第14話 気になります
「美しき姫。どうかこの私めに、ファーストダンスを踊る権利をお与えください」
「まあ、エリアス。踊って差し上げてもよくってよ」
エリアスが芝居がかった仕草で礼をして、リリエルの右手を取る。手袋越しの指先へ唇を寄せるようにして、けれど触れる寸前で止めた。
リリエルは微笑んでうなずいた。
王国剣技大会の前夜祭。
王宮のホールは、主要な貴族たちを招いて行われる夜会で賑わっていた。
今夜のリリエルは黒髪を高く結い上げて、白い首筋を見せている。
髪をまとめている青スピネルの髪飾りは、シャンデリアの灯火を受けて、ひっそりと灰青の光を宿していた。
同じ石をあしらったイヤリングとネックレスも、先日出来上がってきたばかりの逸品だった。
リリエルはエリアスの誘導を受けて、ホールの中央へ進み出た。
ダンスは、身分の高い者から踊るのが慣例だ。本日、父は不在。主催の兄が一番に踊るべきなのだけれど——リリエルは、ちらと壇上の兄の姿を見た。
ルーファスはヴェルナー公爵と言葉を交わしていた。王太子妃は、夜会に出席していない。兄は今夜、誰とも踊るつもりがないのだろう。
「兄上は、踊る気がないみたいだね」
エリアスも同じことを思ったようだった。リリエルにだけ聞こえる声で言う。
「お義姉様がいらっしゃいませんもの。他の方と踊って、勝手な想像をされるのがお嫌なのでしょう」
「何かあれば、今はすぐ新聞に載るからね」
ホール中央は、大きなシャンデリアが真上にあるため、一番明るい場所だ。
今夜のドレスは、真珠の内側を思わせる淡い象牙色。胸元から腰にかけて、銀糸の蔓草模様が細かく刺繍されている。こうして中央に立つだけで、周囲の貴族たちにはリリエルの姿が白く輝いて見えるだろう。
お互いに向かい合って礼をしたところで、音楽が流れ出した。
幾重にも薄絹のレースを重ねられたスカートが、一歩踏み出すたびに空気をはらみ、妖精のようにふわりと揺れた。
「カッセル卿の瞳の色だね」
エリアスが、青スピネルの石を見ていた。
「はい。婚約者の色を身につけるのは、よくあることでしょう?」
「今夜のパートナーはぼくなんだけどな」
「それは仕方ありません。カッセル卿はお仕事ですし……」
リリエルはステップを踏みながら、そっと壇上に視線を流す。
王族席の近くに控えている近衛騎士。ここからでは、どんな顔をしているのかはわからない。灰金の髪は目立つはずなのに、誰も彼に注目する気配はなかった。本当に気配を消すのが上手だわ。
しかし、彼はまだ正式な婚約者ではない。兄の許可を得たとはいえ、父の前で婚約の儀を行ったわけではない。
そう考えると、彼の色をまとうことは、少々押しつけがましいかもしれない。
「カッセル卿が気になって仕方なさそうだ」
エリアスは、面白いものを見つけたような目をしていた。
「はい。気になります」
「わあ、素直」
「どうやら彼は、わたくしの知る男性とは違う種類の男性のようなので。もっと詳しい生態の観察が必要です」
「生態の観察」
「このままでは締め切りに間に合いません」
本当に悩ましい問題だ。思わず、深いため息が出た。
エリアスは目を細めて、はは、と笑った。
「……カッセル卿の苦労をちょっと実感したよ」
何の話だろうか。
リリエルが首をかしげると、エリアスは答えず、次のステップを踏んだ。
ダンスが終わってホールの端に寄ると、貴族たちが我先にと挨拶に集まってきた。
美しく着飾った令嬢たちはエリアスのもとへ。
リリエルの前には、独身の子息たちが次のダンスを申し込もうと列を作った。
音もなく近づいていたアネットが、預けていた扇を差し出した。
リリエルは微笑んだまま、扇をそっと開いて口元を半分だけ隠す。
「申し訳ありません。この後、兄のもとへ参らなければなりませんの」
彼らは一様に落胆した様子を見せた。しかし、不満そうな素振りは見せない。兄を口実にしたからだろう。
さすがはお兄様。大変便利だわ。
リリエルは丁寧に礼をしてから、兄のいる王族席へ向かった。アネットが後ろからついてくる。
「アネット。あなたも今夜はわたくしにつかず、楽しんでも構わないのよ」
今夜のアネットは侍女服ではなく、控えめながら上質なドレスを着ている。
彼女もリリエルと同じく、もうすぐ成人する。そろそろ婚約者を見つけておいた方がよいのではないだろうか。
そう思ったけれど、アネットは静かに首を振った。
「いいえ。姫様のそばが一番楽しいです。この特等席を譲り渡す気はありませんわ」
「特等席?」
「はい」
アネットはそれ以上説明しなかった。
よくわからないけれど、彼女がそれでいいというのならいいのだろう。
「……あら?」
王族席に近づくと、ゼファーの姿が見えなかった。
先ほどまで彼がいた場所には、別の近衛騎士が立っている。
背が高く、屈強な体をしたその騎士は、どこかで会ったことがあるような気がした。
リリエルの視線に気づいたのか、その騎士はぱっと顔を上げた。
そして、やけに勢いよく胸に手を当てて礼をした。
そうだわ、とリリエルは思い出した。たしか、ゼファーに求婚した舞踏会の日に、アネットが腹痛にしてくれた騎士だ。
彼は唇を一文字に引き結び、顔を真っ赤にしていた。今にも何かを言いたくてたまらない、といった表情だ。
緊急の場合を除いて、こちらから声をかけなければ、彼らは発言できない。
「あなた、たしかカッセル卿のお知り合いでしたかしら」
「カイル・ライナーと申します! ゼファーとは同期入団で、心の友! 親友でございます!」
声が大きい。そして、心の友……親友?
ゼファーの友人——彼が心を許すほどの相手?
リリエルは、カイルをさっと観察した。
灰金の髪を持つゼファーとは違い、カイルの髪は明るい金色で、短く刈り込まれている。体つきもまるで違った。肩幅が広く、胸板も厚かった。近衛騎士の制服が少し窮屈そうに見える。胸元には、王太子付きであることを示す小さな銀の徽章と、騎士爵位を示す剣と盾の徽章が並んでいた。
立っているだけで存在感がある、典型的な騎士だ。
「ライナー卿。カッセル卿がどちらにいらっしゃるか、ご存知ですか?」
「はい! ゼファーなら夜間警備の確認に向かいました!」
「まあ。お忙しいのですね」
「明日からいよいよ大会が始まりますので! 皆、優勝候補のゼファーを休ませまいと大変張り切っております!」
それは……どうなのだろうか?
訓練場で、バルト・クラウゼ団長が語っていた言葉がよぎる。——躾。
少しだけ顔を曇らせたリリエルに、カイルは慌てたように背筋を伸ばした。
「ご安心ください! ゼファーはこれくらいでは疲れません! むしろ疲れてからが本領発揮の男です!」
「……疲れてからが?」
「はい! 明日は容赦ない剣筋が見られると思います! 最近、睡眠時間も削っているようなので!」
それは……安心できるのだろうか?
視界の隅で、兄がこちらを見ているのが見えた。兄のそばを離れ、こちらへ向かってきているのはバルトだ。
彼は貴族たちの手前、穏やかな笑顔を浮かべているが、明らかにその目は鋭くカイルを睨んでいた。こちらを見ているカイルはまったく気づいていない。
「ライナー」
「はい、団長!」
カイルが勢いよく振り向いた。
バルトの大きな手が、がしりと彼の肩をつかむ。かなり力が入っている。ぎりぎり、と肩のきしむ音が聞こえてきそうだった。もっとも、やられているカイルの方は平然としている。
「声が大きいって、いつも言ってるだろうが。今夜の警備が終わったら、懲罰房に顔を出すか?」
「いえ! 遠慮します!」
「だから声が大きい」
バルトがカイルの顎をつかみ、強引に口を閉じさせた。ようやく静かになる。もごもごと何かを言っているカイルを抑えつけたまま、彼は頭を下げた。
「姫様。お見苦しいところを」
「いいえ。大変興味深いですわ」
ゼファーの周りには、実に多様な人物がいるらしい。楽しそうで結構なことだ。
バルトに連行されていくカイルを見送ってから、リリエルは兄に挨拶を済ませ、少しだけ休憩することにした。王族席でじっくりとゼファーを観察しようと思っていたけれど、彼がいないのなら仕方がない。
中庭に繋がる渡り廊下に出ると、夜会の熱気と喧騒が遠のいて、ほっと息がつけた。
渡り廊下は、白い石柱が等間隔に並び、柱の間はゆるやかな半円アーチで庭に開かれていた。頭上を覆う石の天井はやわらかな曲線が走っていて、ホールから漏れる灯りが淡い影を落としている。
初夏とはいえ、夜になると少し冷える。今日は首筋をさらしているから、余計に冷たい空気が肌を撫でて肩がすくんだ。
「羽織るものを持ってまいります。すぐに戻ります、ここでお待ちくださいませ」
アネットはそう言うと、さっと身をひるがえした。
会場の入り口には騎士が二名立っている。扉は開けっ放しなので、アネットが戻るまで待つだけなら問題なさそうだった。
ふ、と息をついて前を向けば、廊下の先から近衛の制服を着た男が歩いてきていた。
灰金の髪。
「……カッセル卿」




