第十話:不敬の極みの罵倒
手元の書類には、アルベルト殿下が承認した予算案が記されていた。けれど、その主である殿下は今、エリス様を温室に置き去りにし、リナ姉さんには「一番だ」と愛を囁いた舌の根も乾かぬうちに、別の誰かを抱いている。
学園の離れにある、人目に付かない東屋。
書類を届けるためにそこを訪れた僕は、視界に入った光景に、脳内の計算式がすべて弾け飛ぶのを感じた。
「ああ、シオンか。なんか用か? 見ての通り、今は取り込み中なんだがな」
アルベルト殿下は、見知らぬ令嬢の腰を抱いたまま、欠伸混じりにそう言った。その瞳には、自分の行いがどれほど他者の心を削るかという想像力が、欠片も存在していなかった。
頭の奥が、沸騰したように熱くなる。
僕が日々、帳簿の数字を合わせ、不興を買った貴族たちに頭を下げ、泥水を啜るような思いで整えている「彼の足場」。それは、こんな安っぽい浮気のために捧げているものだったのか?
何より、あんなに彼を盲信している姉さんは?
そして、自分の価値を疑いながらも、必死に前を向こうとしているエリス様は?
「――この、クソ野郎ッ!!」
気づけば、肺にあるすべての空気を吐き出すように叫んでいた。
周囲の空気が凍りつく。殿下の腕の中にいた令嬢が短い悲鳴を上げて逃げ出したが、そんなことはどうでもよかった。
「シオン……。貴様、今なんと言った?」
「聞こえなかったんですか!? クソ野郎と言ったんですよ! あなたには人の心がないんですか!? 姉さんがどれだけ……エリス様がどれほどの思いで、あなたの隣に立っていると思っているんですか!」
視界が歪む。
怒りと、情けなさと、二人への同情が混ざり合い、ぐちゃぐちゃになった涙が僕の頬を伝い落ちる。
アルベルト殿下は、しばらくの間、見たこともないような呆然とした表情で僕を見ていた。
不敬罪で即座に処刑されてもおかしくない暴言。だが、殿下はふっと、どこか毒気を抜かれたように笑った。
「……おいシオン。お前の顔、すごいことになってるぞ」
「……っ、うるさい、ですよ……」
「ははっ、いいな、それだ。取り巻きどもは俺の顔色を伺い、女どもは俺の愛を欲しがる。だが、俺のためにこれほど酷い面で泣き、これほど真っ直ぐに俺を罵る奴は、後にも先にもお前だけだろうよ」
殿下は僕の肩を乱暴に叩き、耳元で低く囁いた。
「今の不敬は不問にしてやる。その代わり、これからも俺の側で、その『毒』を吐き続けろ。お前が俺の背中を見張っている限り、俺は退屈せずに済みそうだ」
――最悪だ。
怒りが冷めていくのと同時に、とんでもない失態を演じたという恐怖が、じわじわと背筋を這い上がってくる。
けれど、アルベルト殿下の瞳に宿った光は、単なる気まぐれではない「何か」を孕んでいた。
僕は涙を袖で拭い、書類を乱暴に彼の胸に押し付けた。
この日から、僕とアルベルト殿下の関係は、単なる主従を超えた「腐れ縁」という名の呪いへと変わってしまった。




