第16話 呪い
谷川理紗の確保は、驚くほどスムーズだった。
その男、間宮光浩が帰ってきたすぐ後、美沙と薫が部屋を訪れ、身分を明かしながら「ここに谷川理紗さんがいると聞いたんですがね」と硬い口調で言うと、間宮はいかにも優しげに「ええ、行き場が無いって言うんで、泊めてあげていました。俺もそろそろ家に帰った方がいいよって説得してたところなんです」と笑った。
シンプルなロングスカートと白いセーター姿で出てきた谷川理紗は、化粧っ気のない青白い顔で「帰ります」と小さく呟いた。
その視線はボンヤリして、だれに呟いたのかも分からない。
『何かで脅されている』
美沙の直感がそう確信していた。
けれどもその場は間宮に礼を言う形で部屋を後にするしかなく、美沙はただしっかりと谷川理紗の肩を抱くようにして車まで歩いた。
当然ながら美沙には間宮を咎める材料も、職権も無いのだ。
階段を降りながら、薫は参りましたとばかりに、ヒューと口笛を吹いた。
「春樹君の情報は正確だったね。こりゃぁ、たいした調査員になりそうだよ彼は。・・・ところで春樹くんは?」
薫は車に辿り着いた所で初めて春樹がいないことに気がついたらしい。
薫の車に少女をいたわるように乗せたあと、美沙が口を開いた。
「3人も要らないと思って先に事務所に帰ってもらったの。春樹もそうしたいって言うから」
「へえ~。案件解決の瞬間を見ないとは欲がないねえ。もしかしたら俺に気を遣ってくれたのかな? たまにはハニーと二人にしてあげようとか。そうだったら逆に俺、あの子に惚れるな」
薫がふざけた調子でそう言うと、少し間を開けてから美沙は、ほんの少し笑った。
薫が居てくれて良かった。
美沙は心底そう思った。
美沙だけでは、その場の重苦しい空気に押しつぶされてしまっただろう。
美沙の横に人形のように身じろぎもせず座り、ボンヤリした目で前を見つめている少女は、傷つき心を塞いでいる。
あの男に脅されているのは確実だった。映像なのか、写真なのか。
その脅しが子供だましであり、行使すれば間宮自身を滅ぼすことに、この子は気付かない。
これからが問題なのだ。
少女に真実を語る勇気が無ければ、誰もあの男を裁けない。
突然運転席のラテン男がしゃべり出した。
「理紗ちゃん? もう家出なんかしたらダメだよ。たっくさんの人が君を心配して捜してたんだから。外には君が知らない危険がいっぱいなんだよ。たまにはご両親の気持ちになってみないと。ね?」
あまりにもありきたりのお小言を語り始める薫。
今は余計なお説教はやめるように言おうとした瞬間だった。
谷川理紗は両目から大粒の涙をこぼし、「ごめんなさい」と掠れた細い声を出した。
「あ、・・・いや、ごめんね。泣かなくていいからね? ごめんね、理沙ちゃん」
薫はその気配に慌てて取り繕い、美沙は少女の肩を優しく抱いて引き寄せた。
少女の頬をなでて軽く額をくっつけ、薫に聞こえないように「もう大丈夫だから」とささやいた。
少女の肩が激しく震えだし、美沙はそれを受け止めるべく、更に強く抱きしめた。
こんなふうに春樹を抱きしめてやれたなら。
美沙は少女の悲しみと後悔を受け止める傍ら、春樹の事を想った。
その想いは、やり場のない怒りにも似ていた。
『ねえ美沙。僕は谷川理紗に会わなくてもいいでしょ?』
昨夜、全てを打ち明けた春樹は苦しそうにそう言った。
『会いたくないなら』
美沙はあえて短くそう言った。
『会えるわけ無いじゃない』
春樹の口元にまた、あの自分をさげすむような笑みが浮かんだ。
『うん、もう分かったから。春樹』
美沙がやんわりと遮った。その先は聞きたくなかった。
『美沙が何を思ってるか分かってるよ。いろんな想像が湧くよね。僕はあの間宮に触れた。自分からしがみついた』
『もういいから、春樹!』
『でも、本当のところ分かってないんだ美沙は。僕は男で、・・・美沙は女だから』
『分かってるって言ってるでしょ!?』
美沙は机を両手でバンと叩いた。けれど、春樹を止められなかった。
『僕は全部見たんだ。あの男の目を通して。あの男の汚らしい感情と一緒に。僕には映像と一緒に触った人間の感情も取り込んでしまうんだ。僕には、全部』
『はる・・・』
春樹は両腕で自分を抱え込むようにして続けた。
『でも、彼女を捜さなきゃと思った。情報を手に入れなきゃと思ったから、あいつの手を放さなかった。あの子が泣き叫んで、男は狂喜して興奮して・・・その声が頭の中に響いてるのに』
『やめなさいってば!』
『でも、それでいいんでしょう? そうやって情報を手に入れて彼女を救うのが僕の仕事なんだから。間違ってないよね』
美沙は声が出せず、ただ春樹を見つめた。
『僕がしたことは何? 彼女の居場所を突き止めた。そして、その後、僕も彼女を汚したんだ』
『・・・そんなこと・・・』
『あの男と同じ事を僕は体験したんだ。泣き叫ぶ彼女を押さえつけて、あの男の興奮を借りてじっと見つめてたんだ。僕が聖人君子のようにそれを冷静に受け止められたと思う? 自分の中の汚い部分があの男と同調した瞬間を忘れることが出来ると思う?』
『あなたは少しも悪くないよ、春樹。自分を責めないで。あの子を探すことだけ考えよう? ね。他のことは全部忘れなさい』
美沙は少年を哀れむと同時に、腹立たしくて叫びそうになる感情を堪えるのに必至だった。
“じゃあ、どうしろっていうのよ! 私が何って言えばあなたは満足? あなたもあの男と同じ人種だと?”
そんなことを言えば間違いなく少年は壊れてしまう。
自分にはこの少年を救うことができない。
常にナイフを自分自身に向けているこの少年を。
壊してしまうことなら一瞬で出来るというのに。
春樹は赤い目を美沙に向けてきた。
そして懇願するように、か細い声でつぶやく。
『ねえ美沙。僕は彼女に会わなくてもいいよね?』
それが、自分をコントロール出来なくなった時に見せる、痛いほど激しい彼の甘え方なのだと美沙は知っていた。
自分をさらけ出し、自虐的に自分を傷つけて血を流しながら美沙に手を差し伸べてくる。
まるで小さな子供のように。
その姿が愛おしくて堪らなかった。
春樹に近寄り、ジャケットを羽織ったその肩にそっと手を置いた。
けれども胃の辺りから、背中から、染み入ってくる恐怖心に、再びその手を放すしかなかった。
・・・どうしてこの子を抱きしめてやれないのだろう。
力の限り強く抱きしめ、その頬に優しく触れてやりたい。
もしかしたらこの子は心のどこかでそれを望んでいるかも知れないと言うのに。
誰が私たちにこんな残酷な呪いを掛けたのか。・・・
美沙は事務所に向かう車の中で、少女の体を強く抱きしめながら、
悔しくて涙が溢れてくるのをぐっと堪えた。




