第十八話「現実と地続きの夢を見る(二)」
◆
風が吹き抜ける。僕はベンチにもたれている。
やけに霧の晴れていない天気。
誰かに呼ばれた気がした。制服を着ている女性が、僕を呼ぶ。姉貴が高校時代に着ていた制服だった。
僕は立ち上がり、彼女のほうへと向かった。
「誰?」
その顔かたちを見て僕は驚いた。
髪は短髪でこざっぱりしている。昔の姉貴そっくりだ。
僕は冷静になり、彼女を見つめる。
「僕は、未来治だけど」
「未来治? 奇遇だな。私の弟と同じ名前だ」
昔の面影で、姉貴によく似たこの彼女は、僕を怪しげなものとみなしている。
遠くで「織鶴!」と声がした。
立ち込める霧の彼方から、黒い影が見えてくる。ゆっくりとこちらにやってきた。
彼女より頭ふたつくらい背が高い、大学生らしき男性。
見上げるが、彼の顔はなぜか見えない。
「織鶴、どうしたんだ?」
この臭いは、タバコか。
タバコを吸う仕草で、姉貴の名を呼ぶ。織鶴って……まさか、彼女は姉貴か?
そんなはずないのに。
「姉貴」
ふと、僕の声が後ろから聞こえてくる。
振り向くと中学時代の制服を着た少年がいた。それは中学時代の僕だと即座にわかった。
「姉貴、その人と付き合っちゃいけないって、父さんと母さんに昨日言われたばかりだろ」
彼女はこの少年に、激昂した表情を見せる。
「子供が首を突っ込むな」
「僕をいつまでも子供扱いするなよ、僕だって傍から見て、姉貴とこいつが並んで歩いているのがとても変だよ」
彼女が一発、少年の頭をぶった。
「たかだか十四年しか生きてないお前が言うな」
「姉貴、もう少し冷静になれよ」
殴られたところで少年は怯まない。少年は自分が冷静な人間であるかのように振る舞う。
「未来治くんと言ったか?」
見下ろすように背の高いこの男が少年を見やる。
少年は見くびらず、威勢を張ってにらった。
「これは、君のお姉さんは自分の意思で決めたことだ、これは誇っていいことなんだよ」
「何言ってるんだ。姉貴はまだ大人じゃないんだよ。子供の僕でもそれくらいわかる」
「未来治!」
彼女がまた少年を殴る。
「そう怒るな、織鶴」
「すまない」
少年と彼が対峙する。
「君はどうして反対するんだ?」
「父さんと母さんが反対するから」
「じゃあ、君の意見はどうなんだ」
「父さんと母さんに同意だよ」
「どうして同意するのか」
「父さんと母さんが言うから」
同語反復の積み重ねが、僕には滑稽に見える。
「じゃあ、君個人の意見はなんだ?」
「だから、それは……父さんと母さんが」
相変わらず同語反復が続く。男はさすがに呆れ始めた。
「父さん母さんの話は聞いてない。中学生だろ、君は? もう少し自分の言葉で話したらどうだ?」
「それでも、父さんと母さんが悪いって言うから」
「人の言葉に甘えて発言している時点で、君は自分の言葉を持ってない」
「う……」
「家庭のしつけ云々の話もあるだろうが、いざ一人になったとき、君はどうするのかね?」
「それでも、僕は……」
次に言うべき言葉が見つからない少年。いくら脳みそを絞っても、何ひとつ反論できる言葉が出てこない。
「君のお姉さんは自分の判断で、お兄さんについてくることを選んだんだ」
男は白い煙を口から吐く。
「姉貴の前でタバコ吸うな」
「そうか、それは悪かった」
男の顔が見えない。霧も晴れる気配を見せない。
「君もわかる日が来る、それがわかった日は、君が君自身の言葉で喋れるようになった日だ。そのときは本当の意味で子供の身分を卒業できる」
彼女と男の二人は、この場から去った。
「ねえ、そこにつっ立ってるお兄さん」
少年が僕に聞いてくる。
「僕は姉貴のことが心配だよ」
不安がる気持ちもわかる。
「いま姉貴は、あいつとどうなってる?」
不安を形にして話してくる少年。
「いま姉貴は、あいつのことをどう思ってる?」
不安を次々と吐露してくる。
「その答えを教えて欲しいんだ」
思い出してきた。あの日あのとき、そしてあの後、何が起こったのか。
僕はこの「僕」に対して答えてやった。
「姉貴は、泣いたよ」
少年が勝ち誇った笑みを作り、僕は胸が張り裂けそうになった。
僕は少年という立場に甘んじていた時間が長かったんだ。
気づくと僕はベッドのシーツにくるまっていていた。
シーツから抜け出て起き上がる。
豪快にくしゃみをする。寒い。もしかして暖房が壊れてるのか? あとでフロントに言っておこう。
横のベッドで糸月ちゃんが気持ちよさそうに眠ってる。
僕はとてつもない気分の悪い夢を見たような気がする。
何の夢を見たのか。ベッドの枕元、デジタル表示のカレンダーが十二月三十一日を示す。途端に後味の悪いあの夢をまざまざと思い出した。僕はすぐさま部屋のトイレに駆け込み、胃液を吐き出した。
◆
「朝だぞ、熱彦」
姉ちゃんの声に起こされる。気づけば布団の中に俺はいた。眠ってしまったのだろうか。
それとも、あれは俺の夢だったのかと不安になる。
気だるげに身体を起こすと、姉ちゃんはすでに着替えていて、平然とした顔で浴衣姿の俺を見る。
「どうした、熱彦?」
「いや、おはよう。姉ちゃん」
俺は知りたかった。昨日姉ちゃんと交わした温もりが夢ではなかったことを。だが聞くのを憚れる。それを知ってはいけないんだと、理性が働いたから。
気まずい空気がさらに気まずくなるから?
いや、無粋なんだ。これを聞くことが姉ちゃんと俺との間の空気をしらけさせる。容易に予想ができることだ。
口には出さないようにしよう。
この疑問視を言葉にすることが、あのことが嘘ではないかという疑問につながりそうで。それで何か壊れてしかねない。だから俺は黙った。
だから直接聞かないように、俺は何気なくこの場で着替えようとした。
リュックサックを投げつけられた。「脱衣所で着替えてこい!」と怒鳴られ、俺はしぶしぶ木戸を開けて着替えをする。
やっぱり夢だったのか?
朝食後、部屋の外を眺める。
昨日に引き続いて雪が降りしきっていた。
「どうも晴れそうにないな」
この町の海を眺めたかった。昨日からの雪で、海に行くことはできない。むしろ、天気予報によると昨日よりも降雪量は増えるらしい。
「今日は部屋に閉じこもるしかないな、姉ちゃん」
「……」
返事をしない姉ちゃん。
「姉ちゃん?」
姉ちゃんは座布団に腰をおろし、押し黙って、真剣な考えごとをしているようだった。
顔が歪んで怖い。
「熱彦」
姉ちゃんの厳しめな眼差しが俺を見る。
「海に行こう」
「え?」
昨日、海に行くことを拒んだのに。この豪雪の中、どうして海に行こうと言うのか。
「冗談よしてくれよ、この雪の中を」
「熱彦」
座って膝を畳につけながら俺のそばににじり寄る。
「ついてきてくれないか」
「俺は……」
「頼む」
何か深い理由がありそうだ。姉ちゃんの真剣さに引っ張られる。姉ちゃん一人で行かせたら何が起こるかわからない。突発的なことを姉ちゃんがするはずがないが、俺はそんな不安が頭にちらつく。
「わかった、行くぜ」
「すまない、熱彦」
雪が降り積もる町、雪かきに追われる人々、こんな天気に観光客も少ない。
積った雪を踏みながら、俺と姉ちゃんは町を歩く。いま姉ちゃんの足は、海の方向へは向かっていなかった。
姉ちゃんは通りがかりの店で、白い花を一束買った。
なぜ花束なぞを買ったのか?
姉ちゃんは白い花束を持ったまま、その場で立ち尽くす様子を見せた。
「姉ちゃん?」
俺も姉ちゃんも、コートを着ているとはいえこの寒さは耐えかねる。姉ちゃんは震えていた。だが、それは寒さゆえの震えではない。何か感情を殺している震えだと俺にはわかる。
「姉ちゃん」
「……」
「泣いているのか?」
「熱彦……」
震えた右手を姉ちゃんが差し出す。手袋をはめていない細い指が雪と同じくらいに白い。
「手を握ってくれないか」
「ああ」
普通ではないのはわかる。何かに耐えている。
姉ちゃんの手をそっと握った。
ため息よりも深い呼吸をひとつして白い息を吐く。
「よし行こう。熱彦」
「大丈夫か、姉ちゃん」
何も察することはできない。姉ちゃんはいったい何をしようと? 疑問の渦中、俺ができることは、姉ちゃんが衝動に駆られて何かしでかさないよう見守ることだけだ。
いや、無理だ。
姉ちゃんが衝動に走ったら、俺は止められる自信がない。
だから俺は姉ちゃんの右手を強く握りしめた。
「痛い、熱彦」
「ごめん」
重い足取りで風が吹く方角に向かう。
雪が身体の芯に突き刺さる。冷たい手を握りしめながら、進んでいった。
海が見えてから、姉ちゃんの足の運びが鈍る。
「姉ちゃん?」
「大丈夫だ」
「そんなに無理して行くことないぜ」
「いや、行かないと」
「姉ちゃん……?」
「今日、行かなくてはならないんだ」
今度は姉ちゃんが俺の手を握りしめる。痛いけど俺は決して痛みを訴えないよう努める。姉ちゃんはいまにも泣きそうになっていた。姉ちゃんの顔を見ず、俺も自分の顔を見せぬよう俯く。俺自身が心配をかけていることを知れたら、姉ちゃんの心を余計に重くする。
町を抜け埠頭に出て、海の全貌が視界に入る。荒波が飛沫をまき散らしながらうねりを見せる。
誰も来るはずがない、この天気の中……。
「寒いか、寒いだろうな……こんなに待たせて、本当にすまない」
姉ちゃんが突然、取り乱したように一人叫び出した。
それは俺に向かって放った言葉ではないようだが、その叫びの意味をまったくつかめられない。
「私は来たぞ」
姉ちゃんの異常な言動に、なすすべなく、ただ見ていることしかできない。
「冷たいか、寒いか? 私に気づいてくれ」
姉ちゃんは誰に向かってこの言葉を投げかけているのか。
「海人……」
姉ちゃんの手に込められた力がふっと消えた。
あやつり人形の糸がすべて切れたように、倒れた。白い花束が音もなく落ちて、花びらが強風に乗って飛ばされていく。
仰向けで空を眺める姉ちゃん。俺が握りしめるその手だけが、浮いていた。
「姉ちゃん?」
俺は驚いて、その手を離してしまった。離した手は空に向かって何かを掴もうとするかのように、しばらく浮いていた。その手を広げ、瞼から一筋の涙が流した後、姉ちゃんの手がゆっくりと落ちる。そして深い眠りに入ったように気絶した。
「姉ちゃん……?」
何も答えない。
正面に佇む大きすぎる海に見捨てられ、まるで放り出されたかのように、姉ちゃんは眠った。