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第63話 真夜中の狂気

仕事を終えて帰路についた。

「やっと終わった」

そんな気分だ。


一日の労働のあとはこれで帰って休めると思うとやはり心が和む。

昼間はまだ暑さが残っているが、夜ともなるとすでに秋の気配が漂ってきていた。

車は国道を浅山駅方向に走っている。

私はこれからまだ先にある有名な一級河川の橋を渡って、それからしばらく走る隣の県から通っているのだ。

通勤距離はあるが慣れてしまったため、さほど遠い感じはない。


夜の一時過ぎの通勤時間はカラオケの練習にはなかなか良いのだ。


「私は運転しながら歌うときはいっこく堂ですよ」

先日、運転しながら歌う話しで盛り上がっていたとき、事務の中谷が言った。


「いっこく堂?・・・ 何それ」


そんなものが出て来るとは思ってもみない意外な言葉に皆の視線が中谷に向けられた。

「他人に見られても歌っていることがわからないように、唇を動かさないで歌うんですよ」


『腹話術か』

なるほどね。


「普通にちゃんと口開けて歌えばいいんじゃない」

私がそう言った。

「ダメですよ。歌っているのを見られるのは恥ずかしいじゃないですか」

彼は譲らない。

「でも、それじゃ歌いずらいよね」

私が言うと

「そんなことないですよ・・歌えますよ」

即座に返した中谷はあくまでも譲る気はない。


どういうものかと後日こっそりいっこく堂を試してはみた。

声が籠って不自然なもので歌った気はしない。

そりゃあ確かに、走っている車が一瞬すれ違ったとしても、微かな唇の動きを見抜かれる心配はないだろうが・・・

でも、そんな心配も昼間だけで、夜になってしまえば、そんな杞憂はなくなって

ひたすら大口を開けて歌えるのだ。


歌は演歌。

エンジンの音と閉めきった窓で大声は外に漏れることはない。

真っ暗な中で声を張り上げて歌っていた。

森進一は面白い。

声を回して身体も上下に揺する。

昼間はいっこく堂でやるしかない。


「あっ、あ、あ、あ、あ、」

首絞められたような雄たけび

顔はニワトリ・・・が、突然の急ブレーキ


突然予告なしに車の流れが止まった。

数台前の車が何かを避けようとしている。


理解不能

何だかわからない。

「犬か猫がいるのか。まさか、轢いちゃったんじゃないだろうな」

そんなことくらいしか思い浮かばなかった。

車はしばらくグリグリ右に左に何かをやっていたが、やっとのことでそれを振り切ると猛スピードで逃げ去って行く。


「ん・・?」

で、次の車もまた何かを避けているような動きをする。

誰かが通さないように邪魔しているのか。

「何だ・・?」

それもやはり、そこを抜けると恐怖に駆られたように逃げ去る。

私も怖くなってきた。

「恐ろしいものがだんだん近づいて来るってわけだ」

そんな気分だ。


私の前の車がすぐに蛇行を始めた。

「うわ」

上半身素っ裸、はだし、ズボンは破れて泥だらけ、坊主頭、どこかネジがはずれている漫画みたいな顔の若い男、そいつが恥も外聞もなく、必死の形相凄まじく狂ったようにシャツを振り回して前の車を追い回している。


「何やってんだ・・酔っ払いだな」

『それとも嫌がらせか・・?』

そんな感じにも思えた。


両手で通せんぼ。

シャツをぶん回し、捨て身で車の行く手をさえぎるため、それを避けるのに左右に逃げる以外ないのだ。


「やだな・・・」

訳のわからない恐怖が襲って来た。

「冗談じゃねえ。こんなのに関わりたくないよ」

前の乗用車はハンドルを上手くさばいて男を振り切ると、脱兎のごとく走り去った。


前の車が逃げ去ると、今度は男が私の車に突進して来る。

『しまった・・畜生』

完全に行く手を阻まれてしまった。

「退け・・邪魔だ」

目を血走らせた狂気の男が襲い掛かって来る。

『来るな、馬鹿野郎』

私は必死に右へハンドルを切った。

男が素早く捨て身で右へ飛び込んで来る。

「くそ、なにするんだ・・邪魔だ」

今度は左へハンドルを切った。

今度は男が私を逃がすまいと左のサイドミラーに飛びついた。

「何するんだ・・おまえ死神か・・・・」

恐怖に駆られた。

男はしがみついたまま放さない。

「そこつかんじゃダメだ・・放せ」

パニックの私

「助けて・助けて・殺される・・助けて」

男が必死にわめいているのがドア越しに聞こえた。

お互い完全にパニックだ。

「手を放せ・・つかんじゃだめだ・・放せ」

「殺される・・助けて、助けて」

男は無我夢中。


「殺される?・・」

『怪しいと言うより誰かに追われていたのか』


その瞬間、急速に心が落ち着いて腹が座った。


『助けるか・・・』

タクシー根性と言うか、駕籠屋根性みたいなものかな。

『いざとなったら体を張るしかない』

タクシーに乗るには捨て身で対処するしかないこということに遭遇することも少なからずあるのだ。


ヤクザや酔っ払いに絡まれたら相手に殴らせる。

ヤクザなら組の名前を出させる。

襟首を掴ませる。

それから警察に通報して、殴られたり襟首を掴まれれば傷害、組の名前を出せば恐喝でパクらせる。

前科があればそのまま懲役に出来るからだ。

追突されたらむち打ちでゴネる。

そのためタクシーの運ちゃんは悪いのが多いとか言われてしまう場合が多いのだが、日頃体を張って仕事をしていると、知らぬうちにそうなってしまうのかも知れない。

でも、頭のいいヤクザはタクシー運転手とトラブルになったときは絶対に組の名前を出さないし、殴ることもしない。

たまに頭の悪いヤクザもいるが

その話は後日あらためてすることにして・・・


車を止めて左のドアロックをはずす。

男がドアを開けて飛び込んで来た。

後ろに渋滞していた車は成り行きをうかがっていたが、男が私の車に関わったのを見るとそれ逃げろとばかり、我先に急ハンドル切って脱兎のごとく脇をすり抜けてすっ飛んで逃げ去って行く。

私だけが取り残された惨めさを味わったが、乗り掛かった舟だ。

覚悟を決めた。

乗り込んで来た坊主頭の若い男が震えている。

「どうしたんですか」

私が聞いた。

「ヤクザに追われているんだ」

体格はいいが気が小さいのがむき出しだ。

「ヤクザがどこにいるんですか」

追われていると聞いたので、車をすぐに発進させながら聞いた。


「今、あそこの本屋の駐車場に停まっているセドリックに乗ってこっちを見ているよ」

男が右手の方向を指差した。

その方を見ると確かにセドリックが正面をこちらに向けて停まっている。

私の車に男が乗り込んで発進したのを見届けると

ゆっくり方向を変えて動き出した。

追って来るかと緊張したのだが

その気配がないことに少し安堵した。


「ヤクザと何があったんですか」


ヤクザに追われて刺されるようでは余程やばいことをやったに違いないと、怖いもの見たさも手伝って聞いてみた。

男はまだ興奮している。

気が動転して

「刺された、刺された」と半泣きで繰り返しているばかりだったが、

ヤクザから逃れられた安堵感が落ち着きを少し取り戻させたのだろう。

大雑把ではあるが経緯を話し出した。


「飲み屋で飲んでいて、知っているヤクザの名前を出したんだ。

そしたら、急にあの二人が俺のところへ来て、お前そいつを本当に知っているんだろうな。

知っているなら、そいつを今すぐここへ連れて来いって、胸ぐら掴まれて、もうひとりが後ろから俺をブスッと刺した。

俺は殺されると思って店から飛び出したんだけど、つかまっちゃったんだ。

お前を絶対逃がさねえからなって

無理やり車に押し込まれて、組の事務所に連れていかれそうになったんだ・・このまま連れて行かれたら殺されると思ったから隙を見て必死に逃げだしたんだ」

男は一気にそこまで話した。

まだ震えが止まらない。

「ヤクザの名前出しちゃったんですか」

私が言った。

「こんなことになるとは思わなかったから」

男は後悔しているようだった。

「危険ですね・・

私も中小会の幹部に俺の名前使ってもいいぞって言われたことはあるけど絶対使わないですよ・・連れて来いって言われて、来てもらうのも金ですからね・・・ただじゃありません」

ヤクザの幹部を客として乗せたとき何故か気にいられたようで、そう言われたことがあるということは言わずにおいた。

タクシーの乗務員であることがわかれば身元が明らかになってしまうからだ。


「俺はこんなになるとは思わなかったから出しちゃったんだけど、名前出しちゃいけなかったんだ・・失敗したな・・出さなければよかったな」

男がしみじみ言った。


ところで私は先ほどから気になっていたのだが

刺されたことを繰り返し言っているわりには血が出ていないのはどういう訳だろう。

訝る想いで

「刺されたのはどこなんですか」

「けつだ・・けつ刺されんだ・・後ろからザクっと」

男は即座に答えた。

『けつかよ・・・』

なんだか、がっかりした。

『もう少し、マシな返答を期待していたのだが・・普通、刺されたというのは腹とか背中とかじゃないのかな・・けつじゃ格好悪いだろう・・恥ずかしくないのか?・・』

同時に後ろから尻を刺されてのけ反って顔を歪めている間抜けな男の姿が脳裏をよぎった。


『しかし、それにしても血が出ていないんだけどさ』


『けつを刺されたんじゃ、シートが血だらけになるはずだ・・でも、そんな様子もないよな・・・本当に刺されたのか?・・・それは刃物じゃなかったんじゃないか・・その辺にあった尖った何かで突かれただけじゃないのか?・・』

そうは思ったが

相手の自尊心を傷つけないように

「刺されたんじゃ、警察に行ったほうがいいですよ」

自分の家に送って欲しいという男の言葉を遮って私は言った。


それでも執拗に男は家に送って欲しいと言い張っていたが


「あとからまた嫌がらせされないとも限らないし・・警察に話を通しておいたほうがいいんじゃないですか」

そう私が提案したことで気持ちが変わったのだろう。

「そうか・・そうかもしれないな・・やはり警察に話しておいたほうがいいかも知れない」

男がやっと納得した。


でも今から考えてみると血が出てもいなかったのだから、警察じゃなくて男の家に送ってやってもよかったのかなと思わないでもないのだが・・・

その時は警察しか頭になかった。


「じゃあ、警察へ行ってください」

吹っ切れたように男が言った。

「そうです・・それがいいですよ」

わたしが調子良くそう言うと安心したのかやっと落ち着いてきた。

そうと決まれば話は早い。


そこから十分ほどで浅山警察の玄関についた。

「名前を教えてください・・御礼しなくちゃだから」

男が言うのをおさえて

「いいですよ・・急いで帰らなくちゃならないんで。 それより早く警察へ行ったほうがいいですよ」

名前を教えれば目撃者として呼び出されるのは確実だろう。

もうこれ以上、こんなことに関わりたくなかった。

男が警察の玄関へ向かい始める。


もたついていれば男の話に警官が証人の私の話を聞こうとするだろう。

そうなれば警察の事情聴取が始まってしまう。

その前に姿をくらまさないと大変だ。

私は慌ててギアを入れると逃げるように警察を後にした。


しかし、こういった出来事は意外と珍しくはないもので、

飲み屋に迎えに行ったりすると、ヤクザの名前を出したためにチンピラやその筋の客に胸ぐらを掴まれて、いたぶられている客をよく目にするものだ。

ヤクザの名前を出すときはよくよくお気をつけください。




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