第19話 君に伝えたいこと
この少年は、まず何と言うだろうか。
美沙は全てを聞き終わった隆也の、うっすら皺の寄った眉間のあたりをボンヤリ見つめていた。
信じないだろうか。
くだらない冗談だと怒るだろうか。
隆也は何も言わず、ゆっくり目線を部屋のあちこちに移し、必至に何かを考えているようだった。
ひとつひとつ記憶をたどり、入念に検証でもするように。
そしてようやく美沙に視線を合わせると、口を開いた。
「それは本当のことなんですか?」
「こんな冗談言っても、仕方ないでしょ?」
「・・・そうですね。嘘だったら、幼稚すぎる。ここでそんな作り話をする意味も無い」
隆也は納得したのかどうか分からない、低く落ち着いた声で言った。
「でもね、隆也・・・さっきも言ったように、春樹は私以外には誰にも教えなかった。両親にも、兄にも。臆病なほど慎重に守ってきた秘密なのよ。もしも信じてくれたのなら、春樹の気持ちだけは・・・」
「あなたは!!」
突然美沙の言葉を遮り、隆也が声を張り上げた。
ビクリとして息を呑んだ美沙に、隆也の視線が鋭く突き刺さった。
「美沙さんは、・・・だからあんな態度を取ってたんですね、春樹に。だから指一本触ろうとしなかったんだ」
「・・・」
「あなたはレディホークなんかじゃない」
そう言うと隆也はクルリと踵を返し、乱暴にドアを開けると出て行ってしまった。
“誤解された”
とっさにそう感じ、慌てて後を追って廊下に出たが、隆也はすでにエレベーターに乗り込み、扉を閉めたところだった。
呼び止めてどうしようと思ったのか。
「誤解だ。自分が春樹に触れないのは、決して知られてはいけない秘密を持っているからだ」とでも言いたかったのか?
そんな事を隆也に言えば、どうなるか考えるまでもない。
今度は隆也が春樹に触れるのを阻止しなければならない。
なんてバカバカしい茶番だろう。
何て滑稽なんだ。
美沙は知らず知らず、自分でも説明のつかない嗤いを口元に浮かべていた。
頭が考えることに疲れ果ててしまった時の信号だ。
「どうにもなりはしない。良くも、悪くも。・・・ねえ、そうでしょ? 春樹」
降下していく表示ランプを見ながら美沙は、心臓のあたりがゆっくり氷のように冷えて行くのに、ただ耐えるしかなかった。
◇
常識的にはあまりに非現実的で、信じがたい事ではあったが、それはすんなり隆也の腑に落ちた。
つじつまの合わなかった出来事や春樹の言動が、それですべて理解できた。
あの時も。そしてあの時も。
狭いエレベーターの中で、高校時代のやり取りが次々と思い出される。
どんな時でも春樹は女の子に触れなかった。それはハタ目に怯えてる風に見えるほどだった。
美沙の言ったことが本当なら全て納得できる。
相手の見たものや、記憶、感情が流れ込んで来るというのは、いったいどういう感じだろうと隆也は想像してみた。
例えば女の子だとしよう。
朝起きて着替え、トイレに行き、友達としゃべり、恋人との時間を過ごし、あるいは体を交え、風呂に入り、一人プライベートな時間を過ごす。そんな女の子の日常まで覗き見てしまう。
決して表面に出さない歪んだ感情や、人に聞かせたくない身体的、あるいは性的な悩みだって人はそれぞれ抱えている。
心や記憶は隠しているからこそ人間として普通につき合える。
境目なくそれが流れ込んで来ると言うことがどんなに苦痛か、想像しただけで胸が悪くなってくる。
もし恋をして、好き同志になったとして、その女と肌を合わせることが出来るだろうか。
自分がそんな能力を持っていると言うことを隠しながら、平静で居られるだろうか。
ましてや知られてしまったら。
想像するだけで精神がどこか病んでしまう。
自分ならそんなこと、耐えられない。
震えが来るほど恐ろしいことだった。
隆也はふと、春樹と初めてちゃんと話をした日のことを思い出した。
あの日春樹は、万引きと間違われた隆也の悔しい、やり場のない怒りを全て理解していたのだ。
嘘までついて隆也を引き留め、ずっと側にいてくれたのだ。
1階でエレベーターを降りエントランスへ向かうと、壁に寄りかかり、外をぼんやり見つめている春樹の後ろ姿があった。
隆也は一つ深呼吸してから、春樹の名を呼んだ。
目頭が熱くなるのが鬱陶しくて、少し強い口調になってしまったが、仕方がなかった。
春樹がふと振り返り、キョトンとした表情で隆也を見る。
よほど隆也の顔つきが変だったのだろう。
「隆也、どうした?」と、不思議そうに訊いてきた。
隆也は無言で春樹の右手をつかんだ。
最初とっさに手を引っ込めようとした春樹は、次にビクリと体を強ばらせ、目を見開いて隆也を見つめた。
少々強引だとは自分でも分かっていたが、白黒つけないと踏み出すことなどできない。
“ごめん、春樹、これが俺なんだ。”
信じられないと言った表情で、そのまま春樹はじっとこちらを見つめている。
隆也は確信した。
美沙の言ったことは本当だったと言うことを。
しばらく二人はそのままじっとしていた。
もし外の歩道を通る人が覗き込んだら奇妙に思ったかも知れないが、隆也はまるで気にならなかった。
確かに通じていると感じた。何の力も無い自分でもそう感じられる。
言葉で言い表せない熱。
触れた肌で何かが弾け、春樹の微かな震えが伝わってくる。
今、この瞬間、隆也の想いが確実に春樹に流れ込んでいるのだ。
《俺、いっしょに病院、ついていくよ。いいだろ?》
心の中だけでそう呼びかけると、春樹は涙で潤んだ琥珀色の目で真っすぐ隆也を見つめ、コクンと小さく頷いた。




