ようこそ、桜庭探偵事務所へ。 ⑫
「先生。警察の方が到着されました。」
「わかった。」
桜庭さんの目の色が変わり、社長が不自然に動きを止めてから数分後。
窓の外を見ていた柊野君に頷きを返して、桜庭さんが立ち上がった。
紺碧の瞳に映された社長が声もなく歩き出す。
桜庭さんが何かしているんだろうことはわかるけれど、見ているだけだと不可思議な現象にしか思えない。
ぽかんと見上げている僕に気付いたんだろう、桜庭さんが目を丸くしてから、ふはっと気の抜けた笑い声を漏らした。
「ぼんやりしてたらおいてくぞ? そんな顔しなくても、種も仕掛けもあるって。」
「いや……それは、そうでしょうけど。」
「あ、誤解しないでほしいんだけど、誰彼構わずこんな真似しないからな?」
「別に疑ってませんけど……。」
どうなってるんですか、なんて聞くのは流石に失礼だろうか。
並んで階段を下りながら、そっと桜庭さんの顔を伺う。
これまで初対面の僕相手に色々と教えてくれたけど、僕からずけずけと聞くのはまた違うような気がするし。
良くも悪くも人と違うことで悩んだり、傷ついたりする気持ちは、僕も僕なりに理解はできるから。
「まぁ、そんな優しい椿木君の考えてることは丸見えなわけなんだけどな。」
「あっ、そうだった……ってなんかずるくないですか?」
「いやごめん……普段は見ないようにしてるんだけど、こうなってると割と細かいとこまで制御利いてなくて。ほんとごめん。」
「良いですけど……。……じゃあ、嫌でなければ、教えてください。」
「おっけー。っていっても簡単なことだけどな。事務所で話したこと覚えてる? 俺にできること色々。」
「えぇと、確か……体を水にすること、体外の水を操ること、それと、馴染ませた水に体のような機能を持たせること、でしたっけ。」
「相変わらず理解度が完璧なんだよな……。」
「ありがとうございます。」
「記憶力も良いとなれば、さぞ成績も良かったんだろうな。」
「そこまでではない……とはまぁ、言えませんけど。」
成績優秀として学費が免除されていた身としては、成績が悪いですなんて下手な謙遜過ぎて嫌味になることくらいは流石にわかる。
煮え切らない返事をする僕を面白がるように見下ろして、それじゃあそんな椿木君に問題です、と桜庭さんはぴんと人差し指を立てた。
「人体のおよそ六割を占めているのは何でしょう。」
「え……水分?」
「正解! じゃあ俺は何を操れるでしょう?」
「体外の水。」
「つまり?」
「つまり……社長の体に含まれる水分を操り、社長の動きまで操ってる……?」
「大正解ー! とはいってもこれ結構疲れるし面倒だからそうそうやりたいもんでもないんだけどな。」
奥の手ってやつだよ、と笑う桜庭さんの顔を、外の光が照らしだす。
先を歩いていた柊野君が正面玄関の扉を開けたんだと気付いた時には、僕の耳にも喧噪が届いていた。
警察の人が来ているからだろう、いつもよりもざわめく声が多い。
あれ、そういえばサイレンの音、聞こえなかった気がするけど……。
「おせーよキッカ!」
「これでも飛ばしてきたんだぞ。」
そもそもどの段階で通報してたんだろうと首を傾げかけたところで、こっちに走り寄ってくる人影が見えた。
その耳もとで光を反射して揺れるピアスが、ちりんと音を立てている。
心なしか溌剌とした声を出した桜庭さんが片手を挙げて出迎える。
キッカ、と呼ばれたその人は、細身のスーツを纏った背の高い男の人だった。
桜庭さんに一言言い返してから、僕に目を向けて胸元から何かを取り出す。
滑らかな動きで開かれたチョコレート色の革の中には、顔写真と名前、それから桜紋の盾を象ったような金色の記章。
「警視庁特務係の蓮月海里だ。君は……」
「あ、僕は椿木」
「キッカ、あいつが被疑者な。こっちはついさっきまで従業員だった。身柄預かってもいいよな?」
「ん、あぁ、わかった。被疑者の処遇については、」
「一任する。資料は送っとくから。」
「頼む。」
短く言葉を交わして、キッカさん、もとい蓮月さんは社長の方へと去っていく。
軽く会釈をしてから歩いていった限りでは、気を悪くした様子はなかったけれど。
「……僕、名前言わない方がいいんですか。」
「んー、いや、キッカはな、いいんだけど。」
隣に立つ桜庭さんの目は、いつの間にか青色に戻っていた。
その瞳がゆらゆらと揺れて、僕を見下ろす。
「警察って言っても全部が全部正義の味方ってわけじゃないからさ。あんまりそこかしこで本名ばらまかないほうが良い。」
「ばらまくって……いや、でも、そっか……今回の発端も、僕の素性がばれてたことですもんね。」
「ま、利用しようとするやつが悪いんだけどな。」
世の中全員善人になればいいのになー、なんて歌うように言いながら歩き出す、桜庭さんのその声は。
ふざけているようで、戯れに言っているだけのようで……その実とても真剣に、僕には聞こえた。
そう切に願うだけの出来事が、桜庭さんにはあったんだろうか。
「おーい、突っ立ってないで帰ろうぜー。紅茶淹れてくれるってー。クッキーもつけるからさー。」
「あっ、はい! 今行きます!」