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あかい市の市長、探偵になる ― 胡桃沢編 ―  作者: エリト


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20/20

最終話 精霊の灯り

あれから、あっという間に数年が過ぎた。

あかい市の胡桃沢は——その姿を劇的に変えていた。


いや、正しくはこうだ。かつて誰も恐れて近づかなかった祟り森は、一本の木も伐られることなく、深い美しい緑のままそこに手付かずで残されていた。大きく変わったのは、そのすぐ隣の谷である。

森を完全に避けたひとつ向こうの谷あいに、低く平らな建物が、地形の起伏に沿うように自然に埋め込まれている。屋根は一面の緑化が施され、遠目にはただのなだらかな緑の丘にしか見えない。それこそが、あかい市が世界に誇る最新鋭データセンターの本体だった。


かつて議会で翔太がぶち上げた「五つの柱」は、彼の予言通り、すべてが思い通りにいったわけではなかった。


森を残すことで得られるはずだった「カーボンクレジット」は、その後の国際的な制度変更の煽りを受けて単価が暴落し、当初の皮算用には遠く及ばなかった。

また「自然とITが共生する実証フィールド」という壮大な夢も、大学や研究機関を丸ごと誘致するには、この街はあまりに田舎すぎた。国の基金は一部下りたものの、常駐する研究者は数えるほどしかいない。


だが、翔太が言った通り、種は多く蒔かれていた。一本か二本当たれば、それでよかったのだ。


「転ばないための杖」と呼んだ再生可能エネルギーによる電気代の長期固定は、その後に訪れた世界的な電力高騰という荒波の中で、施設を守る強固な防波堤となった。

そして何より、地味だと言っていた「排熱の売却」と、大博打だった「観光」が、予想をはるかに超えて大化けしたのである。


谷を流れる清らかな川の冷たい水でサーバーを冷やし、その膨大な排熱は隣接する農協の大規模ハウスへとパイプで送られる。雪の降る冬でも温かなハウスの中では、真っ赤なトマトや甘い苺がたわわに実り、今やあかい市の新しい特産品として全国に高値で出荷されている。


さらに、「世界初・原生林を守る完全エコ・データセンター」という看板は、環境問題とSDGsに敏感な世界中のグローバル企業から熱烈な支持を集めた。連日のように国内外から視察団が押し寄せ、サステナビリティを学ぶエコツアー客が街のホテルや飲食店に新しいお金を落としていく。賛同する企業からのふるさと納税も巨額に積み上がり、自然との共生を望む若い優秀な技術者たちが、家族ごと続々とこの街に移り住んできた。


森も、川も、畑も、人間の営みも、すべてがひとつの美しい環のように繋がっている。

特産品ひとつなかった寂れたあかい市に——「自然とITの共生」という、何よりも強く新しいブランドが確かに生まれたのだった。

市の財政は豊かに潤い、長年過疎に悩んでいた街角に、子供たちの笑い声と若い活気が戻った。


佐藤翔太は圧倒的な支持を得て、二期目の市長になっていた。

もはや、ただの暇つぶしで無責任に市長の椅子に座っていた、あの虚無を抱えた空の男の面影は、どこにもない。



ある日の穏やかな夕暮れ。

翔太はひとり、スーツ姿のまま胡桃沢の森をゆっくりと歩いていた。

市長としての多忙な公務の合間。ときどき彼はこうして一人でこの森を訪れる。


森のいちばん深い奥。

あの巨大な桂のご神木の、太い根方に。

ひときわ丁寧に清められ、しつらえられた小さな祠がある。


かおりが厳かな儀式で清めた、鎮守の祠。理不尽に犠牲になった十の無垢ないのちを悼み。そしていつか、新しい森の精霊が再びこの地に宿る、その日のために用意された空の依り代。


翔太はその小さな祠の前に静かに立ち、そっと目を閉じて手を合わせた。


「……どうですか。なかなかいい森になったでしょう」

誰にともなく、翔太は親しげに語りかけた。

「あんたたちが長野から夢見た、誰にも邪魔されない静かな森。……約束通り、一本も伐らずに残しましたよ。うるさいデータセンターは隣の谷に押し込んだ。まあ、俺が指揮したにしては悪くない出来だと思うんですけどね」


涼しい夕風が、高い梢を優しく揺らした。

葉擦れの音がさらさらと、まるで彼への返事のように森全体を渡っていった。


ふと、翔太は内ポケットから一枚の色褪せた写真を取り出した。

あの不器用な夫婦の写真。カメラに向かってぎこちなく微笑む清一郎と、何もない虚空をただ優しく見つめる佐和子。

何度も見返し、もうすっかり手垢でくたびれたその写真を、翔太はしばらく愛おしそうに見つめ。

そして、祠の傍らにそっと供えた。


「……あなたも、奥さんも。やっとあの子らと一緒に、安らげてますか」


翔太の問いかける声は、どこまでも穏やかだった。

彼らの犯した罪を、決して許しはしない。だが、その哀しい絶望を理解はする。あの日、暗い地の底で彼らに誓ったその気持ちは——今も全く変わっていない。


西の空に日が暮れていく。

祠の小さな灯明に、先に来たかおりが供えたのだろう、柔らかな明かりがひとつ、揺らめいて灯っていた。


森のはるか向こう。暗くなり始めた木立の切れ間から、あの緑化されたデータセンターの棟の窓明かりが、ぽつ、ぽつ、と規則正しく見える。

それは本来、ただの冷たい機械を動かすための人工の灯りに過ぎない。

だが、静かな夕闇の中で、豊かな森の緑を背にしてひっそりと瞬くその光は——まるで。

まるでこの傷ついた土地に、ふたたび新しい何かが温かく息づきはじめたかのように見えた。


あの山田老人が、ただ一度だけ垣根の隙間から見たという、透き通った子供たちの静かな呼吸のように。

ひっそりと、優しく、確かに灯っていた。


「……市長」

落ち葉を踏む音とともに、背後から凛とした声がした。

振り返ると、スーツ姿のかおりが立っていた。

あいかわらずの隙のない無表情。だがその横顔には——出会ったころには決してなかった、人間らしい柔らかな穏やかさが滲んでいた。


「こんなところに油を売っていらしたのですか。次の公務の時間が迫っています」

「ああ、わかってる。今行くよ」


翔太はもう一度、祠を振り返った。

小さな灯明の火が、森の深い闇の中でぽつりと優しく息づいている。


「……なあ、かおり」

「はい」

「俺、ずっと自分の居場所なんて、この世界のどこにもないって思ってた」


翔太はすっかり蘇った森を見渡し、感慨深げに言った。

「会社も、金も、名誉も。若くして何もかも手に入れたのに、どこにもしっくりこなくて。ずっと空っぽで。……それで結局、逃げるようにこの街に流れ着いた」


かおりは黙って、彼の言葉を聞いていた。


「でも、今は——ちょっと違う」

翔太はふっと、照れくさそうに笑った。

「この変な森と。何もない変な街と。それから、やたら優秀で変な秘書と。……こいつらの未来のために必死に頭ひねってると。なんかようやく、俺はここにいていいのかなって、そう思えるんだよ」


かおりはしばらく、何も言わなかった。

やがて、ぽつりと短く答えた。


「……それは、何よりです」


相変わらずの、素っ気ない言葉だった。

だがその静かな声には——確かな信頼と、隠しきれない温もりがこもっていた。


二人は並んで、森の出口へと続く土の道を歩き出した。

背後で、まるで新しい精霊の誕生を祝うかのように、無数の優しい灯りがいつまでも静かに明滅していた。


あかい市の市長は、今日もすこぶる忙しい。

この街には、まだ土地が覚えている名もなき哀しみがいくつも眠っている。それをひとつひとつ丁寧に解きほぐし、弔い、新しい未来へとつないでいく仕事が山積みだからだ。


かつて空の器だった男は。

苦しみの果てにようやく見つけた自分の居場所から。

愛すべきあかい市の未来を——誰よりも力強く、まっすぐに見据えていた。


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