表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/9

9.香火姉妹

おそくなりましてすいません。

「麗ちゃん…麗ちゃん?」

公主は月の庭の岩に座りながら何かをいじっている。

春月が近づくとそれは月下美人の蕾だった。

「…もう具合は大丈夫なの?」

「あ…春月さん、いたんですね。倒れてしまってごめんなさい…。

大丈夫です。もうすっかり。」

公主は眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。

「麗ちゃん?何かあったの?」

「実は李瑛とここで話したのだけど…。」


あの後、李瑛はドロドロに酔っ払った伯勇を連れて帰っていった。

すっかり日は登り、昼近くなっていた。

客が帰ってくれてスッキリした顔をした妓女達は自室で休んでいる者も、

道楽老人達の晩酌を超過勤務でこなしている妓女もいる。

公主は手持無沙汰になり、李瑛が話していた月下美人を眺めていたという訳だ。


「いい人そうだったのよね…李瑛。

ちょっと、騙していることが申し訳なくなる位。」

男って皆同じだと思っていたんだけど…、と口ごもる公主。

「李瑛様は優しい方よ。麗ちゃん。

でも麗ちゃんの言うように、変な奴がいるのも事実ね。」

「父様が考えを変えてくれたら、李瑛との結婚はなくなるけど、

結婚自体をなくして欲しいとは言えない…。

だったら李瑛で妥協した方が得…という考え方も出来なくはないけど

…決心がつかない。」

月下美人の次は草を弄りだした公主はブチブチそれを引っこ抜いている。

「麗ちゃん…結婚を回避する手段は、ないわけではないけど…。」

「何ですかっ!」

キラキラした目で訪ねる公主に苦笑しながら春月は一言、

「尼になればいいのですわ。」

と言った…。

まぁ、冗談ですよ、と春月が続けた言葉を公主は聞いていなかった。

そういう方法があったか…と一人納得していたのだ。

「そうだ…そんな方法があったわね…ありがとう、春月さん。

確かに公主の立場を利用して、寺に寄進でもすれば寺は喜んで迎えてくれるわね。」

じゃあ、どうしようかな…と呟いた公主に春月は慌てた。

「いやいや冗談ですって…普通の女性だって勿体ないのに、

若くて美しい麗ちゃんが髪下ろすなんて神への冒涜に思えます。」

「い、いえ…私は仏に仕えるので…。それに寺の暮らし嫌いじゃない…と思うわ。」

「そういう問題では…。」

「一応受け入れ先の寺院を探そうかな…。」

「いや…麗ちゃんの幸せが一番だけど、それじゃ李瑛様が…。」

李瑛は他の男と違う、と考え直したと思いきや、

次の瞬間出家を検討している公主の思考が理解できない春月だった。

「私断言しますが…尼になる位なら李瑛様に嫁いだ方が幸せだと思うわ。」

「尼の暮らしは心穏やかだと思うの。」


その時ザクザクと砂利を踏みしめる音が近づいてきた。

「春月、麗月いるー?」

木枯らしのようなしわがれた声。姿を見ずとも楼主だと伺えた。

「楼主…様。」

「母さん、どうしました?」

額に汗しながら楼主は低木の茂みから現れた。

「春月…まただよ…あんたって本当に愛されてんのね。」

「…その言葉でなんとなく何があったのか分かったわよ…母さん…。

いつも通り適当に取っていって下さい。」

「春月、あんたはもう正直、自由の身に出来るんだよ。

私はそれ以上頂いちゃっているわ…。

それにあんたはアレを関係のない他の妓女にも配るんだろう?

あんたはどうして僅かしか取らないんだ。それに付けもせず…。」

「『伯』勇様からの物だからよ、母さん。」

「こんなにあんたは避けているのに、若様はマメだわねぇ。」

「何が届いているのか楽しみね、麗ちゃん。尼になるだなんて言わず、

あの人の贈り物でもみましょうよ。」

春月は公主の手を引き、楼の門前の方角へ歩き出す。

楼主が後ろから怪訝そうな声を発する。

「尼?何、あんたそんなのになるつもりなの?

あんたはシャブ中の介抱係なんだから困るわよ。」

シャブ中の介抱係りに勝手にしないでいただきたい。

「尼、立派な職業。人々の気持ち、楽にする。」

楼主の『そんなの』発言にムッとする公主だった。

なんの意味も感じない結婚に、空虚な未来。

所詮公主である自分にはそんな道しか広がっていない。

そんなものから逃げ出して、いっそ尼にでもなってしまえばいい。

尼じゃなくてもいい、自分の価値を見出し、発揮できるならどこでも…。

そうしたら、男という面倒な存在に煩わされなくても済むのだし…。

いや、でも自分の道ってなんだ?と公主は心の中で苦笑いする。


そんな物思いに沈み、黙り込んだ公主は妓女達の歓声で自分の周りに張った膜が破れたような錯覚に陥った。

「さすが、伯勇様は財力が違うわねぇー。毎回派手なこと、派手なこと。」

秋琴が驚嘆したような呆れたようなそんな声をあげた。

彼女は公主達の方に近づいてきた。

見れば楼の門前に荷車が止まっており、その中には何やらずっしり重そうな螺鈿の箱が山積にされていた。

春月の顔は能面のように表情がない。どうやら呆れているのか…。

「春月…私達の分もちゃんとあるけど、

これ殆どあんた宛みたいよ。確かめたら?」

伯勇様のお財布事情が知りたいわぁ、と秋琴。

「嫌がらせかしら?毎回毎回…。」

力なく春月が呟いた。

妓女達は待ちきれないらしく、

荷が降ろされる前に箱にかけられた結び紐を解きだした。

その中から様々な品を取り出しては各々はしゃいでいる。

「この絹なんて羊毛で模様が作られているわ。凄く大胆な

構図ね…円の中に動物が向かい合っているわ。」

「それ、西方の緯錦じゃない?」

「見て見て、この異国人の人形鼻高すぎるったら…。」

「なんでしょう?この香水瓶みたいなのは…?」

「…なんか爽やかな匂いするわね…いや、こっちはヘンな匂いね。」

公主は興味を引かれて何が入っているのか見て…後悔した。


…誰宛てなのかしら?春月さんなのかしら…。


公主が気の毒そうに春月を見ると、春月は怪訝そうに、

「あの…麗ちゃんどうしてそんな目で見るの?」

公主は春月の耳元に口を寄せる。

「…鹿鞭、黄耆、益母草、補骨脂、巴戟天…あれ全部精力剤なのよ。

勿論精力剤として用いるものばかりじゃないけど、全部精力に通じる薬草なのよ。」

「絶対要らない。」


「これ全部、花代?」

「麗月だっけか?うん。そうとも言えるし、そうでないとも言えるね。

厳密に言うとこれは妓女の花代じゃない

…それとは別として心づけとして若様方が貢いでくれるってわけさ、

私達はメンドイからそんな貢物も纏めて花代って呼んじゃっているけど…。」

秋琴がフウッと悩ましげな息を漏らした。

「まぁ伯勇様は規格外なんだけど

…春月、こんなによくしてくれる若様も滅多にいないわよ。いっそ諦めて嫁いじゃえば?」

春月の方を見やれば、彼女は顔をボウッと赤らめている。

「……絶対に嫌。」

呟くように春月は言うが、その表情は嫌そうに見えず、公主はますます不思議に思う。

妓女達は装飾品の入った箱を今度は開いている。

めいめいに気に入った物を取り出しては自分の髪や首に下げている。

瑪瑙の首飾り、真珠のあしらわれた簪、翡翠の耳環、瑠璃の指輪…。

それらをつけた妓女達の華やかさが一段と増す。

「全く春月の心づけなのに、あの子達ったら…。」

秋琴はあきれたように額を軽く押さえている。

「いいんですよ…どうせほとんどやってしまうのですから。」

春月は苦笑いしてその光景を眺めている。

「麗ちゃんもいってきなさいな。」

「…いえ、春月さんの、物…でも少し見せて…。」

公主も装飾品は嫌いではなかった。むしろ好きな部類である。

箱の中を覗くとどれも宮殿でつけていた物と遜色のない品物ばかりである。

水晶のキラキラとした鳥がついた宝冠の意匠には見覚えがある。


…これ…自分も持ってたわね…というより、伯家の職人が作っているから献上されてきた物だったわ…。


宮殿に献上されるような一品をホイホイと妓女に与える伯勇の金遣いの荒さに公主は冷や汗をかく。その箱の中に帯でグルグル巻きになった何か…塊を見つけた。

「…。」

そっとそれを手に抱えると春月の傍に行く。

「…どうぞ…。」

おずおずとそれを差し出す公主に顔を引き攣らせる春月。

「何…、これ。」

「………。」

帯を解くと添え状と何かが転がって出て来た。

良く見ると雌雄の鶴のモチーフが特徴的なあの髪飾りだった。

公主が今つけているものと全く同じ意匠のそれは、伯勇の執着心を如実に表していて…。

絶句する春月に、公主は伯勇の添え状を読んでやる。

「願在裳而為帶 束窈窕之纖身 嗟温良之異氣 或脱故而服新…願わくば、貴方の裳の帯となって、貴方のか細い腰を束ねてみたい、だが気候が変われば旧い裳は脱ぎ捨てられてしまうかもしれない…と昔の詩人は嘆いたものだが僕はいつまでも君にひっついているからね、春月ちゃん。それとその帯と簪は僕だと思って大事にするように、…ですって…。」

「…し、しつこい…相変わらず残念な方…。」

ドン引きした顔で目を押さえる春月はどうしていいか分からないという風に力なく呟く。

「いい加減、別の女のところにでも行ってくだされば気が楽ですのに…。」

「…それにしても…同じもの、短時間で、よく…。」

公主は自分の後ろ髪に手をやった。

「…伯勇様の執着心が成せる業、でしょう。」

ケタケタと秋琴が笑った。



「何をしているの?」

昼下がり、春月の部屋に戻った公主は自分が宮殿から持ってきた服をたたんでいた。

「慌てて出て来たものですから…少ししかありませんし、路銀は取られてしまったんですけど。」

宮殿の青い文官装束と黄色い男物の絹の服。

それらをキチンとたたむと公主は溜息をついた。

「これだけは無事だったようでなによりです…。」

公主の掌にあるのは男物の佩環である。濃い緑の玉で出来ており、刻まれた二匹の龍が大胆に絡み合っている。赤い房飾りには貴重な夜光珠がついていた。

「一見普通の玉佩ですが、石と夜光珠が見事ですね。」

感心したように春月は言う。

「お母様の遺品の一つなのです…でもなんだか男物でゴツイから気に入らないけど…。」

気に入らないといいつつ、公主は安堵したように表面を撫でた。

「胸に入れていたのが幸いだったみたいです。」

その佩環をじっと春月は見つめている。

「…春月さん?どうかしました?」

「…いえ、母上様の形見を大事になされているのですね。」

「まぁ…お母様が大事にしていたものだから。なんの気もなしに持っていたわ。」

公主はその佩環を黄色い服に包む。

そして春月が差し出した衣装箱にそれらを仕舞い込む。

「そういえば、麗ちゃん。まだ香を焚きかわしていないわね。」

「香?」

「宮中に仕える教坊の風習だけど、同じようにうちでもやっているのよ。

香を焚きかわした妓女達は義兄弟として見なされるわ。

麗ちゃんは私の妹分だから…。

でも…形式だけなので別にやらなくてもいいのだけど…良ければやるけど…。

いや、気にしないでね。別に形式だから…。」

あさっての方向に目をそらす春月に公主は微笑んだ。

照れ臭いらしい。

「いえ…是非お願いします。」

「……は、はい…といってもただ香木炊きながらいつも通り会話するだけだけど…。」

春月は香炉のつまみを持ち上げ、いくつかの香木を放り込む。

そして細い糸状の竹に燭台の火を移すとそれも香炉に放り込む。

公主と向かい合う彼女の白い繊手は膝の上に落ち着かなげに組まれた。

「…改めて、よろしくね。麗ちゃん。」

「よ、よろしくお願いします…。」

二人は顔を見合わせる。

「なんだか、桃園の誓いじゃないけど…それっぽいですね…姐さん。」

「姐さんだなんてやめてよ、麗ちゃん…。でもこうして改めて顔を合わせると…。」

「照れ臭いし、何をこんな厳粛な感じで話せばいいのか…。」

二人は笑った。

「いつも通りでいいのではない?お菓子でも食べながらお話ししましょう。」

そういうと、春月は出て行ってしまう。


しばらくして、彼女は戻ってきたが…。

「楼主…様…と秋琴??」

彼女の背には二人ほどくっついていた。

「春月と香を焚きかわしたなら、もうここの人間ね。こうなったからには私のことも母さんと呼びなさいっ。」

公主は自分の実の母親を思い出し、顔を引き攣らせた。

「…に、似てないにも程が…。」

「ん?なんか言った?」

「…何でも、ありません。」

秋琴もニヤリと笑いふざけた調子で公主に迫る。

「私のこともぉ、姐さんとお呼びなさいなぁ。

私一応、春月の姉貴分なのよぉ。

妹分の妹分は妹分よね。」

「……妹として、お姐さまの代筆を任されているわね…確かに。」

「あんたの文章のが上手いからよ、けしてパシリにしているわけでは…。」

ハハハ、と秋琴は渇いた笑いを出す。

秋琴は酒を杯に注ぎ、春月は菓子を並べる。

こうなると女子会…一人異質なのが混じっているが…の出来上がりだ。

「昼日中に酒ですか…お姐さま。」

「茶なんて、ぬるいわよ。盛り上がりたいなら酒よ、酒。」


しばらくグビグビと酒をすすめていた三人は

茹蛸のように出来上がってしまっていた。

「どうして、麗ちゃんは男嫌いなのぉ。」

春月が秋琴のように語尾を伸ばして問う。体も公主にしな垂れかかる。

公主は杯を面紗の中に入れながらグビグビと一献。

「そ、それはぁ…お父さま…エロ本、持っていたから…それと、私の従兄弟…

従兄弟が…キモい…。」

酔っ払っているのか、西域の女性の演技なのか…もの凄くたどたどしい。

「男なんてみんなそんなもんよぉ…私の若いときはぁ…」

化け物楼主が自分の若かりし時のおぞましき体験を語る。

…しかも男相手の話ばかりを。

そういえば…この楼主も男じゃないか…いや、玉がないので男ではないのか…。

酒と悪寒で思考停止しかける公主である。

「私の話はしたんだから、あんたはぁ、そのキモい従兄弟の話でもきかせて頂戴な。」

トドメのように楼主が公主に追い打ちをかける。

公主はボソリとこうとだけ言った。

「私、の従兄弟は…しつこい。物凄く体がデカくて、圧迫感、ある。

強引、野蛮、優しくない…。」


その時、公主と同じく顔を覆った女が部屋に入ってきた。

香媛と呼ばれていた人だ、と公主は理解する。

「あの…麗月さん…李瑛様がこれを貴方に、ですって。」

聞けば表に使者が来たのだという。

渡された包みを開くとそれは牡丹と蝶の刺繍が入った面紗で…。

顔を見られないように、という李瑛なりの気遣いであろうか。

「綺麗…。」

公主は少しだけ、笑った。

でもこの刺繍なぜか見覚えがあるような気がする。

瞬時に脳裏に浮かんだ人物がいた。


…李貴人様…。


彼女は牡丹を差すのが上手だった。

恐らくこれは彼女が差したものではなかろうか。

公主は年下なのに姉のような彼女を思い浮かべ…今頃お怒りであろうと冷や汗をかいた。


陶淵明の閑情賦からの引用です。

いくつかある中で一番なまめかしい部分w

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ