本編 其ノ十二 -自覚-
バチン!!!と両頬に痺れるような衝撃が走り、私に組みついていた白いヤツが引き剥がされるように、連れ去られかけていた意識が急激に現実へと引き戻される。
「東雲くん!!!」
「え?」
目の前に柊さんの顔がある。彼女の両手が私の両頬をがっちりと掴んでいた。
私の連れ去られかけていた意識を現実に引き戻したのは、柊さんの必死の呼びかけの声と、彼女が両手で私の両頬を挟むように叩き付けた衝撃だろう。私はまだ混乱していて、今の状況がうまく掴めていない。
「東雲くん!私を見ろ!!しっかりと私を見るんだ!!!」
彼女はそう叫ぶと、頬に当てた両手にぐっと力を込める。
彼女は私の様子から何か察したのかも知れない。まだぼんやりとしている私の頭でも、柊さんが必死で私をこちら側に引き止めようとしているのが分かった。言われるがままに彼女の潤んだ瞳を見返す。
「私が誰か分かるか?!」
「・・・柊木葉さんです」
呼びかけに反応した私に一瞬安堵の表情を見せるが、すぐにキッと顔を引き締めると言葉を続ける。
「そうだ!私は柊木葉だ!私から目を離すなよ!キミは誰だ!!」
「東雲早雲です・・・」
柊さんは必死で私をこちら側に引きとめようとしてくれている。その行動が、私のボヤけた思考を現実に引き戻していく。
「キミは私に何をして、何処へ行こうとしていた!?」
「私は・・・私は・・・柊さんに無理矢理キスをして・・・我に返って・・・耐え切れなくなって・・・ヤツに連れ去られかけていました・・・」
どんどん柊さんの声と顔が鮮明に見えてくる。
「キミは・・・キミはアイ文を読んでしまったんだね?!恐らく一昨日に病院で実験をした後でだ!!」
「はい・・・申し訳ありません・・・嘘を付いていました・・・」
顔に添えられた両手にぐっと力が入る。
「私に迷惑掛けまいと黙っていたんだな!!相棒なんだから私を頼れ!!自分を大切にしろと約束しただろう!!!」
「申し訳ありません・・・」
柊さんは悲しげに顔を歪ませて、必死で私を心配してくれている・・・あんな酷い仕打ちをしてしまった私に対して、どうして彼女はここまで優しくしてくれるのだろう・・・
そんな彼女に私はただ謝ることしかできなかった。
「なんでキミは私にキスをしたんだ!」
「私が・・・柊さんを他の誰かに取られたくなかったからです・・・」
「なら良いことを教えてやろう!私に彼氏が居たことはない!人生で一度もだ!!キミはどうだ!?」
「わっ、私も・・・同じです・・・」
「キミは私が好きなんだな!?」
その言葉に今までずっとモヤモヤと抱いていた、自分でも持て余していたこの感情がなんだったのか、その疑問が氷解した。
そうだ、私は柊さんのことが好きなんだ。
それを意識した瞬間、ぱっと視界が開ける。
なんでこんな簡単なことがずっと分からなかったんだろうか。
多分、人を好きになるという事が怖かったのだ。幼い頃からずっと。
だからずっと分からない振りをし続けてきて、いつかし本当に分からなくなってしまったのだ。
だがその気持ちに気付いたところでもう遅い・・・
触るなと言われていたのに、逸る私はその約束を破ってヤツに触り泥を移され、アイ文を見てヤツに取り憑かれ、嘘を付いてそれを隠し、挙げ句ヤツにつけ込まれ、理性の制御もままならず無理矢理彼女の唇を奪って、傷付いた柊さんを見捨てて逃げようとした。
そんな人として最低な私が一体どの面下げて彼女に「好きです」と言えるのか?言えるわけが無い。
私の葛藤を察したのか頬に当てられていた両手に力が込められ、その圧で顔が内側に潰れて蛸のようになる。
「また小難しいことを考えているな!私はキスをされたことを怒ってるんじゃない!!私はキミが私のことを好きなのかどうかだけ聞いているんだ!イエスかノーか!!」
「東雲早雲は私のことをどう思っているんだ!!」
「!」
この時、彼女の持つ、強い意志の瞳に魅せられた。
白いヤツの白黒の濁った瞳とは正反対の綺麗な瞳。
その瞳が持つ強い意志とひたむきさが、私のちっぽけな卑屈さを打ち砕いた。
昔から私を縛り苛んでいたモノ、つまらない自己嫌悪、白いヤツから受けた泥すらも、この瞬間だけは何処かへ飛んでいってしまったようであった。
そうして、柊さんへの想いが堰を切ったように溢れた。
「すっ・・・好きです!どの面下げて言っているのかと思いますが、柊さんが好きです!」
「なら私を悲しませるな・・・!私は・・・怨霊如きに負けるようなヤツはお断りだからな!!」
そう言うと彼女は頬から手を離して、バッと私の胸に飛び込むと、胸に顔をうずめた。
柊さんの柔らかい感触と、タバコと柑橘系の混ざった匂いに、ドキドキして抱きしめ返していいのかも分からず、その背中に回した私の腕が彼女に触れられずに、宙に浮いた上体でぎこちなく上下に動かすことしか出来ない。
「全く・・・バカなヤツだよキミは・・・本当に放っておけない・・・」
その時私は胸の中で柊さんが震えていることに気付いた。
ドキドキしていた気持ちが消え、心底申し訳ないことをしたという思いと、そんな彼女を心から慈しみたいという気持ちが芽生え、宙を泳いでいた腕で彼女を優しく抱きしめる。
「柊さん」
「なんだ・・・?」
柊さんは顔を上げない。
「この件が無事に解決して、貴女のお兄さんや治が無事に意識を取り戻して、私の中からヤツが完全に消えたら・・・私は、貴女に交際を申し込んでもよろしいでしょうか?」
「ああ・・・待ってる・・・」
柊さんの手にぎゅっと力が入った。
「本当に申し訳ありませんでした・・・柊さん・・・」
「・・・木葉でいいよ」
「はい・・・木葉さん」
それから暫く木葉さんが落ち着くまで私は彼女を抱きしめ続けた。
「・・・もういいよ、落ち着いたから」
「・・・はい」
私たちは、お互いの温もりを残したままゆっくりと離れる。
木葉さんは少し照れくさいのか、離れるとすぐに私に顔が見えないようにそっぽを向いた。
「・・・私も話したいことがあるが、まずはキミの話を聞きたい。お茶を淹れるから座って待っていてくれ」
「はい」
私はいつもの位置に腰を下ろすと、木葉さんが淹れてくれた緑茶を受け取る。
お茶を淹れ終える頃には、いつもの木葉さんに戻っていた。
私は緑茶に口をつけて唇を湿らせると、病院でヤツに触れてしまってから今までに起こったことを、全て細大漏らさずに伝えた。
彼女は黙って私の話を聞き終えると、コーヒーを一口啜って口を開いた。
「東雲くん、今ヤツが見えるか?この部屋にいるか?」
「それが・・・木葉さんに呼び戻されてから、ヤツの姿が見えません」
話している最中も気にしていたが、改めて部室の中をもう一度ぐるりと見回してみるも、あれほど執拗に私のソバから離れなかったヤツの姿が一切見えない。それどころかその気配すら感じられない。
「キミはアイ文を読んで、ヤツの姿が現実でも見えるようになってしまってから、誰かと会って話したりしたかい?」
「いえ、ずっと家の中に閉じ篭っていましたので、誰とも会っていません。強いていうなら電話で父と話したくらいです」
「・・・もしかしたら、ヤツは取り憑いた者が一人の時か、一人じゃない時に現れようとするなら、取り憑いた人間の精神状態がかなり弱っていなければ、現れられないのかもしれないね。キミの弟くんの時も私の兄の時も一人のときにヤツに襲われているし・・・」
木葉さんは顎に手を当てて何やら考える素振りを見せると、立ち上がって携帯電話を取り出して何処かへ電話をかけだした。
私はそれを邪魔しないよう、お茶を飲みながら電話が終わるのを待つ。
「もしもし、先日お電話した柊ですが・・・はい、急で申し訳ないのですが、明日からに変更できますでしょうか?はい、二人です。はい、はい、ではよろしくお願いいたします」
電話を切ると振り向いてこちらを向いた木葉さん。
「東雲くん」
「はい?」
「急で悪いが、明日から私と旅行に行こう」
「・・・はい?」
急な展開に、彼女の顔を見ながらポカンとしてしまう。
言っている意味は分かるが、何故?と頭が混乱している。
「・・・どういうことでしょうか?」
「ホントならもう少し先にしようかとも思っていたんだが、キミにヤツが憑いた以上もたもたしていられないからね」
そう言って私の向かい側、木葉さんが座っていたソファーの後ろから、「よいしょ」と言ってLサイズ程の大きなスーツケースを取り出すとそれをコロコロと転がしながら私の横まで来る。
「まぁ、難しい話は後にしよう。キミ、相当酷い顔をしているからね。明日は朝一で新幹線に乗ってS県に行くんだから。今日は早く帰って英気を養い明日に備えるんだ。さ、行こう」
「え?え??」
私に手を差し出して何処かへ行こうとしている木葉さん。明日は朝一でS県に?そもそも一体今から何処へ向かおうとしているんだろう?帰るのかな??
何も分からないが、とりあえず彼女の差し出された手を握り返して私も立ち上がった。
木葉さんは私が立ち上がるために手を貸してくれたのかと思ったが、私が立ち上がった後もその手を離さないで握ったままだ。そして彼女は、右手で私の手を引いて左手でスーツケースをゴロゴロと転がしながら部室を出ようとする。私も手を引かれるがままそれに続く。
「あの・・・木葉さん、明日S県へ行くことは分かりましたが、今からは何処へ行こうとしているのでしょう?」
「何を言っているんだ?決まっているだろう。キミの家に行くんだよ。泊まらせてくれ」
「え?!ちょ、ちょっと待ってください!」
握られている手を優しく引いて、部室を出ようとしている木葉さんを引き止める。
私の部屋に木葉さんが来てくれることは何も問題ない、むしろ来て欲しいくらいだ。ただ今はダメだ、もしかしたら白いヤツが家に居て、彼女に害を及ぼしてしまうのかもしれないのだから。
「なんだい?見られたくないものでもあるのかい?大丈夫、私は気にしない。もしエゲツないのモノがあっても見て見ぬフリをするから」
冗談を言う木葉さんだが、彼女に害が及ぶと想像しただけで、一瞬にして余裕が無くなる。
「そ、そうじゃありません。今話したばかりでしょう、私の家にはヤツがいるかもしれないんですよ!?木葉さんにヤツが憑いてしまったらどうするのですか!」
「私の仮説だが、白いヤツはアイ文を見るか、直接触るかしなければ大丈夫だ。だから、むしろ二人でいた方がキミが安全なんだ」
「木葉さんのことは信じていますが、それはあくまで仮説です!何が起きるか分からないのに、木葉さんを危険な目に晒したくはありません!」
彼女は複雑な表情をすると、寂しげに笑う。
「でも、自分なら良いのかい?」
「・・・」
寂しげな瞳と共に投げかけられたその言葉に、私は二の句が継げなかった。
「いいかい東雲くん。キミは今私と居るからヤツが見えない。そして、ヤツに触っていないアイ文も見ていない私と、ヤツに触ってアイ文を読んで、挙句に連れ去られかけたキミ、一体どちらのほうが危険なんだ?」
その正論に何も言い返すことが出来ない。しかも、彼女は自分を危険に晒してまで、私のことを護ってくれようとしているのだ。
「ですが・・・」
「頼むよ・・・東雲くん」
もしかしたら、今抱いている不安以上の不安を、私は彼女に抱かせてしまっていたのではないだろうか?そう思うと、申し訳なさと不甲斐無さで胸が一杯になる。
「分かりました・・・恥ずかしい話ですが、この二日間一人でとても心細かったので、木葉さんが来てくれるなら嬉しいです。ですが、私は一人暮らし用の狭い安アパートに住んでいるんですよ?私と二人きりで夜を過ごすことになりますが、いいのですか?」
「キミなら大丈夫さ」
その一言と優しい笑顔に胸を穿たれる。私も自然、笑顔がこぼれた。
「・・・木葉さんには敵いませんね。嫌じゃなければ貸して下さい、持ちますよ」
「お言葉に甘えよう。キミの家の場所を私は知らないんだ、エスコートを頼むよお兄さん」
木葉さんからスーツケースを受け取ると、それをガラガラと引きずって、私の家へと向かう帰路を二人並んで歩き出した。