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あかい市の市長、探偵になる ― 胡桃沢編 ―  作者: エリト


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第一話 燃え尽きた男

※全編、書き直しました

 銀行口座の残高というものを、佐藤翔太はもう長いこと、まともに見ていなかった。

 見ないのではない。見る気力が湧かないのだ。画面に並ぶ数字の桁を目で追うだけで、妙な倦怠(けんたい)が腹の底に溜まっていく。手塩にかけた会社を売り払って、三月(みつき)ほどが過ぎていた。その金は、この先どれだけ放埒(ほうらつ)に暮らしても使い切れる額ではなかった。なのに、それを確かめる作業ひとつが、彼にはひどく億劫(おっくう)だった。

 三十二歳。世間の物差しで測れば、佐藤翔太という男は「大成功を収めた若手起業家」という枠に、過不足なく収まる。少なくとも、外から眺める分には。

 背は高いほうだ。()せ型で、骨張った長い指をしている。手入れを(おこた)っても形の崩れない、生まれつき整った顔立ちで、切れ長の目には、人を値踏みするような鋭さがあった。雑誌の取材で「やり手の若手経営者」として写真に収まっていたころは、その顔が武器にもなった。だが今は、(ひげ)もろくに()らず、上等な部屋着のまま何日も過ごしている。鏡を(のぞ)けば、整った造作(ぞうさく)の奥で、目だけが妙に乾いて見えた。(うつわ)は上等なのに、中身が抜け落ちてしまった——そんな顔だった。


 はじまりは、大学のキャンパス脇に建つ、家賃四万円の木造アパートだった。

 隙間風(すきまかぜ)の入る四畳半に、無骨なデスクトップを何台も並べ、同級生たちと夜昼の区別もなくキーボードを叩いた。冷めたピザと、過剰にカフェインの入った飲み物で胃をだましながら、ただひたすらにコードを書き、出てきた不具合を潰す。そういう日々だった。

 時代が、味方をした。スマートフォンとクラウドサービスが、(せき)を切ったように世間へ広がっていく、ちょうどその時分である。若い狂気にも似た労働量と、ほんの少しの運とが噛み合って、彼らのこしらえたサービスは、恐ろしい速さで伸びていった。雑居ビルの一室から渋谷のオフィスへ、やがて港区の、天を突くようなビルの高層階へ。ガラス張りの会議室、淹れたての珈琲(コーヒー)の匂いの漂う仕事場。誰もが思い描く、ITというものの輝かしい成功の話、そのものだった。

 だが、ただで手に入るものなど、この世にはない。

 会社が大きくなり、社会的な責任という、目には見えないが確かに重い荷が肩にのしかかってくる。その過程で、あのアパートで肩を寄せ合った仲間たちは、一人また一人と、翔太のそばを離れていった。方向性の違い、という便利な言いまわしの裏には、いつもひりつくような人間同士の摩擦があった。気がつけば、彼の電話帳に残るのは、腹の底を探り合う投資家や、無機質な言葉ばかりを並べる弁護士や税理士の名前だった。

 三十の声を聞いたころ、翔太の胸の内で、ぴんと張りつめていた太い糸が、音もなく切れた。

 燃え尽き症候群、とでもいうのだろう。医者にかかれば、おそらくそう診断されたはずだ。飛び交う億の金も、毎日のように持ち込まれる人事のもめごとも、株主からの絶え間ない圧迫も、すべてが分厚いガラスの向こうの景色のように、よそよそしく、色褪(いろあ)せて見えた。

 翔太は、あっさりと会社を大手に売り渡した。

 手元に残ったのは、使い切れぬほどの金と、持て余すほどの暇と、そして、隙間風の吹き抜けるような、空っぽの胸だけだった。


 夜景の美しい港区のタワーマンションを引き払って、翔太が逃げるように戻ったのは、生まれ故郷のあかい市だった。

 広さだけは、それなりにある。だが、人口は多くない。都市部までは電車で一時間弱と、便が悪いわけではないのだが、途中に大きなベッドタウンが横たわっているために、わざわざこの土地を住まいに選ぶ理由が、誰にもなかった。これといった名産もなく、人を呼べる名所もない。人々がなんとなく暮らし、なんとなく歳を重ねていく——日本のどこにでも転がっている、中途半端に(ひな)びた地方都市である。

 実家は、空き家になっていた。両親が数年前、相次いで交通事故で世を去ったからだ。翔太はそこに、最低限の寝具と、最上等のパソコン環境だけを運び込み、(おり)のように溜まっていく時間を、ただやり過ごしていた。

 昼前に起き、あてもなくネットの海を漂い、配達された弁当を機械的に腹へ流し込む。夜になれば、適当な映画を流し、いつのまにか眠りに落ちている。ゲームの操作器を握ってみても、かつてのような熱は、もう湧いてこない。

 ありあまる自由と金とは、生きる目的を失くした人間にとって、真綿(まわた)で首を絞めるような苦しみでしかない。翔太は、それを身をもって知りつつあった。

 人は、欲しいものが手に入らないあいだだけ、生きていられるのかもしれない。手に入れてしまえば、その先には、手に入れたという事実だけが残る。それは思い出に似ていて、思い出は、人を前へは運んでくれない。翔太が立っていたのは、欲望の燃えかすの上だった。暖を取ろうにも、もう火の気はなかった。


 泥水のような日々が続いていた、ある日のことだ。

 めずらしく外の空気を吸う気になって、ふらりと出歩いた。市役所の前を通りかかったとき、真新しいポスター掲示板が、翔太の目に飛び込んできた。


 ——あかい市長選挙 告示日。


 まだ誰の顔も貼られていない、ベニヤ板の白い余白。翔太は、自販機で買った甘すぎる缶コーヒーを(すす)りながら、それをぼんやりと見上げた。

「……市長か」

 ふと、奇妙な思いつきが、頭の隅をかすめた。

 金は、もう一生分ある。商売の世界での、ひりつくような勝ち負けも、味わい尽くした。

「金の次は、地位と名誉、というわけかね」

 自分でも(あき)れるほど底の浅い独り言が、乾いた唇からこぼれた。市政にかける熱い思いなど、欠片(かけら)もない。故郷への愛着も、正直なところ薄かった。あかい市が今、どんな難儀(なんぎ)を抱えているのかすら、ろくに知らない。

 だが、人を狂わせるほどのこの暇を、少しでも潰せるというのなら——なんだってよかったのだ。


 一度思い立つと、起業家のころに身についた妙な行動力が、首をもたげた。翔太はその日のうちに選挙管理委員会へ足を運び、立候補に必要な書類を一式かき集めた。供託金(きょうたくきん)など、彼にとっては財布の小銭にひとしい。

 数日後、告示日を迎えてみれば、立候補者は翔太を含めてたった三人だった。

 一人は、現職の大野市長。四期十六年にわたって市長の座に座りつづけ、地元の土建業者と高齢者層から、岩のように固い支持を集める、この街の絶対の王者である。

 もう一人は、国政のとある政党が、地方での足固めのために送り込んできた、いわゆる落下傘(らっかさん)候補。

 そして三人目が、無所属、政治経験なし、元IT企業経営者という、市民から見ればなんとも得体の知れぬ肩書きの、佐藤翔太だった。


 選挙戦に入っても、翔太の態度は、ふざけているのかと問いたくなるほどに、いいかげんだった。

 面倒な公約は、ニュースで耳にした聞こえのいい言葉をつなぎ合わせただけ。世代交代、行政のDX化、ペーパーレスとAIで無駄な税金をカット——中身は、空っぽだった。ポスターはネットで安く発注し、選挙カーで名を連呼する係は派遣に頼んだ。街頭演説も、駅前で一日一回、十五分ほどマイクを握るきり。市役所の手続きがスマートフォンひとつで済めば便利でしょう、などと、薄い言葉を並べるだけだった。

 情勢調査では、当然のように現職の大野が、他を大きく引き離して独走していた。誰もが、現職の五選を疑わなかった。翔太自身、世の中そう甘くはない、早くこの茶番が終わらないか、と、すっかり消化試合の気分で構えていた。


 ところが——世の中の底には、ときおり、誰も読めぬ濁流(だくりゅう)が渦巻いていることがある。


 投票日の、ちょうど三週間前。

 昼のニュース速報が、翔太のスマートフォンに、無機質な文字を映し出した。


 ——あかい市長、公共工事をめぐる収賄(しゅうわい)容疑で逮捕へ。


「……はあ?」

 寝そべっていたソファから、翔太は間の抜けた声をあげて跳ね起きた。

 慌ててテレビをつけると、見慣れた市役所の玄関に、段ボールを抱えた背広姿の捜査員たちが、つぎつぎと吸い込まれていく映像が流れていた。十六年という長すぎる歳月は、権力を澱ませ、腐らせるのに、十分すぎたらしい。絶対の権力を握っていた現職市長は、その(おご)りゆえに脇が甘くなり、業者からの黒い金に手を染めていた。

 あかい市は、(はち)の巣をつついたような騒ぎになった。

 岩のように見えた大野陣営は、音を立てて崩れ、潮が引くように支持者たちは離れていった。大野は逮捕され、事実上、選挙戦から退いた。

 残されたのは、政党の落下傘候補と、翔太の二人だけ。

 常識で考えれば、組織票という固い地盤を持つ政党候補が、圧倒的に有利になるはずだった。だが、このときのあかい市民の胸に渦巻いていたのは、そんな生やさしい感情ではなかった。長年の癒着(ゆちゃく)、裏で回される金。そういう泥くさいしがらみへの嫌悪と怒りが、既存の政党のにおいのする候補にすら、どうせこいつも裏で繋がっているのだろう、政治家など結局みな同じ穴の(むじな)だ、という根深い不信を抱かせた。


 そこに、ぽつんと浮かび上がったのが、佐藤翔太という存在だった。

 三十代の、若い元IT経営者。完全無所属、しがらみは一切なし。掲げる公約は、最新の技術による、清潔な市政——。

 折しも、世間は「IT化」「DX化」という熱病に、いくらか浮かされていた時分である。

「金なら腐るほど持ってる若造らしいから、せこい賄賂(わいろ)なんぞ受け取る理由がなかろう」

「IT企業の社長なら、あの古臭い役所の連中を、ぶっ壊してくれるんじゃないか」

 翔太が、ただ適当に並べただけの、中身のない公約が、皮肉にも「新しい時代の風」として、市民の飢えた心に、深く刺さってしまった。現職への失望と怒りから生まれた巨大な反発が、行き場を求めて、一気に翔太のもとへ雪崩(なだ)れこんできたのである。

「いやいや、冗談じゃない。嘘でしょう」

 肌で感じる風向きの変わりように、翔太は得体の知れない焦りに急き立てられた。

 数日前まで、駅前でマイクを握っても誰も見向きもしなかったのに、今では歩道から人があふれんばかりだ。佐藤さん、頼んだわよ。汚い役所を掃除してくれ。熱を帯びた声援が飛んでくる。

 メディアの取材も殺到した。行政のDX化のロードマップを。シリコンバレーの手法をこの街にどう。マイクを向けられるたび、翔太は内心で冷や汗を流しながら、アジャイル開発のように市民の声を聴き走りながら考えます、などと、それらしい横文字で煙に巻くしかなかった。

 だが、人の心というのは、恐ろしいものだ。

 勝てるかもしれない、という熱狂の渦の中心に立たされると、当人まで妙な高揚(こうよう)に包まれてくる。起業家のころの、あのひりつく闘争心が呼び覚まされたのか、選挙戦の終盤、翔太は(がら)にもなく声を枯らして、街宣車から手を振りつづけてしまった。


 そして、開票の夜である。

 選挙事務所として借りた、シャッター通りの空き店舗は、異様な熱気に包まれていた。どこから湧いたのか分からぬ大勢の支持者と、カメラの列。

 午後八時。投票箱の締め切りと、ほぼ同時だった。

 壁にかけた小さなテレビの選挙特番に、当確、佐藤翔太、という赤い文字が、無情に躍った。

 その瞬間、プレハブの屋根が吹き飛ぶかと思うほどの歓声が、爆発した。

 万歳、万歳。

 見ず知らずの支援者たちの手に()みくちゃにされ、どこかの業者の持ってきた胡蝶蘭(こちょうらん)を押しつけられ、無数のフラッシュを浴びながら、翔太は顔を引きつらせて万歳を繰り返した。

 頭の中は、真っ白に()いでいた。

(やってしまった。受かってしまった。……俺は、これから、どうすればいいんだ)

 歓声は、確かに自分に向けられている。なのに、その音は、どこか遠くの祭りの囃子(はやし)のように聞こえた。人にもっとも望まれている瞬間に、人はこれほど一人になれるものなのか——翔太は、()みくちゃにされながら、そんなことをぼんやりと考えていた。望まれることと、必要とされることは、似て()なるものだ。この街の人々が必要としていたのは、佐藤翔太ではない。大野ではない、誰か。ただ、それだけだった。


 数日が過ぎた。

 市役所の最上階、重厚な両開きの扉の奥に、市長室はある。

 無駄に広い部屋の真ん中に、マホガニーの巨大な机が鎮座(ちんざ)している。壁には歴代市長のセピア色の肖像が並び、無言の圧をかけてくる。広く取られた窓の外には、なんの変哲もない、あかい市の平らな街並みが広がっていた。

 翔太は、体が沈み込むほど柔らかな革張りの椅子に座って、両手で頭を抱えていた。

「……どうするんだ、これは」

 仕立てのいいスーツの襟元(えりもと)で、真新しい市長バッジが、鈍く光っている。この部屋の扉の向こうにいる無数の職員に対して、翔太は完璧な敬語と、隙のない態度で接してきた。若いが礼儀正しく理知的な新市長、という仮面をかぶるためだ。

 だが、一人になった途端、その仮面はひび割れ、本音が漏れ出す。

 受かってしまったのは、もういい。だが、腹の底から、本当に、何ひとつやりたいことがないのだ。

 行政のDX化などと大見得(おおみえ)を切ったが、そんなものは優秀なコンサルに丸投げすればいいと思っていた。ところがいざ椅子に座ってみれば、議会での気の抜けぬ答弁、膨大な予算の編成、地域の細かな行事への出席と、息の詰まる雑務が山と待ち構えている。

 あのアパートで起業したころには、自分たちの手で世界をほんの少し便利にしてやるのだという、身を焦がすような熱があった。

 だが、今は違う。

 ただの暇つぶしが、最悪の形で実を結び、巨大な責任となって、両肩にのしかかっているだけだ。

「辞任会見なんぞ開いてみろ。『暇つぶしで立候補しました、受かったので辞めます』。半日で全国に(さら)し者だ。……ま、SNSのフォロワーくらいは増えるかもしれんがな」

 誰もいないのをいいことに、翔太は地の人格をむき出しにして、高い天井を(あお)ぎ、深いため息を吐いた。自嘲(じちょう)の皮肉すら、空っぽの部屋に吸い込まれて、(むな)しく消えた。


 その時だった。

 こん、こん、と。

 控えめだが、妙に(しん)のある、硬いノックの音が、市長室の静寂を破った。

 翔太は(はじ)かれたように背筋を伸ばし、顔の筋肉を引き締めた。

「……はい、どうぞ」

 落ち着いた、威厳ある声で応じると、重い木の扉が、音もなく開いた。

 そこに立っていたのは、一人の若い女だった。

 歳のころは、二十歳そこそこだろうか。(からす)()れ羽色をした(つや)やかな黒髪を、肩のあたりで切り揃え、仕立てのよさそうなダークグレーのパンツスーツを、隙なく着こなしている。背はさほど高くない。華奢(きゃしゃ)な体つきで、白い首筋や、組んだ指の細さには、まだ少女めいたあどけなさが残っている。目鼻立ちは、絵から抜け出してきたように整っていた。色の白い、(なめ)らかな肌。長い睫毛(まつげ)の下の、黒曜石(こくようせき)のように深い瞳。唇は薄く、(べに)も差していないのに、淡く色づいて見えた。誰が見ても、美しい娘だと言うだろう。

 だが、何かがおかしい。

 その顔には、喜怒哀楽という、人らしい感情の揺らぎが、まるで見当たらない。精巧に作られた、古いからくり人形のような、薄ら寒いほどの無表情だ。それだけではなかった。背筋の伸ばし方、指先の揃え方、そして、空間を圧するような、静かな気迫。どう見ても、二十歳の娘が持ちうるものではない。永田町の海千山千(うみせんやません)を相手に、いくつもの修羅場(しゅらば)をくぐった老練な秘書のような、(すご)みすら漂わせていた。

 女は、革靴の足音すら立てずに机の前まで歩み寄ると、一分の無駄もない所作(しょさ)で、深々と頭を下げた。

「初めまして、佐藤市長。私は、天羽(あもう)かおりと申します」

 冬の朝の空気のように澄んだ、それでいて、刃物のように冷たい声だった。

「……天羽さん、ですか。秘書課の方でしょうか。申し訳ないが、私は今、少々一人で、今後の市政について考えておりまして」

 翔太が、市長としての丁寧な仮面をかぶってそう告げると、かおりは静かに顔を上げた。

「いいえ。私は、市役所の職員ではありません」

 黒曜石(こくようせき)のように深い瞳が、翔太の目をまっすぐに射抜いた。その視線には、彼の仮面など、とうに見透かしているような、鋭い光が宿っていた。

「あなたには、明確なビジョンが欠けています。ただ暇を持て余して、出馬しただけ。選挙など、今後の人生のちょっとした話の種にする程度のおつもりだったのでしょう」

「なっ……」

 翔太は、息を呑んで絶句した。

 誰にも言っていない。胸の奥底に隠していた、もっとも浅ましく、無責任な本音を、見ず知らずの若い女に、こうも無慈悲に(えぐ)り出されるとは。

「な、何を仰っているのか、私には」

「それに、あなたは今、深い孤独の中にいらっしゃる。巨万の富を得て会社を手放し、すべてに燃え尽きて、このあかい市で、ご自身の居場所を見失っている」

 かおりの言葉は、急所を的確に突く短刀のように、翔太の心へ深く刺さった。しかも、その語り口は、二十歳の娘のそれではない。数多くの政治家の栄枯盛衰(えいこせいすい)を見届けてきた、酷薄(こくはく)な権力者の右腕のような、底知れぬ重みがあった。

 この女に、外面の敬語など通用しない。

 本能でそう悟った翔太は、かぶっていた市長の仮面を、かなぐり捨てた。

「……たいした営業トークだ」

 声のトーンが、数段、低く落ちる。一人称が、俺、に変わった。ITの修羅場で、裏切る人間を切り捨ててきたときの、冷たく獰猛(どうもう)な男の顔だった。

「占い師か、それとも詐欺師(さぎし)か。どっちにしろ、相手が悪いぞ。俺は、自分の感情を当ててみせる手品(てじな)に、金を払う趣味はない。……誰の差し金だ。どこの興信所(こうしんじょ)を使った」

 翔太が椅子から立ち上がり、鋭く(にら)みつける。常人なら(すく)み上がる眼光(がんこう)だ。だが、かおりはわずかに首を傾げただけで、能面(のうめん)のように感情の読めぬ顔のまま、淡々と告げた。

「誰の差し金でもありません。私は、あなたの秘書になるために、参りました」

「秘書、ねえ」

 翔太は、鼻で笑った。

履歴書(りれきしょ)も持たず、アポも取らず、いきなり市長室に押しかけて、開口一番に雇い主の古傷(ふるきず)(えぐ)る。……控えめに言って、面接の作法(さほう)としては、最低だな」

「ええ。私が、あなたを正しい市長にして差し上げます。そして——」

 皮肉は、まるで通じていなかった。かおりは表情ひとつ動かさず、話を進める。その、ぬかに(くぎ)を打つような手応えのなさに、翔太はかえって毒気(どっけ)を抜かれた。

 その時、かおりの薄い唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。それは、長年の訓練で押し殺してきた感情の底から、目的を前にして思わず漏れ出た、ひどくちぐはぐで、ぞっとするほど魅力的な、酷薄な笑みだった。

「私にも、このあかい市で、市長の権力を使って、どうしても果たさねばならぬ目的があるのです。……持ちつ持たれつ、ということで、いかがでしょう」


 この街には、知られざる秘密がある。

 彼女の曽祖父(そうそふ)から続く、天羽の家の宿願(しゅくがん)を果たすため。そして、天羽の家に受け継がれてきた、ある異能を行使するため。天羽かおりは、佐藤翔太という、中身の空っぽな権力者に目をつけ、みずから近づいてきたのだった。

 これが、のちにこのあかい市を大きく揺るがすことになる、奇妙な二人の、最初の出会いだった。


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