ACT 2-7
心臓が跳ねた。うっすらと目を開けると、そこに何者かが居て、その人物にまるで自分の心臓を掴まれているかのような感覚に襲われる。
恐怖で声が出ない。あのときの夢に似ている。ビルの上で戦っていたときの夢ではなく、妙な暗闇の空間に挟まれていたときの夢だ。それに似ている。妙な感覚なのだ。
暗い影は手のひらを顔に向けてくる。なにかを呟いているように見えるがさすがにこの暗闇では、なにを言っているのかは解らない。読唇術など、物語の中に出てくるような都合のいい能力は持ち合わせていない。
そのせいで、心臓を掴まれたかのような感覚を覚えているのだろうか……?
解らない。
冷静でいる自分の思考にもそろそろ嫌気がさしてくる。普通に考えれば、目の前にいるのは単なる変人だ。大声を出して叫んで、警察にでも、近隣の人間にでもきて貰えばすべて解決だ。
黒い人物は、ゆっくりと手を戻すと、その場でしばらく立ちつくしていた。
「 か み し ろ 」
…………頭に響く、嫌な、感覚で、話された。
「 ゆ あ 」
…………自分の名前を言われているだけだと云うのに、どうしてこんなにも気持ち悪いのか。それと、どうして自分の名前を知っているのだろうか。自分はこの人物の事は知らない。
気持ち悪い。
それだけ言おうと思って口を開けると―――
「―――ッ!?」
―――今度こそ、完全に目が覚めた。
目を開けて、体を起こすと息は荒い。そのままの服装で寝てしまったせいか、変な感覚だ。
それと、酷い汗だ。妙な息苦しさに加えて、この汗だくの体では気持ち悪くて当然だ。妙な夢も見る訳だ。
「……喉渇いた」
誰に言う訳でもなく、そう呟いた。喉はカラカラで、唾もドロドロしており、粘り気があり、とても気持ちが悪い。このままではもう一度寝なおそうにも、気持ち悪くて眠れない。
時計の方に視線を向けると、時刻は日付が変わる一歩手前の二三時五五分。帰ってきてすぐに横になったのが拙かった。
とにかく、喉が渇いたのでこれを潤さなければならない。あとできればシャワーも浴びてさっぱりしてから二度寝したい。
重い腰をあげて、優愛は部屋の端にある冷蔵庫の扉を開く。そこにはいつも常備しているペットボトルの水が……
なかった。
切らしてしまったらしい。帰ってきてからすぐにベッドに向かった為に、冷蔵庫を開いていなかった。しかし喩え見たところで、そのままベッドで横になって眠ってしまっただろう。
喉の渇きはピークに達していた。飲まなければ眠れない。そう脳が発している。
ふと、横目で台所を見る。すぐに首を振って、家を出る準備を始めた。水道水など飲めない。
服はこのままでも良いだろう。どうせ帰ってきたらシャワーを浴びるだろうし、水を飲めば喉の渇きもなくなるだろう。そうしたらすぐに眠ってしまう。今度こそ、寝巻を着てから寝よう。この服装のままだとさすがに寝辛い。
いつもと同じように部屋の中をチェックする事も忘れない。最後に火の元のチェックと、部屋の鍵を閉める事を忘れずにしてから、アパートの階段を降りる。昼間と違って、別に顔を隠す必要はない。
こんなときにも、深夜に外へと繰り出す事に対して気分が高まっているのを感じる。他にない非日常は、こんなにも身近に存在しているものだと感じた今日一日だった。
途中で立ち止まるところは、アパートから一番近いところにあるスーパーだ。当然のように閉まっているので、すぐに歩くのを再開して、少し先の、いつものコンビニエンスストアの方に向かう事にした。ペットボトルの水程度なら、そこまで値段は変わらない。
夜の夏の風は気持ち悪い。生温かい風が体中にまとわりついてきて、気持ち悪いのだ。生温かい風のせいで、体にはまた変な汗が沸き出てきており、触ってみるとべたついてまた一層気持ち悪さを加速する。
早く水を買って家に戻り、シャワーを浴びてしまいたい。そうすればあとは寝るだけだ。その後は考える必要はないのだ。明日の自分にすべてを任せる。
考えているとため息が出てきた。自分の毎日の普通さにため息が出た訳ではない。日常には感謝している。非日常も、こうしてたまに感じるぐらいが丁度良い。
だが何か……彼女はこの世界に不満を持っていたのだ。ずっと、ずっと……
人と共に歩まないといけない世界に対して、他人が恐怖なこの世界に対して―――まるですべてを代表する人間にでも自分がなったかのように、不満を世界に対してぶつけたかった。
本当に自分はこの世界に居ていいのか、自分と云う不確かな存在を考えると、ため息が出る。詩人のようなこの思考には驚くばかりだ。
劇的な変化は求めていない。できれば、緩やかな変化を……
気づけば、コンビニエンスストアを通り過ぎていた。我に返って後ろを向くと、店の光がすぐそこにあった。
「らっしゃせー」
やる気のない声が響く。夜も更け、日付も変わったこの時間では客の姿はない。居るのは店員がひとりと、今店の中に入った自分だけだ。……確かに、やる気を失うには丁度良い暇さ加減だ。やる事のない仕事ほどつまらないものはないだろう。
この手の店の運営について詳しい訳ではないが、二四時間のコンビニエンスストアには、夜でもふたりでひと組となって店番をするのがセキュリティ上決められているらしい。ただでさえ、やる事の少ない深夜から朝に掛けてふたりで仕事をすればすぐにやるべき事は底をついてしまう。
ペアであるはずのもうひとりの姿が見当たらないが、恐らくバックの方だろう。
どうでも良い思考をしつつ、水を買っていくだけではなく、菓子のチェックや、雑誌のチェックなどをひと通り済ませてから、飲料水コーナーでペットボトルの水を取り出してカゴに入れる。
〝……もう何本か買って行こうかな〟
ひとつだけならまだしも、それ以上まとめて買うとなればコンビニエンスストアは割高になってしまうのがネックだ。
しばらく考えて、冷蔵庫の中に水を常備しておかないといけない必要性を考慮して、やはり必要だと考えてカゴの中に取りあえず二日分入れる事にした。コンビニエンスストアでは、このような荷物を送ってくれるサービスは存在していない。持ち運べる範囲でいこう。
水だけではなく、この暑さを飛ばしてくれるのはアイスクリームだ。余計なものだが、無性に食べたくなったので、それもカゴの中に追加した。
レジで会計をして、袋いっぱいに詰め込まれたペットボトルの水を見て、今日何度目か解らないため息を吐く。意外と重かった。
「ありがとうございましったァ」
またやる気のない店員の言葉をバックに、外に出ると蒸し暑い夜の空気が優愛を出迎える。
早く帰ってしまおう。いつまでもここに居ても良い事はない。
いつもの道に歩を向けたところで―――
―――なにか、いま、乾いた音がしなかったか?
―――本能的に、そちらの方を向いてしまった。
一瞬……ほんの一瞬だけの音だった。それ以降、音がした雰囲気はない。
単に、ものが落ちただけだろう。それ以外の何ものでもない。気に止める必要はない、無視してしまえば良い。それが正常な考えだ。気にはなるにしろ、それを直接確認する事は決してしない。
だがどうだ、神代優愛の足は、完全に止まっていたのである。
常であれば、無視してそのまま歩いて行ってしまうだろう。いつも通り、他人のふりをして、自分の世界に引きこもっていれば良い。優愛自身、一番解っている事だ。
たった一度の乾いた音ごときが気になって、足を止めてしまった自分自身に、優愛自身が一番驚いているのは、言うまでもない。
さらに驚くのは、その先に、行ってみたいと思ったのだ。呆れて言葉もでない。
手に持った袋の中には水だけではなく、アイスクリームも入っている。この暑さなら、すぐに溶けてしまうだろう。そうなってから食べるアイスクリームは不味い。
だからと言う訳ではないが、早く帰ろう。思考回路は、体に帰宅命令を下す。
しかしそれを、本能が却下する。
〝なんで……?〟
心では思っていても、抑えきれない衝動。こんな感覚、今まで絵を描くとき以外はあり得なかった。
本能に従って、思ったままにできるのは絵だけだ。絵はそれをしても許されるからだ。身勝手な、不条理な世界を描いても許される。そこにある物語が自分の中の正義であり、否定できないものだからだ。
そう、ここは現実なのだ。そう言ったわがままが通用しない世界。
人は誰しも本当にやりたい事を抑えて生きている。本当の願いを、本当の人生を―――すべて否定して生きてきている。本当にやりたい事は、自分だけではなく、周りすらも不幸にする。そのような世界の仕組みになっているからだ。
本当にやりたい事を今やっている人間は、途方もない金を持っている人間か、それが通用する実力を持っているか―――この二択である。それ以外の金もなく、才能もない人間はいつかその夢を手放して現実へと戻っていくのだ。
本能もそのひとつだ。
人間には欲求が存在している。
生理的欲求
安全・安心欲求
愛情的欲求
尊重欲求
自己実現欲求
これらである。
しかし、これらをすべて実現する事は叶わない。これを抑えつけて、人々は人間社会の中で生きているのだから。
人間社会の中で抑えつけなければならない欲求を、抑えつけられなかった人間は道を外れ、人間社会から抹消、裁きを受ける。
……一歩、優愛は前に歩いた。歩いてしまった。
人間は欲求を基本的に抑えられる理性が存在している。理性は強く、そしてときに脆い。今日の優愛の理性は、脆かったのだろう。もしくはそうさせるほどの出来事が、これから起ころうとしているのか。
アパートとは真逆の方角に、ついに方向転換をして歩きだす。こちらは、中心街の方角だ。
今日の昼間通った道を、また深夜に歩いていく。もうアイスクリームは駄目だろう。これからどこに行くのか解らないが、先の乾いた音を探して歩き続ける。
―――すると、今度は鈍い音が響いた。
一瞬、近所で爆竹でもしているのかと思って、周囲を見渡した。心臓は高鳴っており、ちょっとした出来事でも腰を抜かせてしまいそうである。
「ひ―――」
怖い。もう帰りたい。
そう思っていても、足は律儀にまた歩を進める。
すると、いつも通る中心街のところにまで来てしまった。……まさか、ここまで歩いてくるとは思っても見なかった。
周囲に人の気配はない。ごくたまに、スーツ姿の人間とすれ違うか、明らかに酒の入った若者とすれ違うか……それぐらいだ。幸い、警察とは未だにすれ違ってはいない。警察に見つかれば確実に職務質問を受ける。
しかし、ここまで来ていると云うのに、なにも見つからないとなれば、やはりただの勘違いだったのではないのだろうかと思ってしまう。しかも、最初の音を聴いたのはコンビニエンスストアの前。ここからかなり離れている。あそこで聴こえた音の音源が、こんなところにあるはずがないない。
つまり単なる思い違い。それで処理しようと思った。
「……?」
ふと、夜空を見上げてみると、なにやらいつもと違う雰囲気を感じる。
煙いのだ。最初は雲だと思っていたが違う。空の方角を変えてみると、少しずつだが、夜の空が赤くなっているのである。
おかしい。まだ時刻は零時過ぎ。こんなに早く夜明けがくるはずがない。
「あそこだ……」
思わず、呟いてしまっていた。
すぐに走りだした。
走って、走って……加速する。自分でもこんなにも走れるものかと思ってしまったほどだ。走った事すら、一体いつ以来かも覚えていない。学校に遅刻する事もなく、余裕を持って歩いて行く事が殆どだった為、こんなにも必死で走るのが久しぶりであった。
徐々に赤さは増していく。それと同時に、周辺が明るくなってきた。街灯の明るさにしては、明る過ぎる。この辺りの街灯の数を考えたら、信じられない。まるで真昼のような明るさである。
それに加えて、この周辺の温度だ。とても暑い。残暑が残っていて、まだ暑いのは解るが……それとは比べ物にならない、尋常じゃないほど暑いのだ。
少し考えれば解った。……これは火事だ。
走る脚を速くする。一体どうしてそうしたのか解らないが、早く行かなければならないと思った。
こんなに赤いなら、もう既に長い間燃えていると考える。誰かが気づいて先に行って、早くの内に消防車を呼んでくれていれば良いのであるが……
「―――、―――、―――、」
そろそろ体力の限界が近づいている。ただでさえ喉が渇いていたと云うのに、さらに喉が渇く。喉に、へばりつくように唾液が垂れる。息を止めて、またすぐに吐く……すると、喉の奥から鉄の味―――血が、出ているかのように錯覚してしまう。
そうしてやっと現場にたどり着いた。
場所は、中心街を外れて、学校側とは違った方角に走っていったところにあるビル。この前の爆破ビルとは違うビルだ。
轟々と燃えている。火柱をあげて、ビルが燃えている。一体どれだけの時間、こうしたいたのだろう。もはや黒こげで、なにがなになのか解らなくなっている。音を立てて、壁が落ちると、それを支えにしていた別の壁もまた崩れる。
はっとして、辺りを見渡すと誰もいない。どうやら、自分が第一発見者らしい。
このままではいけない。しかし、この辺りの公衆電話など知らない。知っている場所と言えば、ここからだといつものコンビニエンスストアしかない。あとは学校の方角に行けばあるが……そこまで行っている暇はない。
立ちつくしている事数分。まだ、辺りに人が来る気配はない。
危険だと解っていても、また、一歩前に踏み出してしまう。ビルに向かって一歩ずつ歩いていく。熱風が、風に乗ってこちらにくると同時に、炎もこちらに手を向ける。一歩、後ろに下がって怯むと、それが抑えられたあとにまた一歩前に進む。
近づくに連れて解る、炎がものを燃やしている音と、臭い。ビルの中にあった備品が溶けている、鼻を突くような臭い。コンクリートが崩れて、鈍い音を立てる。
人は居なかったのだろうか……? ふと、そう思う。
恐らく、居たのなら手遅れだろう。ここまで燃えてしまって、生きて返ってこられる人間は少ない。深夜のこの時間、ビルの中に居る人間と言えば、警備員ぐらいかもしれないが。
目を凝らして中を見てみる。別に人を探している訳ではないのだが、中になにがあるのか、少し興味が沸いた。―――そんな事をしている暇があれば、早く公衆電話の方に向かえ、と、思考が命令しているが聴き入れない。
「―――ぅ」
これ以上近づくと拙い。急に息苦しさを感じて、咳きこんでしまった。
気持ち悪さが体中を支配して、ようやく理性が本能を抑えつける事に成功した。我に返った優愛は、火災になっている建物をこのままにしておく訳にはいかないと云う使命感のもと、ようやく踵を返して公衆電話の方角に向かう決意をした。
その後ろで、凄まじい爆発音がするまでは。
―――一瞬の出来事でなにが起こっているのか解らなかった。
その爆発の前に、先に聴いた乾いた音が聴こえたような気がした。
すると……大爆発だ。
「う、わ、っ、!」
自分の声がスローモーションで再生されたように感じた。
点滅する視界、鼓膜が破れたかと錯覚した。耳になにも音が響かなくなり、その状態がしばらく続いた。……もう耳が聴こえなくなってしまったのではないのかと思って、一瞬、怖くなって涙が出た。すぐに、聴力はもとに戻る。
胸をなで下ろして、今度は爆発音の方角を見る。
―――見えた。
「見えた」
思わず、口にしていた。
黒い人影だ。人の死体じゃない。
何故なら、それは動いて、踊っているからだ。




