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最終章「面白ければ、それでいい」

・全員笑って帰ってください


 都内最大級のシネコン、一番大きなスクリーンを備えたシアター1。最新作の完成披露試写会は、超満員の観客の熱気でむせ返るようだった。関係者席の端っこに座りながら、私は祈るような気持ちでスクリーンを見つめていた。


 今日この日まで、色々なことがあった。


 牛丼屋での打ち合わせは「深夜の密会デート」として世間に消費され、疲労困憊の生活は「親近感の湧く天才の素顔」としてお茶の間に感動を呼び、時差ボケによる生返事は「カンヌを揺るがす名言」として歴史に刻まれてしまった。


 私の人生はいつだって、私の意図しない方向へと勝手に転がっていく。


 でも、映画だけは別だ。スクリーンに映るものだけが、私のコントロールできる唯一の真実なのだ。


 上映開始から三十分。スクリーンの中で、瀬戸くん演じる主人公が道を歩いている。そこへ一匹の犬が猛スピードで駆けてきて──濡れたマンホールで見事に足を滑らせ、ツルッ! ドシャァッ! と派手に転んだ。


 主人公はそれを、ただ無言で見つめている。私が企画会議の最初に提案した、あのシーンだ。


 劇場が揺れるほどの笑いが起こった。


 上品な微笑みでも、芸術を解するような知的な笑いでもない。お腹を抱え、涙を流してゲラゲラと笑う、純度百パーセントの歓声。その後も、テンポ良く繰り出されるギャグの連続に、客席からは絶え間なく笑い声が上がり続けた。


 私は暗闇の中で、深く、安堵の息を吐いた。


 良かった。ちゃんと伝わってる。橘プロデューサーが何と言おうと、カンヌの評論家がどう評価しようと、目の前の観客はただ「面白いコメディ映画」として楽しんでくれている。


 私がやりたかったのはこれだ。ただ全員に、思いっきり笑って帰ってほしかっただけなのだ。やがてエンドロールが終わり、場内が明るくなる。割れんばかりの拍手が鳴り響く中、私は確かな手応えを感じていた。


 ──しかし。


 上映後のロビーに出た瞬間、私のささやかな達成感は、見事に打ち砕かれることになる。


「いやぁ、お見事。素晴らしい傑作でした」


 目を真っ赤に腫らした初老の映画評論家が、私の手を両手で固く握りしめ、震える声で語りかけてきた。


「一見するとドタバタ喜劇のようですが……その実、あれは『笑いとは悲しみの裏返し』であるという、シェイクスピアにも通じる真理を見事に描き出している。犬が転ぶシーン、あれはまさに『人間存在に対する根源的な問い』ですね」

「……はぁ」


 隣では別のカルチャー誌の記者が、興奮冷めやらぬ様子で橘プロデューサーにまくしたてている。


「瀬戸悠人のあの虚無的な表情! 無関心な大衆を体現していましたね! 現代社会の分断と冷酷さに対する、強烈な風刺……! 神崎監督は、ついに喜劇の皮を被った悲劇を完成させたのですね!」


 橘プロデューサーも「ええ、彼女の狙い通りです」などと涙ぐみながら頷いている。


(違う。ただ笑わせたかっただけなんだけど)


 私のささやかな抵抗など、彼らの分厚い深読みの前では塵芥に等しい。結局、私が何を創ろうが、世間は「神崎怜奈の作品だから」という理由で、勝手に芸術性を付与してしまうのだ。


 そんな狂騒のロビーの片隅で、一人の若い記者がマイクを向けてきた。


「神崎監督! 最後に一つだけ質問をお願いします」

「はい」

「これほどの傑作を生み出し続ける監督にとって……ズバリ、『映画』とは何でしょうか?」


 出た。カンヌでも聞かれた、その壮大な質問。


 私は少しだけ口ごもり、視線を宙に彷徨わせた。


 私にとって、映画とは。


 いや、映画に限らず、私の人生そのものとは。


 ふと、脳裏にある光景がフラッシュバックした。


 あの日の撮影帰り。ロケ車の後部座席でSNSに投稿した、私の一枚の「事故画」。

 

 思えば、あの事故画からすべてが始まったのだ。


 牛丼屋での熱愛騒動も、床で寝落ちした密着番組も、カンヌでの時差ボケ名言も、そしてこの「芸術作品」と誤解され続けるコメディ映画も。


 私の人生そのものが、壮大な「事故画」みたいなものじゃないか。


 本人の意図とは違うところで誤解され、歪み、勝手な意味を持たされる。


 でも、そのノイズこそが、誰かを楽しませ、誰かの心を動かしているのだとしたら。


「……完璧じゃなくても」


 私はゆっくりと、でもはっきりとした声で答えた。


「面白ければ、それでいいと思います」


 その言葉を聞いた瞬間、若い記者の顔がパッと輝き、猛烈な勢いでメモを取り始めた。


「完璧でなくとも、面白いこと……! なるほど、不完全なこの世界そのものを肯定する、究極の人間讃歌ですね……!」


 私は小さく肩をすくめた。


 控え室への通路を歩きながら、隣を小走りでついてくるマネージャーが呆れたようにため息をつく。


「怜奈。今の発言、また明日ネットニュースで『神崎監督、世界を肯定する名言』とか言って絶対深読みされるわよ」


「でしょうね」


 誤解されるのは面倒だし、時差ボケは辛いし、相変わらず毎日八時間寝たい。でも、私が作り出した「事故」で、世界がこれだけ勝手に踊って笑ってくれるのなら、案外悪くない人生かもしれない。


「まあ、いっか。面白いから」

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