四、遺志(27)
青年の手首を掴んでいたのは――
「…………、あ」
「ちょっと!しっかりしなさいよ。
……大丈夫?」
女性の声が、彼――ブラックを現実へと引き戻す。
光も色もなく、暗闇だけが広がる……現実、へと。
「……ああ、すみません。眠ってしまっていたんですね」
あの夢を見るようになってから、思えば満足に眠れていない。
宿屋に戻り、部屋に入って――そのまま、寝こけてしまったとして不思議はなかった。
――ロウが知ったら、ほれみろ、なんて言って、肘で小突かれるのだろう。
そんな情景が容易に想像できて、ブラックは思わず苦笑した。
「随分うなされてたみたいだけど……」
カトレアの声。続いてことり、とテーブルに何かが置かれた。
「夢を……見ていました」
「そう。そういやそんなこと、会ったときも誰かが言ってたわね。
目に隈ができてるわ。……これでも飲んで、落ち着いたら?」
鼻をくすぐる香りからして……花茶の入った小型のカップだろうか。
「…………。あ、ありがとうございま……す」
ちょっとだけ、嫌な予感に顔が引き攣る。
カップを取ろうとする手が、躊躇した。
「遠慮しなくていいわよ。
不眠症とか心の病にも使われる、花のお茶なんですって。さっき女将さんが届けてくれたわ」
いや、問題はそこではないのだけれど。
しかし彼女の好意を無下にはできず、恐る恐るカップを口に近づけた。
林檎にも似た、湯気の香り。それから、
「――ッ!!」
彼は反射的にカップを机へ戻した。
「え、ど、どうしたの!?」
がしゃん、と響く音にぎょっとするカトレアだったが、
「…………、あつい」
半泣きで舌を出す青年の姿に、絶句した。
花茶が冷めるのを待って、少しずつ飲み干してから。
ブラックはぽつぽつと、繰り返し見た夢の光景を語った。
凄惨な夢を語ることに戸惑う青年に、カトレアは夢も現実もさして変わらないと、欠伸などしながら答える。
少女のそんな、意に介さない態度は……ブラックにとって、却って有難いものだった。
「……ふーん。
でも何だか、どこかで聞いたことあるような話ね」
「え、そうですか……?」
カトレアは頬杖をつき、両足をぷらぷらとばたつかせながら天井を仰ぐ。
「――あ、思い出した!
自分の子供だけじゃなく、村人みんなを守る為に戦った……聖騎士リフ=トラスフォードの話によく似てるって思ったんだわ」
ぽんっ!と両手を合わせるカトレア。
「リフ=トラスフォード?」
鸚鵡返しに呟くブラックに、彼女は一瞬きょとんとして、
「え、知らないの?そのとしで?
……って、ああ、そっか。記憶がないって言ってたっけ」
ごめんごめん、と、悪びれた様子もなく笑ってみせる。
「すみません……」
「なんで謝んのよ、好きで記憶喪失やってるわけじゃないでしょ?
聖騎士リフ=トラスフォードは、フォーレーン王国きっての英雄だった女性騎士よ」
こういうのはジャスティンのが詳しいんだけどなー、とぼやきながら、カトレアは話を続ける。
「漆黒の聖騎士と呼ばれたラグナ=フレイシスの母親で、彼と肩を並べるクラリス=トラスフォードの育ての親。強いだけじゃなく、後進もしっかり育ててたわけね。
……ふたりともいまのフォーレーンじゃ知らない人はいないレベルなんだけど、まあ、たぶん知らない――というか覚えてないわよね。
ああ、謝らないでね鬱陶しいから。キノコ生えちゃう」
「すみま――あ、はい。育ての親……ですか?」
すみませんと言おうとして、出鼻を挫かれる。
このカトレアという少女。たよりなげな容姿に反し、とてもはっきりした性格のようだ。
「紫電の剣士クラリスって人は、孤児だったらしくてね。
聖騎士リフに養女として引き取られて、後継者としてトラスフォードの名と聖騎士リフの剣を受け継いだんだそうよ。
吟遊詩人たちが好みそうなエピソードよねぇ、こういうの」
「へえ……」
しきりに頷くブラック。カトレアはそんなに首を振って大丈夫なのかと不安を覚えながらも、少年のような彼の反応にくすくすと微笑んだ。
「聖騎士リフの存在は、フォーレーンの民衆にとって希望そのものだった。……なんて、サーガでは謳われてるわ」
「そんなに凄い人だったんですか……」
「ええ。だからこそ彼女の訃報は、フォーレーンの人たちにとって大きな衝撃だった。
国じゅうが泣き暮れた、なんて言われるくらい」
……訃報。
そのくだりに、思わずブラックは呆然とする。
「……、え」
「彼女たちの移り住んだ村が、凶悪な山賊に襲われたんですって。
聖騎士リフとその夫、騎士レムサス=フレイシスは村人を守る為に山賊たちと戦い――」
カトレアの言葉が途切れた、一瞬の沈黙。
息継ぎ程度のそれは、青年にとっては何時間にも感じられた。
「騎士レムサスは村人たちを逃がした大門を、その命尽きるまで守り抜き。
聖騎士リフは、本人も深手を負っているにもかかわらず、重症だった村の子供を隣町の教会へと送り届けて……
――そこで、力尽きたそうよ」
から、ん。
かららら、ら……ん。
壁に立て掛けていたブラックの剣が、床に転がる。
その音はやけにけたたましく、部屋に残響した。
「…………、」
英雄譚の華々しさと、山賊に命を奪われたというそのエピソードは、俄かには結びつかないものだった。
村人を庇いながらといえ、救国の英雄がいち山賊団に、そうそう遅れを取るものだろうか?
ブラックがその疑問を唱えるより早く、カトレアはその答えを提示した。
「あとで判ったことらしいんだけどね。
騎士レムサスは愛用の武器を鍛冶屋に預けたまま、間に合わせの武器で戦ってたんですって」
――「あ?ははは……ちっと、斧はいま鍛冶屋にあってな」
ぐらり。
不意に、眩暈を覚える。
厭な汗が、頬を伝い――おちる。
「息子ラグナの為に、愛用の斧を剣に打ち直させていたそうよ。
親から子へ、受け継がれた……騎士の魂、ってトコかな。それが――」
「カトレアさん!!!
それ……その話ッ!もっと詳し――」
がたんと立ち上がり、カトレアに掴みかからんばかりに身を乗り出す盲目の青年。
いままで座っていた椅子が勢いで床に転がり、椅子の足にぶつかった剣が足元で再び床を滑る。
がらららら、ん。
やがて剣はブラックの足元へ転がり、寄り添うようにして……停止した。
カトレアが大きな瞳を更に見開き、口を開きかけたそのとき。
「よう、戻ったぜー」
からり、部屋の扉が開け放たれた。
「あら、意外に早かったのね」
「……うん、あー……なんつーか……」
小首を傾げるカトレアに対し、ロウの返答は煮え切らないものだった。
ロウとラグナ、ジャスティンは複雑そうに顔を見合わせている。それはお世辞にも、凱旋らしいものではなかった。
実際、領主が成敗されたとなれば街はもっと騒ぎになっているはずで。
「それが……よ」
ロウはかりかりと無造作に頭を掻き、経緯を語りはじめた。