人間を背に乗せながら、それを負荷としない高速の走り、街中を駆け抜けているにも関わらず、誰もこちらを見ようとしない――月世野総合病院を襲ったのは、リディックで間違いない。
巨体を有する獰猛な肉食獣だが、走るスピードは光の速さを凌ぐ。ゆえに人の視覚に認知されず、誰にも気付かれないまま移動をすることが可能だ。
――1000人を越す数の人間の捕食。
――病院以外で目撃をされていない。
以上2つの条件を満たす生物はリディックしかいない。さらに前世があのリグリのアガレスなら、薔薇丘蘭人ことランス・メルローズ伯爵の指示――病院内にいる人間のみを襲え等の指示――に従うのも不思議ではない。
伊邑は今世紀始まって以来の大殺戮についての謎の解明を成したわけだが、推理を披露する相手も、また功績を褒め称えて然るべき待遇を与えてくれる場所も失ってしまったことを実感した。
肩を落とすわけではない。代わりに得たものがある。いや、戻った――と言うべきか。目の前には、昔からずっと変わらない母親と、そして――
「母上の、妹……」
「”弟“だけど。こうやって必死に訂正するのも2万年ぶりだよ」
母親そっくりの少年は、不満をいっぱいに広げた顔でこちらを振り返る。その腕の中では、赤髪の少女が恨み言を吐き続けている。
伊邑は問う。
「これは戦線離脱、か?」
敵は人喰鬼一人と手負いの獣。明らかにこちらが優勢であったに関わらず、紫ヲは早々に退却を決めた。その腹の中には、こんな答えがあったようだ。
「ランス・メルローズとはまともにやり合わないほうがいい。あいつは人喰鬼の中でもかなり特異な方。だって、単身でヨーゼフと戦い、首を斬り落とす腕の持ち主だよ? まさか忘れたの? イーヴォ」
思い出せば首に熱い痛みが蘇えり、母親に対して無性に懺悔したくなる。知らず知らずのうちに喉元を押さえていた伊邑は、しかしすんなりと頷けない。
「無念であったと――その思いが強い。母が驚異に感じる相手は徹底して排除したい。母が誰に怯えることなく、また臆することなく自由に生きられる世界を与えたい。昔から、そうしてきたから。たとえ敵がどんなに強大でも」
強い信念、固い誓い、だ。だが紫ヲは――
「まるで幼い子供が、叶いもしない大きな夢を語っているようだ」
と嘲笑った。伊邑は多少ムッとするも、そのまま静かに紫ヲの意見を聞く姿勢をとる。
「親孝行のつもりかな? けどね、それでまた死んだりしたら世ラを悲しませるだけだ。僕は、確実な勝機が見えるとき以外は逃げることを選択するよ。あのとき、自惚れにも戦況を見誤ったせいでセゥノを失ったんだからね」
ひどい後悔からくる悲しみは、紫ヲを極めて保守的な性格へと変えてしまっていた。愛する者を自分のせいで失ったと嘆く相手に対する反論は容易くなく、散々に考えたすえ、伊邑は沈黙続行を選んだ。
口を閉ざすと、今度は世ラにターンが回ったようで、紫ヲが首に巻くネクタイを引っ張りながら声を荒げた。
「だから今までどこ行ってたの?! シォハがいない間、大変だった……!!」
世ラが自分そっくりの少年の名前を呼ぶが、即座に訂正が入る。
「だから、今の時代では凜堂紫ヲだってば。この名前の方が戸籍上は君と実の姉弟だから、望みが叶ったようで嬉しいんだよね」
「そんなことどうでもいい! 寝たきりの私を置いて、どこへ! 行ってたの!」
世ラの剣幕に押されつつ、答える。
「このルマン=リヒテを迎えに行ってただけなんだって。そうしたらメルローズが僕の不在に気付いて君を奪おうとして……」
腕を痛いくらいに掴む世ラの機嫌を窺うように「ごめん」を言い続けた紫ヲは、今自分たちが背に跨っている獣――雌のリディックを指差す。
「リヒテはね、月世野市立動植物園にいたんだよ。遠く離れたアフリカから運ばれて。猛獣エリアの一番人気――リディックっていう動物に生まれ変わっていた。まさか同室がアガレスだったとは、さすがに考えなかったけど。偶然って怖いよね」
「ふーん……リヒテさんもアガレスも、共にリディック……か。どうしてリグリにならなかったの? 偶然?」
「リグリは絶滅したんだよ。ヨーゼフと共に、遥か昔に。理由は、君が死んだあとのことだけど……アガレスがギリス公爵家を襲った事実が明るみになり、全国規模でのリグリ狩りが開始された。メルローズ自身が、リグリが人間にとって絶対的な脅威であることを知らしめちゃってたんだよ。そして、同じく人間を捕食対象とするヨーゼフも”ついでに“狩られた。人為的に絶滅へ追いやられた2つの動物の魂は、それに近い獣へと生まれ変わったのさ」
「そう……。で、リヒテさんはアガレスのお嫁さんになったわけね。じゃあ、妻に殺されかけたアガレスはもっと哀れだわね」
「だろうね。セゥノに本気で殺しにこられたメルローズのようにショック受けたんじゃないかな」
「どうしてあいつの肩をもつの」
「そんなつもりじゃ」
「話戻るけど、よくも寝たきりの私を置いてリヒテさんを優先してくれたわね」
「リヒテの力が必要だったんだ。いくら僕が人並み外れた力を持つ人喰鬼でも、メルローズとアガレスの2体には適わないから」
「そうね。ヨーゼフ2匹すら倒せなかったんだもんね」
「それ、言う……? 今」
――まるで痴話喧嘩だな、と姉弟のやり取りを見ていた伊邑は思う。あまりに微笑ましく、気がつくと頬が緩んでいる。2人には気付かれないうちに締め直した。
「ねぇ、紫ヲ……これからどうするの?」
着の身着のまま逃げてきたこの状況を、世ラはまるであの頃みたいだと思い出して言う。先のことなんて考えないで、とにかく2人だけで逃げた大昔を。
「メルローズから逃れるのが第一目的だけど、僕はとにかく世ラを色々な場所へ連れていってあげたいんだ。センフェロン大陸はもう無くなってしまったけど、代わりに、世界の隅々へ羽ばたける。今のこの時代の文明なら――可能だ」
紫ヲは漆黒の獣と、生まれ変わったヨーゼフへ交互に視線を滑らせて「それに」と続ける。
「幸い、成人男性となったイーヴォも一緒だから、どこへ行くにも年齢を聞かれて止められることはないし」
「なにそれ」
「未成年単独では行動範囲に限りがあるってこと。ほら、僕って見た目は子供だから。本当は2万年生きてるわけだけど」
紫ヲが口にした”数字“に実感が沸かないのは、あまりにもさらりと表現したからだ。
「2万年……か」
だが、世ラが自分で口にして言ってみた”数字“は、重く、想像をするだけで気が狂いそうになった。
「長かった」
苦笑いをする紫ヲの横顔には、たくさんの思いが込められているように感じた。無理やりに抑えつけなくては、今にも爆発しそうな――。
「しぉは」
長いときのあいだを独りきりで生き、自分を探し続けていた弟になんて言えばいいのだろう。
――ありがとう?
――それとも、ごめんなさい?
世ラは考え、しかしわからず、かつて呼んでいた彼の名前を囁いて抱きしめることしかできなかった。
*




