三
気ままな天敵が去ってから、眩しい太陽と明るい月を同じ数だけ跨いで十数回。あの忌々しいチョウの言葉通り、すぐに暑い空気が訪れ、私たちを襲っていた。それでも夜の間は過ごしやすく、日中さえやり過ごせば太陽の見えなくなる頃には、気持ちのいい風が微笑んでくれる。それも楽しみの一つであったが、最近私にはもう一つ楽しい出来事が増えていた。周囲の寝静まった頃、トリコールとよく話をするようになっていたのだ。静かな眠り時はもちろんビオラも例外ではなく、微動だにしないでカラダを休めている。そのビオラの横で、私はトリコールと夜な夜な会話をしていた。いつしか夜が待ち遠しいと、思うようになっていたほどに。
今夜も私は、トリコールの話に夢中になって相槌を打っていた。
「パンジーってね、パンセという言葉から名づけられたんだよ」
「パンセ?」
聞いた事のない新しい言葉だった。私はパンセの意味を尋ねた。
「思考、思索、思想」
トリコールはつらつらと答えていった。
「これから今よりもっと暑くなる時期に、僕らはこの花弁を前に傾げるんだよ。その格好がヒトの思索に耽る様子に似ていてさ、だからパンセという言葉から名づけられた」
「へえ……」
最近では、トリコールを気味悪いとは露とも思わなくなっていた。きっと昔はヒトであったと話したあの会話を受け止めたからだろう。もう、その物知り具合に素直に感心するばかりだ。
「暑いのは苦しいけれど、少しだけ楽しみだね」
そう言ってトリコールは笑う。
「みんなで見よう」
力強い言葉を吐いたトリコールに、私は「うん」と返事した。
「君ね、似ているんだよ、僕に」
トリコールがそう言ったのは最も暑い時期が到来する直前、もはや私たちの日課となった夜の会話の最中だった。
「そう」
どこらへんが、と思った私は、きっとそう思うところが似ているのだろうと感じた。もしこれがビオラなら色も形も大きさも違うと否定しているだろうから。
「ひょっとして、君も昔はヒトだったのかも知れないね」
トリコールの予想に私は不思議と納得していた。いつかトリコールが、私の言ったセンスという言葉に面白いと返してくれたことを思い出す。なぜ私はそんな言葉を知っていたのだろう。考えれば考えるほどトリコールの言ったとおりのような気がして、私はぽつりと皮肉を返した。
「だからあなたの事、好きになれないのかしら」
トリコールは「言うね」と花弁を揺らしていた。
「同族嫌悪、なのかも」
私の呟きにすかさずトリコールは言葉を挟む。
「似ていない所もあるよ」
どこかしら、とトリコールを見やると、トリコールは歌うように呟いた。
「君は可憐だろう?」
「……確かに、似ていないわね」
素直に礼を言えない私に、トリコールはしかし嬉しげな声で笑っていた。トリコールと私は、こういう会話を交わせるくらいになっていた。それは思いのほか居心地が良く、私に不思議なことを願わせた。
ずっと続けばいい、と。よく知らないカミサマという存在に。
こんなことを考える私は、余程センスが無いのだろうか。
この日、ミカとリカは連れ立って私たちの前に現われた。他に水をやるヒトと比べると小さな二人だけれど、それでも私たちには圧倒的な大きさに見える。朝から姿を見せた二人に私たちは適度な水分を与えられた。
今日の分の補給を終えると、水滴を浴びてキラキラと光る周囲や土の喜びを感じていた。ビオラもトリコールも嬉しそうにしている。辺りに注意をやると、他の草木たちも同様だった。気持ちいいね、気持ちいいねと、さんざめく声が共鳴している。
私もその声に肯いて、再度ビオラとトリコールを見やった。しかしその時、信じがたい光景が飛び込んでくる。
……トリコールがいない。
今しがたまで一緒にいたトリコールは何故か忽然と姿を消していた。トリコールがいたはずの場所には、先程の水の名残で湿った土が若干荒れている。土の散らかり様に私は瞬時に理解した。掘り返されたのだ。
慌てて周囲を見てみると先程の騒ぎ方とは打って変わって、みながざわついている。ビオラの困惑しながらも注意をひくような大きな声に、私はビオラが声で示した先を見た。……息を、呑んだ。
――確かに、名とは便利なものだと分かった。名があればトリコールの言った区別が容易に出来る。トリコールを摘んだのは、ミカのほうだと私は記憶に刻み込んでいけるのだから。
「泣かないで、泣かないで」
私は、しきりに声を震わすビオラにその言葉ばかりをかけていた。その言い方がおかしいとは思わなかった。本来ハナであるなら、涙というものは流せない。泣けないくせに、「泣かないで」と自然と連呼していた。
それから二日、ビオラは慰めてもウンウンと頷くだけで、一向に元気にならない。私も気落ちしたままだったけれど、これも仕方のないことだと自分を納得させていた。何故ならすべての決定権はヒトにあり、私たちはそれを握られている側であるからだ。こればかりはどうしようもない。叫んでも喚いても、私たちはヒトの意思には逆らえない。トリコールのことは心配だし不安だけれど、どうにもならないのだ。ただ、私は忘れないでおこうと思った。トリコールと、ミカのことを。
七日も経つと、徐々にビオラは元気になっていった。私もビオラもトリコールの心配はするけれど、そればかりに構っていられるわけではないからだ。
朝も昼も夜も一日中、暑い日々がやって来る。
生き残るために、この暑さを耐えねばならない。ビオラはビオラのことを、私は私のことを、自分自身の身だけを案じ、次にいのちを残すことが絶対だからだ。
トリコールがいなくなってからというもの、私たちはミカとリカの行動にいちいち怯えていたが、どちらも私たちにただ淡々と水をやる日々が続いていた。土中にたっぷり含まれていく水分は暑さのおかげで少々物足りなく感じていたが、水分の取り合いは一株分だけ浮いたのだ、安定した世話が欲しいけれど贅沢は言えなかった。