第12話 浸食
高架下トンネルの、ちょうど中程だった。
メールの返信は駅に着いてからにしようと、携帯をポケットに滑り込ませた直後に「それ」は春樹に襲いかかってきた。
いきなり背後から麻袋のような物を頭にかぶせられ、その後背中を強く蹴られて地面に叩きつけられた。
咄嗟に手を出し、顔面を打ち付けるのは免れたが、腕に激痛が走った。
一瞬何が起こったか分からず、春樹はただ必死で体をねじりながら、頭から麻袋を外そうと藻掻いた。
しかし窮屈な袋に掛けた手は恐怖に震えて思うように動かない。
パニックを起こしたようにアスファルトの上で藻掻く春樹の脇腹に、再び激しい蹴りが入った。
苦痛に小さく呻き、それ以上の攻撃を恐れて背を丸めた春樹を見下ろし、あざけるように、その人物は鼻を鳴らした。
そして更に春樹の背とわき腹を何度も執拗に蹴り上げた。
春樹がもう声も出さず、ただ石のように丸まってしまうと、その何者かはゆっくりと春樹の横にしゃがみ込み、少し脱げ掛かった麻袋を食い止めるように、そして更なる恐怖を味わわせて楽しんででもいるかのように、その首にがっしりとした腕を巻き付けてきた。
苦しくて払いのけようと春樹が出した手が、その「男」のむき出しの腕をつかんだ。
春樹は雷に打たれたようにビクリと体を震わせた。
“それ”は蹴り上げられた事よりも、痛烈な痛みを伴って春樹を貫いた。
一瞬動きを止めた春樹を観念したと思ったのか、その男は春樹の耳元に顔を近づけ、押し殺した声で言った。
「ゴソゴソ嗅ぎ回るなクソガキ! いい加減やめないと次はぶっ殺す!」
けれど春樹は硬直した両手に力を入れた。
破裂しそうに激しく打つ心臓の悲鳴に逆らいながら。
呼吸が苦しい。
いつ切ったのか口の中に血の味が広がり、体中が痛みに悲鳴を上げていたが、春樹は更に力を込めて男の腕を掴んだ。
そこからが春樹の戦いだった。
取り入れなければならない情報と、決して覗いてはいけない情報との間で、春樹は引き裂かれそうになりながら戦っていた。
男が春樹の動きを不気味に思い、もう一度脇腹に強い膝蹴りを入れるまでそれは続いた。
あまりの鋭い痛みに途切れそうな意識の中で、春樹は男の足音が遠のいて行くのを聞いた。
自分がアスファルトに頬をつけ、転がっているのにその時初めて気付いた。
車が一台、小さくうずくまった春樹に気付かずに、脇を通り過ぎて行く。
脇腹に負担が掛からないように何度か浅く呼吸したあと、痛む腕でゆっくりと頭から麻袋を外した。
暗いはずの蛍光灯の光さえ、痛いほど眩しく目に刺さってくる。
突然からだが小刻みに震え始めた。
そして込み上げてくる吐き気に耐えられず体を捻って嘔吐した。
口腔内の血と混ざった胃液がアスファルトの上に黒いシミを作った。
壊れてしまう。
初めてそう思った。
のどの奥が震え、うまく呼吸出来ない。
浅く早く息を継ぐが、酸素が入ってこず、頭が朦朧としていく。
さっき感じた物よりも更に大きな恐怖が地面から這い上がり、病的なまでに手が震えた。
ここにいたらだめだ。
震えの酷くなる冷たい手で春樹は携帯を取りだした。
左手で右手を包むようにして震えを止め、アドレスから名を選ぶとボタンを押した。
お願い、出て。ここにいたくない。一人で居たくない。
春樹は心の中で懇願しながら携帯を耳に当てた。
コールが少し間を置いて始まった。
1回、2回・・・
乱れた服装で高架下の黒い壁際に座り込んでいる春樹を、通過する車のドライバーが嫌な物でも見るように一瞥してゆく。
4回、5回。
6回・・・。
春樹は息を震わせて目を閉じた。
7回目のコールが終わる直前、携帯から快活な声が響いてきた。
「おう。どうした? 春樹。仕事終わったのか?」
安堵で全身の筋肉の強ばりが一瞬抜けるのを感じた。
しばらくそのまま声を出せずにいた。
「あれ? どうかした? 電波悪い? メール見て掛けてきたんだろ? 春樹」
春樹はゆっくり息を吸い、震えないように声を出した。
「うん。メール見た。・・・あのさ、隆也。今、時間ある?」
「メール本当に読んだのか? 暇だから送ったんだろ?」
いつものように屈託無く笑いながら隆也が言った。
春樹は込み上げてくるものをぐっと堪えた。
「隆也・・・あのさ、頼みがあるんだ。・・・迎えに来てくれないかな。ちょっと・・・足、痛めちゃって」
「え、どこで? 捻挫でもしたのか? 仕事中なんだろ? 美沙さんに連絡した?」
「美沙には言わないで!」
思わず荒げた声に隆也が息を呑むのが感じられた。
「・・・わかった。すぐ行く。どこにいる?」
もう隆也の声は笑っていなかった。
春樹は正確な場所を伝えると、「ごめん」とだけ言って電話を切った。
隆也が来てくれるまで何も考えずにいられるだろうか。
春樹は震えの止まらない両手をじっと見た。
あの男をつかんだ感覚が生々しく残っている。
流れ込んだ記憶が確実に春樹の心を浸食してくる。
自分自身がどうしようもなく醜く、薄汚い生き物になってゆく気がした。
「あれ? ねえ君、怪我してるんじゃない? 大丈夫?」
仕事帰りのサラリーマンと言った感じの大柄な男性が心配そうに近づき、シャツが破れて血が滲んだ春樹の左肘あたりにそっと手を伸ばしてきた。
「触らないで!」
身を固くして叫んだ春樹の声に驚き、その男性は数歩後ずさった。
春樹はうつろな目で男性を見上げた。
「ごめんなさい。・・・大丈夫です。ごめんなさい。だから・・・お願い、僕に触らないで」
再び伏せたその目から、堪えていた涙がこぼれ落ちた。




