第五十五話 雪解け
お話の最後に、河川の氾濫に関する記述がございます
気象観測所からの通達はスナイデル領にも届いた。スナイデル領の雪量は例年とほぼ同じだったが、雪深い地域から流れてくる川がある。この川には雪解け水が流れ込むため、毎年春には流水量が増えるのだ。報告を受けたリヒトと工事にあたる面々は、老朽化した水門と堤防の修復をなんとか雪解けまでに終了させることが出来た。
追って届いた情報では、雪解けの頃に大雨が予想されるとのことで、河川の流水量が例年よりも増加する恐れがあった。もし工事が終わらなければ、大惨事となったかも知れない。リヒト達はホッと胸を撫で下ろした。
工事の完了報告を受けたスナイデル公爵が視察に訪れ、面々を労った。通常の報酬に加え、なかなか手に入りにくいワインや燻製肉などが支給され、慰労会も行われた。
公爵とリヒトは、同席すると工夫達が萎縮して楽しめないだろうと別室で酒を酌み交わした。壁の向こうから楽しげな声が聞こえてくる。
「ご苦労だったな。今年の春は川の水量が例年よりも増える見込みとのことだ。間に合って良かった」
「無事に終えて安堵しました。公爵閣下…」
「慣れないだろうが、父と呼ぶように」
「は、父上。修復工事も終わりましたので、私はアリシアを探しに出たいと思います」
「そうか。マリアンネ王女殿下も今のところは消息を掴めていないようだな」
「はい。各地の大雪に加え、大々的に捜索出来ないことと、アリシアの顔を知る者が少ないことが要因かと」
「アリシアの魔力がごく少ないこともな。お前は彼女の魔力を感じ取れるのだったな」
「…はい。アリシアの魔力はか細いのですが優しい…花のような香りがするのです」
それを聞いたスナイデル公爵は王宮の秘匿文書を思い出した。
…隠密の魔法を扱える者の魔力は花や草木のような香りがするというが…そのような魔力を持つ者はかなり貴重だ。本来であれば王宮で召し抱えられるべき人材だ…
…その魔力を感じ取れる者も少ないという。ヴィンセントは、アリシアの神託の相手はリヒトではないかと言っていたが…あながち間違いとは言えないかも知れぬ…
「アリシアの戸籍のことなら心配するな。信頼出来る者の養女と出来るよう取り計らおう」
「ありがとうございます、父上」
「だが、アリシアがお前の世話にならぬと拒否したとしても受け入れねばならぬ」
「…心得ております」
「間もなく雪解けだが、その頃は豪雨の予報もある。落ち着くまで、神徒の振る舞いを身に付けると良いだろう」
「承知しました」
女性神徒達のたおやかな祈りとは異なり、男性神徒達の祈りは雄々しく重厚感があった。年に二回、夫婦神がアルメニア王国を建国したとされる日と新年最初の日は、通常別々の神殿で神に仕えている男女の神徒が、共に祈りを捧げる。男女の祈りの音色が重なり、国中に響いて人々を祝福するのだ。
祝詞は冠婚葬祭や祈りを捧げる神によって異なるため、リヒトは全ての祝詞を暗唱出来るよう繰り返し唱えた。祭壇の前での作法も、わざとらしくならず、自然に振る舞えるよう努めた。
リヒトは神々にアリシアの無事を祈った。
スナイデル領はすっかり雪が溶けて春の陽気に包まれているが、北国の雪解けは遅い。アリシアが育ったフィデール領も、今年は例年になく雪が多かったという。
そうして、予報通り雪代の雨が降り始めた。
雨は北国の雪を溶かし、春の訪れを促した。だが、それは雨と混じり河川の水嵩を増しながら下流へと流れた。
スナイデル領の東部を流れる川も同様だった。南東部の治水設備は正しく機能し、水門で水量を調整しながら決壊を防いだ。しかし、さらに南のルクセン領は耐えきれなかった。いくつかの支流が合流する地点で堤防が決壊し、濁流が近くの町を襲ったのだ。
その地域は度々水害に見舞われることから、気象観測所でも厳重な警戒を呼び掛けていた。町の人々も心得ており、家屋の多くは高台にあり浸水は免れた。平地にある家屋は高床式で、殆どの家に舟が備えてあったため、人的被害は少なかった。だが、死傷者が出なかった訳でもなく、倒壊した家屋もあった。
そのため近隣の領に救援要請が出された。スナイデル領にも要請が届き、対応に追われることとなった。




