四、遺志(26)
その晩。
――『僕』はまた、あの夢を見た。
――……ちゃ。
「にいちゃ?……にいちゃっ!」
あどけない声に、はっとして『僕』は振り返る。
こちらを見上げてくるのは――二、三歳くらいだろうか。幼い少女だ。
目が合うと、その円らな瞳はにっこりと満面の笑みを象った。
少女のちいさな手が『僕』の手を握り、ぐいと引っ張ってくる。
次の瞬間、その手にひかれ数歩前へ進み出たのは――
一二、三歳くらいの、少年だった。
短く切り揃えた黒髪に、動きやすそうな白い服と藍い外套を羽織っている。
少年はちょっと困ったような顔をして、少女の頭を撫でた。
「兄さーんっ!ティーニっ!」
遠くから近づく人影に、少女はぱあっと表情を輝かせる。
「にいちゃ!にいちゃ!!」
息を切らし駆け寄ってきたのは、小柄な金髪の少年だった。
少女はぴょんぴょんと飛び跳ねて、彼を出迎える。
「ティーニ、転んだら危ないから飛び跳ねるなって!」
「にいちゃ、にいちゃ♪」
「もぅ、人の話聞いてるのかぁ?」
頭を抱える彼の、しかし口元は笑っていた。
「あははは。ティーニはお前に懐いてるからな。
それで、どうかしたのか?」
「あ、うん。父さんが兄さんを探してたよ!」
思い出したようにぱちんと手を合わせ、金髪の少年はそう告げる。
「父さんが?」
「いまは仕事場の方に行っちゃったけどね。
ティーニは僕が見てるから、行っておいでよ!」
彼はしゃがんで少女に目の高さを合わせると、その両手で彼女を抱え上げた。
「ああ、わかった。
――頼むな、『お兄ちゃん』」
「……っ!
うんっ!任せてよ!!」
胸を張り、誇らしげに頷くその姿に、知らず笑みがこぼれた。
それはとても懐かしくて、じんわりと、胸が温かくなる。
あの黒髪の少年が――『僕』なのだろうか。
ところが。
ざわり、ざわり――と、温かな感覚を徐々に蝕むものがあった。
コノママデハ、イケナイ。
はやく、はやく――急き立てるよう、何かが心を揺さぶって離さない。
きゅ、と。
息苦しさを覚え、胸元を握り締める。
黒髪の少年は足を止め、周囲を見回していた。
その次の、刹那。
周囲に景色がひろがり、
同時に、
遠くから――その景色をつんざくような、叫び声が聞こえた。
「山賊だぁぁぁぁぁぁっっっ!!!
みんな、早く……はやく逃げるんだっ!」
誰かの声。次いで、幾つも悲鳴が轟く。
逸る鼓動と共に速度を増す足は、しかし逃げ惑う村人とは逆行していた。
いつの間にか、
『僕』の視界は、黒髪の少年と重なる。
ただひたすらに、地を蹴って、蹴って、蹴飛ばして、
どれだけ走っただろうか。
目まぐるしい速さで通り抜けていった景色は、速度を緩め……やがて、停止する。
そこに映ったものは、
数名の山賊と戦う、男性の姿だった。
先程の少年によく似た、金色の髪。両手剣を握り、山賊の斧を防いでいる。
が、彼は何故かとても戦いにくそうに見えた。
感じた違和感が『僕』のものなのか、それともこの少年のものなのか。
判別できず混乱していると、男性は辛うじて山賊を退けたようだった。
「――父さん……ッッ!!」
僅か、揺らぐ、少年よりずっと大きな体躯。
少年――いや、『僕』は慌てて駆け寄り、じっと彼を見据えた。
「おお、無事だったか!」
「俺は大丈夫……それより、なんで剣で戦ってるの!?
斧はどうしたのさ!!」
その声に、『僕』の違和感は氷解する。
ああ、そうだ。
彼の動きは、剣を扱う者の動きではなかったのだ。
「あ?ははは……ちっと、斧はいま鍛冶屋にあってな」
「もう!何やってるんだよ!!
…………ッ!?とう……さん……怪我、してる……の?」
腹部に朱い染みが滲むのを見咎め、『僕』は青ざめる。
男性――父は、口の端に笑みを浮かべ、
「はっ、こんなもん掠り傷だ。
それより、お前は早く家に戻れ。母さんたちが心配だ」
「嫌だッッッ!!!
山賊が襲ってきたんだろ!?俺だって戦えるよ!!」
真っ直ぐに睨み返す『僕』を、父の怒声が一蹴した。
「馬鹿野郎ッッッッ!!!!
戦場も知らねぇガキが、生意気言ってんじゃねぇッッ!!」
思わずぎゅっと目を瞑り肩を震わせ、それから、おずおずと目を開く。
「ッ!?……とう、さん……」
「――……、男にはな。
例え命と引き換えにしても、やんなきゃならねぇコトってのがあるんだ」
――名前を。
呼ばれたような、気がする。
なのに、その部分だけ靄がかかったように聞き取れなかった。
「判んないよ!!
父さんも母さんも、命は何よりも大切だって言ってたじゃないか!」
「ああ、大事だ。だから、俺は身体を張るんだよ。
――大切な家族の為に、な」
誇らしげに笑う、その声は、表情は。
真夏の太陽のように眩しくて、
なのに、
何故だか、胸を締めつけられるようで。
「…………ッ、」
「お前にもあるだろう?守るべきものが」
ずっと高い位置にあった父の碧い双眸が、『僕』の目の前にある。
「母さんもきっと戦ってる。けどな、敵の数も多い。
弟や妹は……誰が守るんだ?」
「それは、…………」
「判ったならさっさと行け。ここは、父ちゃんに任せてよ」
ぽん、と、頭に乗せられた大きくて肉刺だらけの手。
その温度を感じながら――
これが最後なのだと、『僕』は理解した。
――父さんは、死ぬまで戦い続ける。
覚悟を決めた者を止めるだけの力も言葉も、幼すぎる『僕』にはなくて。
「……イヤ、だからね。
絶対――ゼッタイ、死んだりしたら嫌だからねっっ!!!」
叶わない願いなのだと、きっと知っていた。
それでも。
そうであったとしても。
早く行けと促す大きな背中に、『僕』は、叫ばずにはいられなかったんだ。
滲む景色を抜けて、一軒の家の前で立ち止まる。
が、扉が壊されているのを見れば、腰の剣を引き抜き、中へと飛び込んだ。
「……母さん!?」
ふらり、背中を預けていた壁を離れ、黒髪の女性が覚束ない足取りで近づいてくる。
「!……貴方も無事だったのね、よかった」
その壁にはべったりと、血の痕が残されていた。
「な、……かあさ、ん……?
……そんな、どうし……て、」
「大丈夫。そんなに深い傷ではないわ」
母さん――そう、幼い『僕』が呼んだ女性は、奥の部屋へ続く扉を顎で指し示す。
「奥に二人がいるわ。
はやく……行ってあげて!ティーニが――」
「ティーニが!?」
あどけない笑顔が脳裏に過ぎり、消える。
「急いで、二人を連れて裏口から逃げなさい」
「え……母さんは!?
母さんだって、酷い怪我じゃないか!」
彼女はゆっくりと、首を横に振る。
「私には、まだやるべきことがあります。
村にまだ人が残っているかもしれないのに、治療など受けている暇はありません」
「母さん――」
「それから。……これをレイチェル様に」
なおも縋る『僕』の声は、金属音に遮られる。
掌に、硬く冷たい感触。
覗き込むと、勲章には黒いグリフォンの紋が刻まれていた。
「これ、は……?」
「これを見せれば、レイチェル様なら判ってくれると思うわ」
『僕』の指を折り畳むようにして。母はそれを、無理矢理握らせる。
「……………………」
ざわり。
不愉快な感覚が、胸の中で蠢く。
「さぁ、行きなさい」
「……母さん……――ッ」
「……、あの子たちを――お願いね」
ああ、まただ。
その唇が、『僕』の名前を紡いでいると判るのに。
そこだけが、いつも聞き取れない。
彼等がつけてくれたその名前が、何なのかすら判らない。
ここにいるのは――誰なのか、その問いに答えるものはない。
しゃがみ込んで『僕』の顔を覗き込む母は、穏やかな笑みを湛えていた。
託された、その、信頼を。どうして裏切ることなどできるだろう。
ついさっき感じたもどかしさと同じ。
駄々を捏ねることもできなければ、状況を変える言葉も力もまだ持っていない、宙ぶらりんの状態。
一度、下唇を噛んで。
そして。
『僕』は顔を上げると、なんとか笑みをつくってみせた。
「……だい、じょうぶだよ。
任せてよ!……俺に、まかせて……よ」
口が乾ききっていて、言葉が掠れる。
胸を叩いてみせる手には、爪が深く食い込んでいた。
足枷を嵌められたように重い足を、運び、弟妹の待つ奥の部屋へと向かう。
――「ありがとう」、と。
背中越しに、母の最後の声を聞いた。
重い足取りはやがて、弟妹の待つ部屋に『僕』を運ぶ。
カーテンで閉めきられた薄暗い部屋に、時折すすり泣くような声が響く。
――知っている。
――『僕』は、この場面を……知っている。
震える足。一歩ずつ、歩を進める先に、
人影らしきものが薄っすらと浮かび上がった。
蹲っている人影は、金髪の少年。
彼は、大事そうに幼い少女――ティーニを抱え、声を殺して泣いていた。
『僕』は息苦しさの中、拒む足を一歩ずつ少年へと運ぶ。
軋ませていた歯が、知らずかたかたと震えだした。
生気のない肌。力なくしな垂れた腕。
そして……そこに伝う、赤銅色の雫。
――「……許さない……っ……絶対に、あいつ等を許さないッッ!!!」
『僕』は、少年へと手を伸ばし――
ぱしん。
しかしその手を取ったのは、少年ではなかった。




