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A級順位戦開幕

※本作品はフィクションです。作中に登場する人物・団体・組織・出来事などは、すべて創作上の設定に基づくものであり、実在する人物・団体・組織・出来事とは一切関係ありません。

なお、実在する人物の名前が登場する場合も、作中の人物像・経歴・言動・対局実績などは、現実のものとは異なる創作上の表現です。


2026年6月。今期の将棋界も徐々にエンジンがかかり、いよいよ順位戦も開幕した。また長い一年が始まるのかと思うと、憂鬱になる。私、金子金次郎は昨年、所属するC級1組の降級点を回避し、束の間の春休みを過ごしていた。現在57歳、七段。八段昇段は当分先の、弱い棋士である。対局の少ないこの時期だけが、心安らぐ時間だった。

そんな矢先、『月刊将棋』の武者小路実篤編集長(59)から電話がかかってきた。

「金さん、また今年も『将棋世態』の連載頼むよ。26年目、お願い」と。

今さらライフワークを失うのも困るので、二つ返事で引き受けた。私は早速、東京・千駄ヶ谷にある日本将棋連合の将棋会館に向かった。今期順位戦A級の開幕局、芥川龍之介九段-太宰治九段戦の観戦が目的である。

その前に、まずは改めて2026年6月時点でのタイトルホルダーとA級の面々を確認しておこう。括弧内は年齢である。


竜王 志賀直哉(50)

名人 志賀直哉

王将 三島由紀夫(31)

王位 森鴎外(56)

王座 志賀直哉

棋王 谷崎潤一郎(53)

棋聖 川端康成(47)

叡王 南方熊楠(32)

新人王 中島敦(24)


A級

1 谷崎潤一郎棋王

2 西田幾多郎九段(61)

3 芥川龍之介九段(35)

4 太宰治九段(35)

5 川端康成棋聖

6 三島由紀夫王将

7 渋沢栄一永世棋聖(63)

8 森鴎外王位

9 坂口安吾八段(30)

10吉川英治九段(46)


4月の名人戦は、志賀直哉名人が谷崎潤一郎棋王の挑戦を退けて7連覇を達成した。かつての夏目漱石永世名人(71)を思わせる勝ちっぷりで、充実著しい谷崎を4勝1敗で破ったのはさすがであった。A級の昇級者は吉川英治九段と坂口安吾八段。坂口は初昇級。タイトル戦出場こそなく地味ではあったが、着実に最高クラスまで上り詰めた。吉川は3年ぶりのカムバックである。B級1組に落ちてから再び舞い戻るのは、中年からだと非常に大変なのだが、地力の差を見せつけた。

5月に入って棋聖戦五番勝負が進行。川端康成棋聖の挑戦者はB級2組に落ちたばかりの山本周五郎九段(41)となった。挑戦者決定戦の様子は昨年に詳しく書いたが、劇的な幕切れであった。誰もが挑戦者決定戦を制すると予想していた志賀名人が、終盤で悪手を指した瞬間に「よし、いけ周五郎!」と控室で叫んだ川端が忘れられない。志賀が落手で敗れ、まさかの(失礼)山本が勝ったとわかり、報道陣は否が応でも盛り上がった。

山本といえば、順位戦で降級したばかりか、昨年は勝率3割台と苦しんだ棋士である。四十を迎え、衰えも隠せなくなっていたが、ここで意地を見せた。棋聖戦に限っては調子が上向いていたともいえるが、それでもチャンスをものにしたことは称賛すべきだろう。

それにしても棋聖戦は意外なベテランやルーキーばかりが挑戦者になる傾向がある。川端の4連覇に期待がかかる、と書くと山本に怒られてしまうが、事実、川端はそういう相手をしっかりとたたいて、地位を確保してきたのである。では、やや時差があって恐縮だが、第1局の将棋を見ていこう。


挿絵(By みてみん)


先手が山本、後手が川端である。川端は残り4分のところから1分ほど考え、△8七飛成と指した。豪快に詰ましにいったのだ。▲8七同玉△8六歩▲同玉△7四桂▲8五玉△8四歩▲同玉△6二角まで、山本投了。


挿絵(By みてみん)


変化はあるものの、いずれも詰み筋である。問題は入玉して逃れられるかどうかだが、△6二角まで進めば捕まっている。△8七飛成の時点で詰みを読みきっていたのが素晴らしい。

川端のスマートな寄せが決まり、持ち味を存分に発揮した。私は控室(第1局は将棋会館の特別対局室で行われた)で谷崎、太宰、有島武郎八段(42)ら豪華な面々と検討盤に向かっていたのだが、△8七飛成が指される前に谷崎は詰みだと判断していた。それを聞いた有島も「川端さんは△3二金と受けるような生き様じゃない。さわやかにいくでしょ」と確信していたのだった。まあこういうのはひと目詰みというもので、検討するまでもないのだが、一応間違いがないか、駒を並べて詰みだと決定づけた。強者の判断は早くて正確である。一方で太宰がポツリと呟いた。「こういうところで△3二金と余して勝とうとするのは弱気なんだろうね。私なら真っ先に浮かぶ」と。控室からは笑いが起こった。実際にそう打たないことは皆も知っている。だが、ネガティブな太宰が言うからこそ面白く、うっすら本音ではないかと思ってしまう。

話を現在に戻そう。かくして棋聖戦第1局を制した川端は、今日は太宰の将棋を見に来ていた。控室に1万円はするであろう高級な差し入れを持ってきている。「この好カードは見なくちゃいけないからね」とニッコリ。やはり気をよくしたのがわかる。

芥川と太宰はライバル関係。年齢は同じだし、お互いどっちが先に名人を取るか、あるいは長くA級に残れるかと意地を張っている。棋風も対照的だ。芥川が攻めに特長のあるタイプなら、太宰は受けが力強い。そしてどっちもオールラウンダーである。

16時、形勢が大きく動いた。


挿絵(By みてみん)


先手が芥川、後手が太宰。この△1九飛に、検討陣は悩んだ。私が▲4八金を挙げると「ガハハハッ」の声が飛んだ。松本清張九段(47)が見ていたのだ。「それは△3九飛成でダメじゃない。かえって速くなっちまう。だから▲4四角が本筋でしょう」。

なるほど一理ある。まずは遊び駒かつ壁駒の角をさばいて勝負ということだ。▲1七角で飛車に当てつつ成桂を拾う含みもある。「よく見えるじゃない」と私がからかうと、「この前の有島さんとの戦いでその調子ならよかったんだがな」と苦い顔。そう、先週に松本-有島戦があったのだ。もちろん結果は松本の負け。川端も「ありゃ松ちゃんが不出来だったね」と続けた。この二人は歳が同じで仲が良い。松本はうるさいとばかりにお菓子をぱくり。

検討陣の予想手順は▲4四角△3九飛成▲1七角である。そこで△1九竜なら部分的に悪形だが、時間を稼げるというわけ。△4九竜なら▲4一成香でどうか。

さてどうやるか。気になって私は対局室に入った。「ん、金さん」と太宰。私はさっと会釈し、正座になってじっと盤面を見る。同じくしてじっと考えていた芥川。ずずずと茶を飲み、静かな手つきで▲4八金が指された。私は思わず目を見開きかけた。それは検討でダメといわれた手である。モニターで見る検討陣の様子が気になって仕方がなかったが、あまりすぐ席を立つと、なんらかのメッセージに思われてしまう。そこで次の手を見てから控室に戻ることにした。太宰、軽く首をひねって△3九飛成。私は芥川をじろりと見た。かすかに眉が動く。そして息をついたように見えた。これがわかっただけでも室内に入る価値があった。そそくさと控室に戻る。そちらでは予想通りの盛り上がりを見せていた。

「金さん、まいった。あんたもA級九段の実力者だ」

松本の言葉に川端がケラケラと笑う。入れ違いで来ていた森も「ひっどい手だね」と髭をなでていた。森鷗外ほどの棋士になると、盤面をひと目見ただけで悪手だとわかる。この日はいつになく堂々としており、風格が感じられた。

「芥川のダンナもさすがに動揺した様子だったね。太宰も首をかしげていたよ」。

私が状況報告すると松本が「あの慎重な太宰がノータイムなんだ。芥川も嫌な予感しただろうさ」と言った。森は黙って別の対局の検討を始めた。森が来ると、継ぎ盤ひとつが我が物のように独占されてしまう。ついでにまた例の饅頭茶漬けを持ってきていないか心配した。以前、その甘い匂いが館内に充満してしまい、対局者からクレームが入ったことがある。頑固な森だから、その場で口論になった。もっとも、本人が自分で作るわけではない。なぜか、その場にいる親切な人間――主に私が作らされるのである。毎回茶を沸かす手間を考えてもらいたいものである。

そんな変わり者の森も、このところ3連勝中。ミスター王位戦のイメージが強かったが、今期はどこかで別のタイトル戦に絡みそうな気がする。他人の指し手を酷評するなんて珍しく自信がある証拠だからだ。


挿絵(By みてみん)


さて盤上。△3九飛成に▲5八金△3八歩成はきついから、▲4九香でも打つんじゃないかと言われていたが、それも△2七成桂で逃げられつつ活用されてしまうので面白くない。相手が太宰のときの芥川は、まずそういった、相手にとって気持ち良い手を指させないものである。そこは私の予想が当たった。▲4二香と攻め合いの手を指して下駄を預けたのだった。

さて、観戦記の定番、ここで芥川と太宰の興味深いデータについて見ていこう。この原稿を書いている時点で、通算成績はどちらも6割3分。ちなみに対局当時はわずかに芥川が上だった。四段昇段もほぼ同期(芥川のほうが先)だし、順位戦の昇級ペースもだいたい一緒なのである。5年前のA級昇級が同時だったのは記憶に新しい。だからこそよいライバル関係なのである。

夕食はいつもの「細島屋」へ。私はいつも控室にいる面々に誘いかける。すると3人が来てくれた。そこで話題は株になった。将棋界は今も昔も株好きが多い。

「金さん、キオルシアの株が熱いよ。買わない手はない」

さほど株に詳しくなかったはずの松本が銘柄を言い切ってまで勧めてきた。私はかつて、株で痛い目を見たことがあった。上昇気流の株を買ったのに、私が手にしたタイミングで暴落が起こったのである。そして損切りしたらまた上がってしまうという、いわゆるカモであった。投資にそれほど詳しくなさそうな松本が勧めてきたのだから、こりゃ天井も近いわいと、内心ほくそ笑んだ。だが、昨今のインフレ事情を顧みると、何かしら投資したほうがいいのではないかと思ってしまう。かつて財テクで名を挙げた棋士はちらほらいたが、いずれも名人の座にはなれなかった。現副会長の渋沢栄一永世棋聖がその手の話に詳しかったが、とはいえA級まで上り詰めたのは渋沢以外に聞いたことがない。

またも余談だが、金欠でもがいている棋士のほうが強い傾向がある。若い頃の野口英世九段(32)などは、いつも金がないと荒れていたが、対局には必死だった。生きるために勝つというハングリー精神が、彼を強くしたのかもしれない。その後の野口の活躍は書くまでもない。

「そういえば最近はAIを活用しているよ。この前、心臓がちょいと痛んだんで不安になってたんだが、AIに相談したら落ち着かせてくれてね。おかげで無駄に病院に行かなくて済んだ」

もう決して若くない川端にそう言われると不安が勝ってしまう。

「よしてくれよ。そういうときは振り切ってでも病院に診てもらうもんだ」

「ぽっくりいっちっまったら奥さんも悲しむだろ」

私と松本が寄ってたかって言及すると、「今度からはそうする」と苦い顔をしていた。

「そういや、将棋もAIが使えるのかね」

川端が面白いことを言った。

「ふむ、将棋の最善手を教えてもらうとか、かね」と私はビールを口に運ぶ。

「いやいや、そんなのできっこないだろ。それができたら棋士は廃業だ」

どんと胸を叩いた松本。確かにそうだ。もしAIが発達して将棋も教えてくれるようになったら、どんな未来が待っているだろう。少なくとも現会長の菊池寛名誉九段(70)は認めないはずだ。

「菊池寛さんが、コンピューターに将棋をやらせるなって禁止したのってもう10年以上も前ですか」

ずっと黙っていた堀口大学記者(40)が口を開いた。堀口記者はあの伝説の『菊池寛、機械など糞食らえ』記者会見の場でペンを走らせていた張本人である。「ありゃ英断だったね」と私もうなずく。

「もし常に将棋の正解がわかる世界になったら俺達の立場がねえよ。今だって正解を出しているかわからんが、あんだけ継ぎ盤で駒を動かして、曲がりなりにも将棋の強い人間同士が話し合っているんだ。それなりの精度はあるさ。その苦労をせずして正解がわかっちまったら馬鹿馬鹿しいわな」

松本が熱くなった。川端も納得の面持ちである。当時の棋士総会では白熱した議論が交わされていたものだった。世間に浸透し、いまや仕事の効率化を超え、秘書、友人のように扱うこともできるAI。これを将棋に活用できたらどうなるだろうか。

将棋界は早い段階から対策を講じていた。2000年代、日本将棋連合は、連合内でコンピューターに将棋を学習させることを全面的に禁止したのである。もっとも、連合の外ではプログラマーたちが次々と将棋ソフトを開発し、その実力は一時、人間を脅かすところまで迫っていた。そこで菊池寛会長が吠えたのである。

その結果、いまも将棋界の秩序が保たれており、棋士の立場は少しも揺らいでいない。だがこれをもったいないと見る方もいて、定期的にSNSで厳しい意見をお見掛けする。時代に逆行するなというものだ。実質的にAIも禁止されている状態なのだが、読者の皆さんはどうお考えだろうか。

そんなこんなで店を出ようとしたとき、ばったりと思わぬ出会いがあった。壇一雄九段(50)が店に入ってきたのだ。本誌に登場するのは1年ぶりである。名前はよく見るが、顔はなかなか見なかった。棋士が200人以上も在籍する大所帯の将棋界ではままあることだ。

「やあ金さん久しぶり。川端も松本もいたか」

「どうしたんだい。今日はA級やってるよ。芥川と太宰の」

「わかってるよ。でもありゃ芥川の出来が悪いね。わかりやすく一手負けだ」

バッサリと斬った壇を川端がにやり。わかってるねえと言わんばかりの表情だ。

「じゃあ検討には来ないかい?」

私が尋ねると控室に顔を出したいから後ほど行くと答えた。だが結局、壇は現れなかった。酒を飲み過ぎたのか興が醒めたのか果たして。でもこんな適当な感じが、将棋界らしい。

控室に戻ると、森が饅頭茶漬けを振る舞おうとして、周りに止められているのを目撃した。森は根がいい人なだけに惜しい。よく見ると樋口一葉女流名人(29)もその場にいて、上品に笑いながら見守っていた。彼女が来ると男だらけの控室が華やかになる。

「金さん、どうしてご馳走してやるって言ってんのにみんな嫌うんだ。おかしくないか」

森が子犬のような目をして私を見つめた。いつもの森だ。先ほどの威厳は、饅頭によって瓦解されてしまっていたか。「そう、おかしいな」とうまくはぐらかして継ぎ盤の前に座る。すると、昨年の新人王、中島敦六段がいるではないか。こりゃ教わるしかないと、対面に陣取った。

「中島くん、芥川の挽回策はあるかね」

才気活発な彼なら何かひねり出すだろう。先日の棋王戦予選の国木田独歩七段(31)戦の将棋は、手品のような手順でうまく逆転していた。そういえば彼の次の相手は川端である。ちょいと居づらいかなと思い、川端とは距離を取らせた。無礼講が上等の将棋界でも、こういうところは神経質である。川端は川端で、樋口女流名人に夢中だった。デレデレである。

それはさておき、形勢がはっきりしていた。盤面に目を移そう。


挿絵(By みてみん)


最後の局面を紹介する。この香打ちが急所の一着だ。太宰のことだから△5一金打みたいに受けるのではないかと思ったが、恐らく読み切りだろう。解説すると、(1)▲3四角のような手は△5一金打で問題にならない。(2)▲6二金△同金▲同竜△6一金▲5二金の筋はあるが、△6二金▲同金△7一銀で余せる。さらに駒を渡して攻めてこようものなら△8七香成から詰ましてしまえばいい。この明快さは太宰が尊敬する井伏鱒二九段の指し回しを思い起こす。

この香打ち一発で芥川は一段と苦しくなった。適当な受けがないのである。太宰の美濃囲いも金銀2枚なのに妙に寄らない。この、のらりくらりが太宰の持ち味なのだ。芥川は32分考えたのち、投了を告げた。終局は20時16分。A級にしては異常に早い終局だった。実質終盤戦がない戦いだったのはいただけない。

感想戦も淡白なものだった。太宰が手を示せば、芥川はいやそれはダメだと拒み、結局すべてつくりが悪かったとうつむいた。よほどの不出来だったのだろう。堀口記者がボールペンをカチッと鳴らした。それを合図に、もう話すこともないだろうという空気になり、その場はお開きになった。

気の合う仲間同士、いつもの流れで夜の店を探すことになった。勝った太宰は川端に声をかけていた。川端もその気だったようで「今日は一段と端正な顔つきだ」なんておだてている。芥川は不服そうな様子で対局室を去る。負けた時はこんなものである。完璧主義者の噂がある芥川のことだから、さぞかし不服だっただろう。なぜこんな将棋になってしまったかと言われれば、まさに本人お得意の「真相は藪の中」ということになるか。周りも気遣って声はかけない。暗黙の了解というやつだ。一方で愚痴を聞いてもらうタイプの棋士もいる。私がその筆頭だが、川端や有島は本誌でも何度も飲みの席で登場している。その場で発した魂のひと言が、いいネタになるのだ。三島なども熱弁をふるうことが多く、時に若手棋士は胸を打たれることがあるらしい。最近、三島研(研究会)が発足されたのも頷ける。先日、澁澤龍彦五段も入会したと風の噂に聞いた。いずれ、大きな派閥になるかもしれない。

普段は打ち上げに行くことに目がない私だが、この日は一足早く帰路についた。対局が物足りなかったのもあるが、細島屋でのAIの話を聞いて、将棋界の未来を真剣に考えてみたくなったのである。



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