第15話「双方向(後篇)」
――静寂。
実験室のすべての機器が停止していた。
けれど、鏡だけは動いていた。
まるで呼吸するように、内側から光が脈動している。
黒瀬は、その前に立っていた。
白衣の裾が濡れている。
床に散った水滴は、足跡の形をしていた。
誰のものでもない、自分の“反射”の足跡だった。
「外と内が、同位相で結ばれた……」
彼は震える声で呟いた。
「これが……“双方向観察”の完成形だ。」
モニターが再起動する。
映像は暗く、粒子が揺れている。
黒瀬の背中が映る――だが、背中の“影”が彼と異なるタイミングで呼吸していた。
久保が震える手でスイッチを押す。
「顧問、やめてください! これは、もう実験じゃありません!」
黒瀬は振り向かない。
「見ろ、久保。外の我々と内の我々、どちらも同時に記録されている。」
「記録じゃない……写し合ってるんです!」
――ぴちゃん。
水音が重なった瞬間、画面の黒瀬と現実の黒瀬が同時に笑った。
数秒のズレもなく、完璧な鏡像。
その直後、モニターの中の黒瀬が自らの首を傾げた。
現実の黒瀬の身体も、同じ角度に傾く。
だが、彼の意思ではない。
まるで糸で操られる人形のように。
「顧問っ!!」
久保が駆け寄る。
だが、彼の足元で水が波打つ。
鏡の表面が広がり、床一面が液体の膜になっていた。
「動くな!」黒瀬が声を上げた。
「観察中だ……観察を止めるな!」
久保はその言葉に凍りつく。
黒瀬の瞳は完全に反転していた。
黒目の部分が光り、虹彩が暗く沈んでいる。
「……あなた、もう“内側”にいる。」
久保の声は震えていた。
「内も外もない。」
黒瀬は笑う。
「見ているものが、現実を作る。ならば、我々が同時に互いを観測すれば――境界は消える。」
その言葉と同時に、モニターの中の黒瀬が、手を上げた。
現実の黒瀬も同じように手を上げる。
しかし――画面の“彼”は、一瞬早かった。
映像が遅れていない。
現実の黒瀬が、遅れている。
久保は後ずさる。
「顧問、それ……あなたが“追いかけられて”る!」
鏡の中の黒瀬が笑う。
現実の黒瀬が息を詰める。
光が脈動し、境界が波打つ。
> 「こちらとあちらを、ひとつにする。」
声は二重に響いた。
内側と外側、同じ台詞、同じ音程。
だが、ほんの一拍、ずれている。
――ぴちゃん。
音が止まった瞬間、モニターの中の黒瀬が外へ出た。
現実の黒瀬の身体が、糸が切れたように崩れ落ちる。
水音。
空気が逆流する。
鏡の表面を、白い手が這う。
久保は逃げなかった。
ただ、記録装置を握りしめ、レンズを鏡へ向けた。
「……これが、観察の結末ですか。」
鏡の中の黒瀬――いや、“それ”がゆっくりと顔を上げる。
人間の形をしているが、眼は複数の焦点を持っていた。
幾重もの視線が、同時に久保を見つめている。
> 「外も内も、同じ映像だ。
> どちらが観察者で、どちらが被観察者か――
> もう、区別できないだろう?」
久保の指が震える。
記録装置のランプが赤く点滅する。
映像のタイムスタンプは――00:00:12。
黒瀬が一歩、前へ出る。
床の水が波紋を広げ、足跡が二重に刻まれる。
片方は外の彼のもの。もう片方は、内の。
「顧問……!」
――ぴちゃん。
最後に久保が見たのは、黒瀬と“その影”がひとつに重なっていく瞬間だった。
光が白く膨張し、空間が反転する。
翌日、研究棟の全モニターには同じ映像が流れていた。
停止したはずの記録装置から、自動的に再生されていたログ。
画面の中央には、背中を向けた二人の人影。
彼らの背後に、鏡のようにもう二人。
そして、映像の下には文字が滲んでいた。
FROM INSIDE
DIRECTION: BOTH
STATUS: STABLE




