第四十一話 侯爵令嬢・アデルの日記③
滂沱の涙でアデルと夜通し話し合ったルソー侯爵は、アデル可愛さと罪滅ぼしの気持ちから、なんと三日後にはアデルが一番幸せになれそうな縁談を掴み取ってきた。
痩けた頬と目の下にできた色濃い隈が、侯爵の苦労を物語っている。
「とてもいい青年だ。田舎の広大な領地で農業をしている子爵家の嫡男。だが、かなりの田舎なので嫁ぐ人がいないらしい。年もアデルより十歳も上で……アデル、やっぱりこの縁談は」
「すぐに行くわ! 私の荷物は全部まとめてあるから」
侯爵の話を最後まで聞くこともなく、アデルはウキウキと自室へと戻って行った。翌日には寂しがる侯爵にあっさりと別れの挨拶をして、アデルは荷物と共に馬車に乗り込んだ。
アデルが学園をやめると泣きついてから、たった一週間の出来事だった。
アデルが嫁ぐマレー子爵領は、王都から馬車で二週間ほどかかる田舎にある。旅も中盤。馬車の旅に飽きてきたアデルは、代わり映えのしない景色をぼーっと眺めながら、学園でのことを思い出していた。
クリストフ殿下の想い人であるレニー・ステイシー公爵令嬢。初めてその姿を目にした時は、悔しさを感じることもできなかった。それほどまでに、殿下とお似合いの気品と美しさだったから。
殿下とのお茶会にレニーが参加していたなら、アデルは殿下の婚約者になるという夢を見なかっただろう。その時は、シモーヌと友人になっていただろうか……。
「それは絶対ない」
アデルの強い拒絶が、ひとりごとになって口から漏れた。シモーヌとは理解し合えない。どうしてなのかはアデルにもわからないが、きっとアデルの本能がシモーヌを避けている。やっぱり近づかない方がよかったのよ。
そう言えば……と、アデルは手荷物のトランクから一冊のノートを取り出した。このノートは、退学の手続きに訪れたルソー侯爵が担任教師から受け取ったもの。侯爵に読むようにと渡されていたが、頭の中が結婚でいっぱいだったアデルはトランクに突っ込んだまま、今までその存在を忘れていた。
ノートをパラパラとめくる。まだアデルが退学することを知らない時に、誰かが授業の要点をまとめてくれたようだ。
「もう、必要ないんですけどぉ」
アデルは一人悪態をつき、そして記入者のサインを見て目を見張った。
『シモーヌ・ベルジック』
アデルの丸い可愛らしい文字とは違い、癖のない綺麗な文字。数式や外国語が記入されたそのノートは、この先のアデルの人生には必要ないのかもしれない。
しかし、自分のために書かれたその文字を見て、アデルは初めて寂しさを感じた。
「やっぱり、友人になれたのかもしれないわ」
そう呟いたアデルは、胸の苦しさを覚えた。この苦しさは後悔なのか。
アデルはシモーヌの文字を指でなぞりながら、ゆっくりとノートを読み進めた。
一気に読んだアデルは、最後のページにリボンの形の落書きがあることに気がついた。なぜリボン? しかも、すごく下手くそ。アデルは意外なシモーヌの弱点に、思わずクスクスと笑ってしまう。笑ったせいで涙がにじんだ。なぜか涙は次々と溢れ出る。ポタポタとノートに落ちる雫を、アデルはただただ黙って見ていた。
やがて落ち着いたアデルは、涙を拭いてもう一度落書きに目を落とす。すると、落書きの下に小さな文字が添えられていることに気がついた。アデルは落書きに顔を近づけて、その小さな文字を読んだ。
『蛾』
「はーーーーーー? なんで蛾なのよっ!?」
思わずアデルは、ノートを向かいの座席に叩き付けた。リボンじゃなかったの!? 何かのメッセージなの!? いや、どうせ窓から入って来た虫をスケッチしただけでしょう。ほんっとうに理解できない!
脳内でひとしきり怒りを爆発させたアデルは、叩き付けたノートをもう一度手に取った。リボンとして見れば下手くそだった落書きは、蛾として見てもやはり下手くそだ。こんな絵を、人に渡すノートに描いてしまうシモーヌ。そんな彼女を理解することは、アデルには難しすぎた。でも……。
「理解はできないけど、嫌いじゃないのよね」
アデルはポツリと言った。
そして再びトランクを開けて、中からハンカチを取り出す。何かが包まれたそのハンカチを慎重に開く。開かれたハンカチには、光沢のある虫の抜け殻がポツンと載っていた。あの日、勢いで持って帰ってしまった、アランがアデルに渡した抜け殻入りのハンカチ。
「それにしても、綺麗な抜け殻ねぇ」
今まで見たことのないその虫の種類に、アデルは勝手に『シモーヌの兄』という名前をつけていた。
アランの手前、虫が怖いかのように騒いだアデルだったが、幼い頃の主戦場は畑。本当は虫なんてなんとも思っていないし、今でも益虫と害虫の見分けぐらい簡単につく。忘れていたが、よく虫の抜け殻をブローチにして遊んだものだ。しばらく抜け殻を見ていたアデルは、座席にドサッともたれて、またクスクスと笑った。
「やっぱり、シモーヌとは仲良くなれないわ! あと、アランとも!」
ひとしきり笑った後、アデルにある考えが閃いた。
蛾か……。
マレー子爵領は比較的温暖で降水量は多過ぎない。これは使えるかもしれないわ。こうしちゃいられない。
アデルは御者を急かし、あと一週間かかる馬車の旅を四日で終わらせた。
数年後、アデルが嫁いだマレー子爵領は農業に加えて養蚕を始めた。蚕から採れた絹で作られたリボンは、一五年の時間を掛けて、マレー子爵家の名前を王国中に広める特産物となる。
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次回で第一部完結となります。
あと少し、お付き合い下さい。




