第22話:手紙
雨の翌朝。
斎藤の研究室の扉の下に、一通の封筒が差し込まれていた。
薄い便箋に淡いインク。封はされておらず、そこには見覚えのある筆跡があった。
――伊庭玲奈。
斎藤は、手を止めたまましばらく動けなかった。
彼女はすでに退院し、消息を絶っていたはずだ。
それでも、その文字には確かに“生の温度”があった。
封を切る。
紙の中には、ひとつの文だけが書かれていた。
> 「祈りと観察は同じ。
> だからあなたは、祈ってはいけない。」
その下に、震えるような筆跡で小さく続きがあった。
> 「――もし祈ってしまえば、“それ”はあなたを見つける。」
窓の外では、風が雲を裂いていた。
雨上がりの陽光が机を照らす。
斎藤は手紙を読み返しながら、静かに目を閉じた。
机の上のガラス片が、微かに光を反射している。
昨日、封鎖施設から密かに持ち出した鏡の欠片。
中で淡い波が揺れていた。
「……彼女は、見たのか。」
斎藤は呟いた。
「“それ”を、完全に。」
指先が自然にガラス片へ伸びる。
温かい――。
だが、その感触は皮膚ではなく、内側から伝わるようだった。
> ぴちゃん。
音がした。
微かな、しかし確かにあの音。
心臓の鼓動と同じリズムで響いてくる。
手紙をもう一度見た。
そこに新しい一文が浮かんでいた。
インクではない、水滴の跡で描かれた文字。
> 「見ないでください。」
斎藤は一歩、後ずさる。
「伊庭……君はどこまで……」
風が吹き、窓の隙間から一枚の紙が机に落ちた。
古い実験記録――黒瀬の筆跡。
“観察と祈りの同化について”と書かれている。
その余白に、過去の斎藤の文字が重なっていた。
> 「祈るとは、対象を確定する行為である。」
そして、下に伊庭の文字。
> 「――だから、祈りは観察の完成。」
手紙と記録が一枚の紙に重なって見えた。
まるで時間そのものが折り畳まれたように。
斎藤は震える声で呟いた。
「君は、境界を越えたのか……。」
――ぴちゃん。
再び、音がした。
ガラス片の中で波紋が広がり、中心に、白い指先が浮かび上がる。
「……伊庭……!」
彼は机を掴む。
だがその瞬間、ガラス片の中の“手”がゆっくりと動いた。
外に出ようとしている。
> 「祈らないで。」
声が響いた。
男でも女でもない、淡く透き通る声。
それが部屋中に反響し、壁の時計がひとりでに動き出した。
00:00:12。
針が止まる。
そして音が、静かに響いた。
> ぴちゃん。
手紙の端が濡れ、インクがにじむ。
そこに最後の一文が浮かんでいた。
> 「――私は“中”にいる。
> でも、まだあなたを見ている。」
斎藤は静かに封筒を閉じた。
それを引き出しにしまい、鍵をかける。
その後、彼は日記にこう記した。
> 「祈りと観察の区別は、もはや存在しない。
> もしこの手記を誰かが読むなら、それもまた“観察”である。」
夜になり、机の引き出しから微かな音がした。
鍵は閉じたまま。
それでも、確かに聞こえた。
> ぴちゃん。
封筒の内側から、光が滲んでいた。




