01 どうやら婚約者に嫌われているようです
もともと、好きかどうかはわからなかった。
幼い頃から決められていた未来を、そのまま受け入れるように育ってきたからだ。
ただ、家族から「今日から彼があなたの婚約者よ」と紹介されたから、そういうものなのだろうと思っていた。
広い応接室で、形式的に並んだ言葉と視線の中で、私は小さく頷いた記憶がある。
学生生活を終えれば、結婚するものだと、ついさっきまで思っていた。
この学園生活の延長線上に、結婚式があるのだと信じて疑っていなかった。
でも、そう思っていたのは私だけだったようだ。
誰もが同じ未来を見ているわけではないのだと、今になって気づく。
彼、つまり、婚約者は私のことが好きではないらしい。
私に向けられる視線や、交わす会話の少なさが、それを示していたのに。
気がつかないようにしていた。
でも、どうやら、婚約もなかったことに、したいらしい。
そう、御友人と話しているところを、うっかり聞いてしまった。
廊下の角、偶然通りかかっただけの場所で、声が漏れてきたのだ。
「違うんだ、ディア…」
婚約者であるギルツハークは私が聞いていたことに気がついて、顔色を変えた。
普段は崩れない表情に、はっきりと動揺の色が見えた。
ギルツハークでも、あんなふうに慌てることがあるんだと、少し面白かった。
私の婚約者、ギルツハークは、私といるときはいつも無表情だ。
まるで仮面をつけているみたいに、感情の揺れが見えない。
おしゃべりもほとんどしないから、何を考えているのかわからない。
沈黙の時間ばかりが、ゆっくりと2人の間に積み重なっていた。
壁、というやつだろう。
これこそ、まさに、壁。
それでも婚約者だと思っていたからおとなしく、傍でニコニコしていた。
微笑むことだけが、私にできる役割だったからだ。
この人と生涯を共にするのだから、理解できるようにならなくてはと私なりに努力をしていたのだ。
彼の沈黙の意味を、少しでも読み取ろうとしていた。
それなのに…
「クラウディアとの婚約をやり直せればいいのに」
そう御友人に愚痴を漏らしていたのだ。
ため息交じりの声が、耳から離れない。
実はうすうす、気がついてはいた。
私の前では無表情だけど、御友人の前ではよく笑っているし、おしゃべりもしている。
遠くからでもわかるほど、空気感が違っていた。
私の前でだけ無表情なのだ。
気づいていた。
誰に言われるまでもない。
その事実に気づくたび、見ないふりをしていたんだもの。
嫌われているかもしれない。
そう思うたびに、胸の奥が少しだけチクリとする。
誰だって、嫌われるより好かれたいものだ。
そういう意味で、私は傷ついていた。
でも、わずかな可能性として…シャイなだけなのかもしれないと思い込むようにしていた。
根拠のない希望だったけど、そう思い込むことでなんとか、婚約者という立場に立っていられた。
でも、思い込みは思い込み。
ギルツハークは、私との婚約を解消したかったのだ。
「ギル…、いえ、ギルツハーク様。そういうことでしたら、婚約を解消いたしましょう」
そう言って、いつものようにギルツハークに微笑んだ。
私なりに、ギルツハークに好かれるように努力してきたつもりだった。
悔しい。
こんなふうに、私のことを他の人に話されていることが、腹の底から悔しかった。
でも、表情だけは、これまで通り崩さないようにする。
悔しいから、絶対にギルツハークの前では泣いてやらない。
視界が滲みそうになるのを、必死にこらえる。
「だから…違うんだよ、ディア」
ディアとは、私の愛称だ。
ギルツハークが取り乱しているけれど、もう我慢するのはごめんだ。
「いいのです、ギルツハーク様。以前から、本当はわかっていたんです」
わかっていないふりをしていただけだった。
ギルツハークが焦っている理由はわかっている。
肩がわずかに揺れているのも、見逃さない。
婚約は、家が決めたこと。
それを当事者であるからといって、勝手に解消なんてできない。
長い歴史と体面が、私たちの背後にはあるのだ。
ギルツハークが心配しているのは、体面だろう。
「お互い、家のこともありますから、すぐにというのは難しいと思うんです」
静かに言葉を重ねると、ギルツハークは少しホッとしたようだった。
やっぱりと、心の中で拳を握る。
「ですから、こういうのはいかがでしょう。お互い、本当に好きな人を見つけてしまうんです」
そう、提案した。
窓の外の光が差し込む中で、その言葉だけが少し軽く響いた。
「それで、お互いに恋人ができてしまったんですって親に報告すれば『仕方ないわね』ってなるんじゃないでしょうか」
ギルツハークの口が開いている。
言葉を失っているようだった。
あまりにもいい案を出したから、驚いているに違いない。
私にだって、これくらいの考えは浮かぶのだ。
「い、いや、ディア。そうじゃないんだ」
ギルツハークがおどおどしている。
いつもより声が揺れていた。
そうじゃない?何かあるのかしら。
胸の奥に小さな疑問が生まれる。
もしかしたら…
「もしかして、ギルツハーク様、うちからお金を借りていたりしますか?」
「借りてない」
食い気味でギルツハークに否定されてしまった。
ハッとする。
お金を借りているわけじゃなくて、何か婚約を解消できない理由があるのかしら?
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだよ、ディア…」
ギルツハークはそう言って頭を抱えた。
指先で額を押さえるようにして、深く息を吐く。
そうじゃないなら、どういうことだろう。
これまでのギルツハークの行動を思い返してみた。
「…はっ!もしかして、ギルツハーク様はすでに、好きな方がいるのですか?」
思いついてしまった。
その瞬間、空気がわずかに変わった気がした。
ギルツハークの目が輝く。
「そ、そうなんだよ、ディア」
そう言って、私の手をとった。
そういうことだったのか。
私のことは好きじゃない。
でも、私との婚約は解消できない。
その理由は1つしかない。
ギルツハークの好きな人というのは、男性なのだわ。
男性との恋愛をどうこういうつもりはない。
でも、ギルツハークは兄弟がいない。
ギルツハークの家を継げるのは、ギルツハークだけ。
つまり、お相手が男性では…
「安心してください、ギルツハーク様。今は、養子縁組という制度もございますわ」
ご両親に突然、男性が好きなんてカミングアウトはできないだろうし。
そういうことなら、私がギルツハークの役に立ちそうな情報をかき集めるしかない。
そして、ギルツハークの両親にもしっかりお相手のことを認めてもらえるようにしてあげよう。
「こうやって1度は婚約者になったご縁もありますから、私、精一杯、お手伝いをさせていただきます」
そう言って、ギルツハークの手を握り返した。
ギルツハークは感動したのか、目が潤んでいる。
こんな表情が見られるなんて、頑張らなくてはいけませんわ。
順調に、養子縁組制度については調べることができている。
男性同士のパートナーであっても、経済力や家庭環境がよければ養子縁組できるようだ。
ギルツハークのほうは、婚約解消のための準備は整っていると言っていい。
きっと大丈夫。




