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妙手の価値

棋士において妙手を指すことは何よりの喜びである。それが歴史に残るほどの一手であれば、単なる勝利以上の名誉になることもある。そういう手が出た時、勝利にぐっと近づくのが将棋である。

前回に取り上げたA級順位戦の芥川-太宰戦はその類の手が出なかった。芥川の落手によって一方的な展開(といっても一手違いだが)になってしまい、物足りなさを覚えたのは私だけではなかっただろう。芥川にとっては五本の指に入る不出来な将棋になってしまった。一方で太宰は平凡な手を積み重ねて勝った内容となったわけだが、これでは太宰が強いというよりも芥川が弱かったという評価に収まってしまう。

あの対局の後日、森が「芥川くんは今期の降級候補だね」と言っていた。バリバリの指し盛りの芥川が落ちるとは想像もつかないが、一度弱みを見せると怖いのが将棋界なのだ。いまをときめく棋聖戦の挑戦者、山本周もそれが関係していたと思われる。そういった棋士はどこかで挽回しないといけない。苦境を乗り越えた経験が人生に厚みを与え、むしろ以前より高く評価されることもあるのだ。


この日、私は鰻を食いに行きたくて外に出た。土用の丑の日はまだ先だが、なじみの鰻屋「藤本」の前を通るといつも香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。どこかで理由をつけて行こうと思ったのだが、結局単純に食いたくなったから、それに尽きるのである。ふらりと「藤本」の引き戸を開けると、いつもの店主がパタパタと鰻を焼いている。煙がいい。カウンターには老人が二人。うな重(梅)と肝焼きを注文した。ここはついでに漬物もサービスしてくれる。店主とは長年の付き合いで、棋士ということもあって肝吸いをサービスしてもらえるのだが、今日はやめておいた。物価高のご時世とはいえ、この鰻だけはやめられない。最近は完全養殖も実現したと聞く。なんでもいいから「藤本」が生き残ってさえくれればそれでいい。

さて、そこそこ行数も稼いだところで将棋の話をしよう。鰻を食べ終えた私は控室に寄った。対局自体が少ない月曜日ということもあり、閑散としている。最近熱心に勉強している若手の北杜夫四段(24)が棋譜を並べていた。何かと思えば20年以上も前の名人戦である。渋沢栄一名人-遠藤周作八段のシリーズだ。渋沢が4勝3敗1千日手で制した、いまも名勝負として語り継がれている七番勝負である。遠藤は今年53歳を迎えるがB級1組で頑張っている。渋沢がA級に残っているのが異次元だとしても、やはり一度地位を確立した者は地力が違う。

「なんだか僕らがだらしなく思えてきます。上位陣に20代はいませんし」

北が頭を抱えた。「君の父もまだまだ第一線だ」と私がからかう。もちろん斎藤茂吉九段(59)のことである。現在もB級1組に在籍し、そろそろ還暦を迎えようというのにエネルギッシュに頑張っている。一般的なイメージとしては、頭脳が冴えているのは10代~20代がピークであり、30~40代からは緩やかに下降するといわれている。では若者が有利かといえば、将棋はそこまで簡単なゲームではない。頭脳だけでなく、経験と修業がものをいう世界なのだ。いまだに40~50代が前線で活躍しているのが証明している。余談になるが、AIが将棋を覚え、常に正解を示してくれる世界になったら、きっと暗記の得意な若者が強くなるだろう。前回も触れたが、AIの存在が興味深いのは間違いない。

ベテランの尾崎紅葉九段(67)と徳田秋声七段(47)が盤を挟んでいる。棋王戦の予選決勝であった。勝った方が挑戦者決定トーナメントに進出する一番だから大きな勝負だ。尾崎は実績十分でファンの人気も高い。徳田はもうひと伸びがほしいところ。下馬評高くプロ入りしたのだが、タイトル挑戦はまだなく、過去に目立った実績がまだないのだ。しかし地道に成績を伸ばしているのは知っている。名を挙げるチャンスである。


挿絵(By みてみん)


独特の構えの三段玉がどこか尾崎らしい。この▲7四歩で先手の尾崎が優勢だと我々は検討していた。△6七銀不成は▲7三歩成で先手の攻めが一手速い。後手玉は居玉なので耐久力がないのである。北もどう後手が頑張るかと見て、△7二歩なんて候補手まで出たほどである。当然▲7三歩成△同歩▲8三歩成で状況は変わっていないどころか悪化するので悪手なのだが、ほかの受けも難しいのである。徐々に尾崎がいけるとわかってきた。「尾崎先生は勝てば6年ぶりに挑戦者決定トーナメント進出です」とデータに詳しい『将棋新聞』の内田百聞記者が教えてくれた。その年は私も予選を勝ち抜いたのでよく覚えている。ちなみにその後の私は挑戦者決定トーナメントの初戦で三島にやられた。そんな昔話をしていると、徳田は思いもよらぬ妙手を放ち、我々の度肝を抜いた。それが△4八銀である。


挿絵(By みてみん)


徳田の手つきはよく覚えている。銀を手に持って高々と振り上げたから、どこに打つんだと思ったら、とんでもないところに打ったのだ。先手の駒が4つも利いている地点の4八だ。最も厳重にセキュリティーがあるはずなのに、この一発で参っているのである。「はー」とたまげた声を出したのは北。「こりゃいいものを見た。徳田くんの中でもトップクラスの妙手じゃないか」なんて私が言うと、北は「とんでもない。将棋史に残りますよ」とまで言い切った。私が手帳にメモをすると、内田百聞記者もペンを手に取っていた。よっぽど対局室に入ろうかと思ったが、ピリピリしていそうな尾崎の様子を想像してしまい、足が向かなかった。何より北の興奮が面白かったのだ。

「いやあ、よくできています。▲4八同飛は△7五角、▲4八同角は△6八飛成なんですよ。しかもこの銀は角取りなので放置できません。しかしそうなると惜しい。3七の銀と4七の玉の位置が逆だったら完璧な王手角取りになっていたんですよ」。

北の発言がそのまま解説として使える。見れば見るほど先手は手の施しようがないのだ。尾崎は10分考えて▲4八同飛と応じ、△7五角に▲5九銀と粘った。年寄りはあっさり土俵を割りがちなだけに凄まじい。普通はあんな手を食らっては気持ちがクサってしまう。だがこの姿勢こそ、尾崎が長く現役でいられる理由なのだ。長くB級1組に在籍していただけあって根性が違う。徳田も気を引き締めただろう。そこから慎重に考慮を重ね、じわじわと差を広げて危なげなく勝った。これが大事で、最後まで勝ち切らねば、妙手の価値が半減してしまう。負けていたら取り上げづらくなり、人々の記憶から薄れてしまうところだった。終局直後は私と北、内田記者に加え、あとから控室にやってきた有島とで対局室に向かった。ふたりのリアクションを見たかったのだ。

「すげえ手食っちまったな」と尾崎が自らの頭を撫でていた。まいったな、といった表情だったが、どこか満足げにも見えた。尾崎はこういうときも、相手を責めるようなことはしない。「△4八銀は将棋史に残る妙手だと北くんが言ってたよ」と私が伝えると、「恐縮です。いやいやたまたま」とかしこまった。有島も「今年1番の作品だね」と続けて喜ばせたものだから、徳田の恐縮は止まらない。

あれこれ突っ込んで検討したが、結論としては△4八銀からはもう修復不可能。元々の尾崎の構想が悪く、勝ちづらい将棋になってしまったのか、という結論になった。しかしそれも△4八銀があったからそう覆ったわけで、それまではむしろ尾崎持ちの形勢だったのである。これが将棋の醍醐味。それも棋士同士の対局ではこういったケースが少なく、有利になった側がじりじりと差を広げていくケースが多かった。だからこそ、一手で難局と思われた景色を打破した徳田の切れ味は評価されるべきなのだ。

打ち上げは徳田、有島、私、内田記者で「弥勒庵」に行った。この居酒屋は料理がどれも絶品。それで酒もうまいときたから立派な繁盛店である。徳田が嬉しそうにビールを飲む姿が印象に残っている。しかしもっと心に残ったのは、前回に続いて恐縮だがAIが将棋界に上陸したら、という話題である。前回も熱くなった有島が、焼き鳥を口にくわえながらまくし立てたのだ。

「仮に△4八銀が正解だとAIに教えられていたとしてだ。それを我々が先に見てしまったら、今後どうやって将棋を観戦すればいいかわからないね。そんな世界が面白いと思うか」

私はねぎまの串を持ちながら、口に運ばず聞き入っていた。先に正解がわかってしまう世の中など、誰が面白いだろう。もしそうなれば、将棋を知らない方であっても、神の目線で観戦できるはず。すると棋士の立場はどうか。我々が棋士として崇められていた盤上のやり取りが、実は悪手だらけだったんじゃないかと疑いの目で見られてしまうことは明白だ。いかにAIの正解手と同じ手を選ぶか。そんな将棋の本質とかけ離れた観戦の楽しみ方しかできなくなってしまう。そうなったら将棋界の未来は暗い……のかはわからないが、ともあれ徳田の妙手の価値は落ちないし、今後も語り継がれるだろう。

しかしこういった予選の対局がファンのもとに届くのは稀である。私がたまたま鰻を食いたくなっていなかったら紹介できていなかったと思うと、もう少し棋譜を、対局の様子をファンに届けられないかと気をもんでしまう。すべての対局に中継があるわけじゃなく、いまだにアナログだと世間に笑われてしまう現状を生んでいる。

有島が意味深な言葉を残していた。

「ある女はこう言った。世界を滅ぼすのは外敵でないと」。

その言葉の意味を、私はまだ十分に理解できていなかった。ただ、将棋界にとっても他人事ではない気がした。

将棋界の整備はどこかで必要だ。北のような若者もしっかり自分の意見を持っている。いいものは残すが、保守的な部分をガラリと変えなければいけない、と。将棋界の未来は、きっと明るい。

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