ようこそ、桜庭探偵事務所へ。 ①
そこは、よく見なければそうとは分からないようなところだった。
こぢんまりした煉瓦造りの建物、緑の生い茂る広い庭。美しく整えられた薔薇のアーチ。
お洒落なレストランか喫茶店にしか見えないようなその場所に、不釣り合いな館銘板が掲げられている。
桜庭探偵事務所
金色の細かな模様で縁取られた黒茶の中に、およそ普通の人生を送っていれば無縁だろう七文字が並んでいた。
その隣に立てられた、本来なら美味しいメニューの一つや二つでも書かれていそうな小さな黒板には、迷い人・猫・犬見つけますとか、排水溝の掃除承りますとか、素行調査いたしますとかいった内容がきれいな字で書き綴られている。
その、一番下。
助手募集中、の小さな字に、ごくりと唾を呑む。
僕は椿木友音。
大学を卒業してまだ半年ほどの、新米の社会人だ。
就職先としてこの探偵事務所の助手を選んだ……わけでは、なくて。
これと言った特技も、ずば抜けた才能もない僕が、どうにか就職にこぎつけた町の小さな雑誌出版社。
そこがなんと見事なまでのブラックで、次の新号の〆切……つまり三日後までにスクープ記事を書けなければクビにすると告げられたのは、実に昨日のことだった。
だからといって事件現場に入れるコネもなければ、情報をリークしてくれるような知り合いもいない。
かくなる上はと腹を括りかけて、ふと。以前何処かで聞いた話を思い出したのだ。
ひそひそと人目をはばかるように交わされていた噂話。
あの探偵事務所の探偵は、人間じゃない。
人には扱えないような力で探偵業を営んでいるらしい。
もちろん、そんなオカルトじみた話を心から信じているわけじゃない。
単に常人離れした頭脳を例えるためにそんな表現をしただけかもしれないし、同じ人間とは思えないくらいの変わり者なだけかもしれない。
……だけど、もし、本当だったら?
万に一つでもその話が真実で、僕がその証拠をつかむことができたなら、きっとそれは今まで見たこともないようなスクープ記事になるはずだ。
それに、やっぱりその噂が嘘だったとしても、探偵事務所なら皆が他人に知られたくない秘密がごまんと眠っているに違いない。
そのうちの幾つかを拝借することができれば、せめて、クビを免れることくらいはできるかもしれない。
たまたまこの事務所が助手を募集していたのも、きっと何かのめぐりあわせ。
助手になりたい人のふりをして事務所にもぐりこみ、必ず、探偵の正体、もしくは依頼者の秘密を暴いてやると、僕はそう決めたのだ。
大きく深呼吸をして、カメラの入った鞄の紐を握りしめる。
間違っても探りを入れに来たなんて思われないように。どこにでもいる、ありふれた人のふりをして。
大丈夫、きっとうまくいく。
だって僕は、実際どこにでもいる、ありふれたその他大勢でしかないんだから。
薔薇のアーチをくぐり抜け、茶色い木製のドアの前。
蔓が巻き付いたような、くすんだ金色のドアノブを握ってゆっくりと押し開く。
かろん、と、丸い金属の奏でる柔らかな音がした。
開けた部屋の奥、カウンターの向こうで、こちらを振り返る影がある。
頭の後ろで結んだ黒い髪が一拍遅れて動作を追いかけている。
同時に胸に手を当てて頭を下げたその人は、まっすぐに僕に目を向けて、にこりと笑った。
「ようこそ。桜庭探偵事務所へ。」