第17話 追及
谷川理紗を無事に両親の元に帰したことを、たった二行の文字にしてメールで送ると、自宅に居たらしい春樹は、程なく事務所に戻ってきた。
「少しは眠れたの? まだ顔が青いよ」
そう言ってみたが春樹はそれに答えず、美沙のデスクの横に静かに立った。
けれど美沙と微妙に目線をそらし、黙っている。そのわけを美沙は承知していた。
「谷川理紗にはそっと手紙を渡しておいた。何か酷いことをされたのであれば必ず母親に言うこと。とても大事な事だから、慎重に考えること。そして法的対処を望むなら全面的に力になるから、私に連絡して来なさいって書いてね。母親にも、なるべく深く彼女からいろんな話を聞き出すように伝えておいた。精いっぱやったつもりよ。それ以上は踏み込めないし、私たちの仕事の範疇を越えるからね」
春樹は顔を上げた。
「もし彼女が何も行動を起こさなかったら? あんな男が平気でのさばってるのなんて許せない」
「悔しいけど今回のケースは仕方ないのよ。何の証拠もないの」
「でも事実なのに!」
春樹は鋭く言った後、少し苦しそうに顔を歪めた。
「もうここから先は本人に任せるしかないの。こちらが変に騒ぎ立てると、逆に彼女を傷つけてしまうかもしれない。本人が決める事なのよ。身勝手な家出をした彼女にも責任がない訳じゃないし」
「そんな。まだ子供なのに、責任なんて・・・」
「じゃあ、『僕は犯人に触って、彼女が襲われるところを見ました』っていうの? 警察に!」
知らず知らず、美沙も限界に来ていたのか。
思わずその言葉が口をついて出てしまった。
しまったと思う反面、ほんの僅かに、その正論ばかりぶつけてくる少年に釘を刺したい冷たい感情を、自分の中に感じた。
怒りとも悲しみともつかない青白い表情で、春樹は美沙をみつめた。
そして口を硬く結んだ。
そうすることで自分の感情を内側に留めようとするかのように。
「ごめんなさい、春樹。・・・でもね、この仕事は表面上無事解決したのよ、あなたのお陰で。だからもう忘れなさい。もう私たちの手を放れたの」
「でも・・・あの男が許せない」
美沙が再び春樹に言葉を掛けようと口を開きかけた瞬間、ノックも無しにいきなり事務所のドアが開いた。
そこには怒りと戸惑いをないまぜにしたような、穂積隆也の姿があった。
唖然として二人はその少年に目をやる。
「春樹がそいつを訴えたらいいんだ! 春樹を殴った奴なんだろ? 顔を見たんだろ? そん時」
隆也の言葉に美沙は目を見開いて春樹を見た。
「・・・本当なの? だって・・・春樹、そんなこと一言も言わなかったじゃない!」
春樹は小さく首を横に振った。
その顔はさらに青ざめていた。
「違わないだろ? 殴られて怪我して、そのあとすぐにその男を捜し始めたじゃないか。違うっていうんなら、誰にやられたんだよ。言ってみろよ! 何隠してんだよ!」
一瞬、3人の誰もが沈黙した。
隆也は春樹の真意が分からず眉を潜め、そして美沙は隆也の言葉でようやく全てを把握し、春樹を見つめた。
「あなた、あの男に襲われて・・・・その時なのね?」
「いつだっていいじゃないか!」
春樹が苦しそうに喘いだ。首筋に、決して暑くないというのに汗が伝い落ちていく。
その様子に隆也はハッとした。
「病院にも行ってないんだろ、お前」
「春樹、怪我してるの!?」
強い口調で立ち上がった美沙を避けるように体を反らした春樹はその一瞬鋭い痛みを感じ、体を折るように美沙のデスクの方に倒れかかった。
反射的に伸ばしてきた春樹の手を、美沙は掴んでやることが出来なかった。
あからさまに避けた美沙の足元に倒れ込んだ春樹に、愕然として隆也が駆け寄った。
「何やってんだよ、あんた!」
隆也の視線が美沙に突き刺さる。
けれど美沙は動けなかった。
「タクシー呼べよ。春樹、病院連れて行くから!」
隆也の声に美沙はハッと我に返ったように卓上の受話器に手を伸ばした。
「もういいから、隆也」
怒ったような声で言った春樹に、今度は隆也が驚いて振り返る。
ゆっくり立ち上がりながら春樹は、二人を交互に見た。
青ざめた顔からは、今は戸惑いしか感じられない。
「ごめんなさい。自己管理ができてなかった。こんなのすぐに治ると思ってたから。・・・自分でタクシー拾って行って来るから、病院」
そして力なく笑った。
「いろいろごめんなさい、美沙。今日は・・・帰ります」
小さく頭を下げ、ほんの少し隆也に笑いかけたあと、春樹は部屋を静かに出て行ってしまった。
後を追える雰囲気でもなく、残されてしまった二人の間に、落ち着かない重い沈黙がただよった。
美沙が力なく椅子に座ると、隆也は美沙に歩み寄った。
「美沙さん」
「春樹が襲われたの、知ってたのね」
美沙は隆也に質問をさせる前に逆に話しかけた。
「ええ、知ってました」
「どうして教えてくれなかったの?」
「春樹が嫌がりました」
「馬鹿が!」
「馬鹿? 馬鹿じゃないでしょう? 春樹が一番怖いのは、そんな怪我なんかして、美沙さんにここをやめさせられることなんですよ」
美沙が沈痛な表情をゆっくりと隆也に向けると、隆也は尚も続けた。
「春樹はあなたをとても頼ってる。子供っぽいと思いますか? 僕らはまだいろんな事が怖いんです。悔しいけど。それなのに春樹にはもう守ってくれる家族がいない。あなたしかいないんです」
「・・・」
「今度は俺が質問してもいいですか?」
「・・・なに?」
「犯人に触って彼女が襲われるのを見た・・・って、どういうことですか?」
美沙はドクンと心臓が跳ねる音を聞いた後、ぐっと手を握りしめた。
やはり隆也は聞いていたのだ。
「聞き違いよ」
「じゃあ、もう一ついいですか?」
美沙はもう返事をしなかった。
「どうしてさっき、春樹を避けたんですか? 春樹に触れられない訳でもあるんですか?」
美沙は冷たく汗ばむ手を握り、意識が遠のくのを感じながら、ゆっくり目を閉じた。
その場に立っていることだけで、精一杯だった。




