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『かいとくんを救う会』が街頭募金を始めてから、まだ一ヶ月も経たないうちに三千万円もの寄付金が集まっていたことをホームページの報告で知り、今日両親と役員が市役所内で会見を開くことも聞きつけ、会見の開始時間に合わせ大介は家を出ていた。

 市役所の一階には、朝早くから人々が集まっていた。支援者の団体だけではなく、もろもろの手続きや、市政への訴えを行う集団など、市役所正面玄関に群がる人々は大介の興味を惹いた。

 会見の場に市長も来るという情報を聞きつけ、そういった団体が多くいるから、朝早い時間でも市役所前は異様に活気づいていた。そのなかで作業着を洗いもしないできたのか、汚れの目立つ格好なのに、白髪は短髪に整えられていて、不潔なのか清潔なのか判断のつかない高齢の男が、大介には不穏な動きをするような感じがして、落ち着かない男の様子が気になり、時々男の位置を確認していた。一階の、国民年金課の窓口では高齢者が多く陣取っていて、待合室は朝早くから人の出入りが盛んだった。

 二階の会議室が解放され、一同が移動を開始する。最後尾から行くほうが楽だからと、大介は混雑を避け立ち止まっていた。彼と同様に立ち止まり、二階へ向かう支援者達を見上げているあの作業着の男が、窓口へと歩き出した。大介は男の背中を眺め、不審な挙動に悪い予感がした。また会見の場が荒らされてしまい、都合よく質問ができなくなる、大介が一番恐れている出来事を男が起こしそうな、悪い予感に彼がその後に続き歩き出した。

 窓口の前で一旦留まり、男がポケットに手を入れ、なにか思案顔で、今度はロビーのベンチ付近をうろうろし、落ち着かないようで座りもせず、ただ窓口の方を時々覗き込んでは市役所を出るわけでもなく、二階の会議室へ向かうでもなく、行ったり来たりを繰り返すばかりで、どうにも踏ん切りがつかずにそんな行動に出ているらしかった。

 大介は、男が窓口から離れ入り口に近いところまで歩いていったところで、後から声をかけると、男は驚き振り返り、おはようございますと言った大介の言葉に戸惑い、目をひんむいて彼がどこの誰なのかを探っている様子だったので、「はじめまして、そろそろ行かなくては、会見が始まってしまいますよ」

 男は黙ったまま、二階の会議室のあるところを見上げ、いやおれは違うと小さく答えた。

 大介が一向にその場を立ち去ろうとしないことに我慢できず男はトイレのある方へ歩き始め、後を追う大介をうっとうしそうに背中に感じながら、やがて耐え切れなくて振り返り、「なんかようか。いま忙しいんだ」

と明らかに歯切れが悪く、男もそれに気がついたらしくまた黙り込んでしまったので、大介も言葉につまり、どう話をしようか戸惑い、男が窓口に目をやり、今度は意を決した表情なので思わず男の腕を掴んで言った。

「やめましょう。そんなことしても年金が増えるわけでもないですし」

 男はとっくに見抜かれていたことを今彼の言葉で察した。それほど男の行動は周囲の人から浮いて見えていたことを大介が教えてやると、男は作業着のポケットから手を抜き、近くのベンチに腰を下ろした。大介も隣に座り、男がなにか言うのを静かに待った。もう会見は始まったらしく、二階で拍手がするのが聴こえてきた。市長の挨拶だろう、まだ間に合うと彼は、早くこの男を市役所の外へ追いやってしまう方法を考え出した。

 男は白髪頭を掻き毟り身悶えするような苦痛の表情でいる。ポケットには小型のナイフでも入っているのだろう。その男が市役所へ殴り込みでも起こしにやってきたと大介が直感したのは、以前にも似たような老人が市への不満を訴えるために、出刃包丁一本で乗り込んできたことがあったからで、その後役所内の警備は強化され、さすまたが職員デスクの脇に配備されてあった。この老人が国民年金課の前をうろついていたことから、年金の給付額に不満があるだろうことは推測できた。けれどそんなことぐらいで自分の目的の邪魔をされたくない思いから彼は老人の行動を止めただけだったが、思いのほか男は改心し、身の上話を彼に始めだした。

 男は十七歳で志願し中国へ向かいそこで捕虜となり満州で農業をしていたことから話し出した。農業だけでなく家畜の世話の経験もあった自分は随分重宝された。一斑十五人に分けられ、ロシア人に銃をつきつけられながら毎朝点呼を行い、老人はロシア人をロスケ、と呼んでいたが、彼らは条約により発砲はできないことを知っていたからと、ロスケから銃を奪い逆に撃つ真似をして両手を挙げさせたりした武勇伝を彼に聞かせた。

「あいつらはパーだから、点呼もろくにできなくて、おれたちが代わりに自分達で点呼をとってやったもんで、だいたいまだ少年がほとんどで、捕虜の見張りなんて下っ端の仕事だから、ろくに教育も受けてない連中ばかりが集まってるようなもんだ」

 大介は戦時中の話を聞くつもりではなかったが、男の気持ちを鎮めるためには、もう少し我慢して話しに付き合ってやる必要があると判断し、男の話に興味を示したふりをして、話の続きを聞いていた。

 その頃、与えられた食べ物はなく、草や小動物を捕まえて食べていて、たまにロスケの倉庫に忍び込んで、不注意でリンゴ箱を落としたら、中には大量の塩が入れてあって、思わぬ幸運の塩を盗み、班の仲間に与えてやった時の、仲間が男を英雄のように持ち上げた時のことを寂しそうに話し、「今では誰一人として会いにもこない。それっきり、薄情なだ」とさらに続ける。

 塩が何故それほど貴重だったのか訊ねると、男は呆れた表情で、水と塩さえあれば大抵は生き延びられるのも知らんのか、とさらに、便の出を良くするためだそうで、男達は当時まともな食料も与えてもらえず、とうきびを食ったりしていて、そのせいで肛門の手前でとうきびの繊維が消化されずにつまり、そのまま放置するとガスが体内に溜まり、腹が膨れ上がり、やがて死にいたり、実際仲間の何人かがそれで死んでしまったことを淡々とかたり、どうしても苦しい時は互いに竹を肛門に突き刺し、ガスの出口をつくり、死を免れていた、という大介には信じがたい壮絶な過去を惜しげもなく聞かせてくれた。

 まさかこんな汚れた老人に歴史認識の貴重な意見を聞くことができるとは塑像もしていなかった大介は、ふいに吹出しそうになった。まさかこんなところで世間にいまだ結論のつかない問題を解決してくれそうな、実体験を持った生き証人が存在しているとは、不思議なもんだと、改めてその話だけでも卒論の材料としては十分すぎるほど、貴重な歴史の証人の意見は彼には新鮮な驚きを与えた。男はシベリアまでは行かなかったそうで、もしそうなっていたらおそらく死んでいただろうことを幸運のような口ぶりで話した。そして現在の政治家や大手企業の取締役などが、自分達の息子の世代であることを強調し、昭和生まれは馬鹿ばかり、と老人の口から告げられた際、大介は確かにそうかもしれない、となんとなく同意したくなった。

 今自分達を苦しめているのは、まさしく昭和の人間達なのだから、実際戦争なども自分達の世代がやったわけではないし、そのことで現在でも過去の賠償や謝罪を要求されていることにも、今の自分達がどれほど応えなければならないのか疑問だった。老人の言葉を引用すれば、年号の違う連中のやったことに、現年号の生まれの自分が、過去の清算を、戦争を体験しなかった昭和時代の外国人に要求されることが納得いかない部分もあった。必要以上に謝罪とか賠償とかいったことを求める、一辺倒な思考停止したも同然の外国の連中はいい加減大介にも目障りでしようがなかった。大学の中にも留学生がいて、その国の連中は大概仲間うちから煙たがられていた。 それは大介に対するものとは違い、歴史認識を捻じ曲げている他国人に対する嫌悪感から、連中は嫌われ者になっていた。大介はそういった留学生まで敵に回していたから、気づかなかったが、確かにそのことを考える時自分は日本人であることを強く感じながら、憤っていたはずだった。老人によって大介は日本人あることの喜びを感じずにはいられなかった。本当に日本人でよかったと家系に感謝したくなったが、老人の言葉を鵜呑みにはできない。なにしろ切羽詰った人間の言い分なのだから、大介は話の勢いが衰えを見せるまでは空き放題言わせておくことにして、老人の意見に疑問を言ったりすることはせず、やがて老人がひと息つくタイミングを見計らい、「ぼくらの世代には想像がつかないくらい体験をされてきたんですね」と当たり障りのない同情を示すだけにした。

「ほんと、あんた達にはわからんだろうな」

おれは気が強かったからなんとか乗り切れた。

 それから老人は戦後、故郷に戻ってからのことを話し出した。地元の仲間は警察になったが、あれは勉強もできない馬鹿がなるもんだったから、おれは仲間に誘われても断わってやった。ガキの頃から頭の悪かった奴が、警察になった途端ピストルもってでかい面して、おれはあんなふうにはなりたくなかったから実家の農業を継いだけど、今じゃあ生計も立たなくなったから都会に出てきたが、ここでも仕事がない、と主張の本題に来たところで、ようやく大介は老人の行動に納得がいった。老人は仕事がなく、生活が厳しいことを訴える為にやってきたことが分かった。そんなことをしてもどうにもならないことは老人も理解しているだろう。

 けれど、理屈に従い感情を抑えることができる人間は数少ない。当然老人も葛藤があったに違いないが、それを抑えることができないほど、切羽詰った状況に居た堪れなくなったからこそ、そんな身を捨てるようなことを計画したのだろう。老人のやり方は計画的とはいえない衝動的なものが窺えたが、大介は老人の感情を辿れば理解でき、老人に憐れみにならないよう同情を寄せる言葉をかけると、老人は大介に対し親しみを見せ、早く二階の会場へ向かいたい彼を引きとめさらに話したがり、大介の方もこのまま邪険にしてはまた刃物に手を掛けかねないので、なかなかその場を離れられず、仕方なく老人の満足するまで話し相手になることに決めた。途中からでも会見に参加さえできればなんとかなると自分を慰めながら、思いがけず、あわれな老人の救い人になってしまった彼は、その役割を果たす為に二時間近くも一階のロビーに居座ることになった。



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