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33.認めた気持ち

 彼が私の名前を呼んだだけで、心がふわりと温まり、怒りが浄化される。


 ……でも、まだ仕事中のはずなのにどうして?

 幻じゃないわよね?


 そんなことを一瞬考えて瞬きしてみるけど、クレスはそこから消えることはなく、すぐに私の元へと駆け寄ってきた。


「ああ、良かった。無事か? 怪我はないか?」

「……大丈夫」


 ちょっとおしりが痛いけど。


 クレスは息を切らせながら、焦った様子で私の頬に触れ、異常がないかどうか確認するように瞳を見つめてから体も確認するように視線を下げた。



「ふっ……、そんなに慌てて。そんなにこの女がいいのか? 侯爵令息……それも魔導騎士のクレス・エンダースともあろう方が、なぜこんな田舎令嬢の女に構うんですか? 貴方なら他にもっといい女がいくらでもいるでしょう?」


 クレスを前に、ワルターはようやく立ち上がって体を払うと、私たちのやり取りを見て苦笑しながら言った。


「コイツはそんなに良かったですか? 正妻にはできなくても、本気で妾にするつもり――」


 けれど、クレスはツカツカ――、と彼に歩み寄ると、言葉の途中だったワルターの胸ぐらを掴み、右の拳を振り上げてその頬に一発かました。


 ワルターのひん曲がった口が、更に醜く歪む。


 私は心の中で「よくやった!」とクレスに賛辞を送った。


「な……、な……っ!?」


 なぜ殴られたのかわからないという顔で頬を押さえて再び吹き飛んだ体を起こすワルターの鼻から、たらりと血が垂れる。


「彼女は俺にとってかけがえのない大切な人だ。侮辱することは許さない」


 クレスから発せられた重みのある言葉に、心臓が大きく跳ねた。

 先程ワルターが言っていた安っぽい台詞とは重みが全然違って聞こえる。


 いつもの特別ではなく〝大切な人〟とは、どういうことだろうか……?


「それ以上彼女を侮辱してみろ。お前という原型が残らなくなるぞ」

「……ひっ」

「二度と来るな」

「…………っ」


 ひと噛みで喰い殺してしまいそうな、狼のような視線を向けられて、ワルターはビクリと大袈裟に体を揺らした。

 腰が抜けたのか、立ち上がれないでいる。



「――ルビナ」


 そんなワルターを無視して、クレスはもう一度私に歩み寄った。


「クレス……」


 けれどクレスの優しい眼差しを見上げた時、その背後からワルターがナイフを振り上げているのが目に映った。


「後ろ――!!」

「……っ!」


 瞬時にその攻撃から身を躱したクレスだけど、彼の頬にうっすらと血が滲む。


「くそ……っ、くそぉ!!」


 再びナイフを振りかぶるワルターに、クレスは涼しい顔でその腕を掴み、とても早い動作で手首を捻りあげると床に落ちたナイフをニコラスさんの方へと蹴り飛ばした。


 いつの間にかこの場にいたニコラスさんは、足元へ滑ってきたナイフをすぐに拾い上げる。


「殺人未遂の現行犯だな」

「……っ」


 そして、ワルターはあまりにあっさりとクレスの手によって床へ押さえつけられた。


 後ろへ回された両腕と両足に拘束魔法をかけると、クレスはポケットから紙で折られた鳥のようなものを取り出し、息を吹きかけた。


 途端、その紙でできた鳥はまるで生きているかのように羽ばたき、王宮の方へと飛んで行った。


「すぐに迎えが来る。大人しく待っていろ」

「……っクソ!!」


 情けなく床に転がることしかできないワルターにそう言葉を残すと、改めて息を吐き、私の方へ歩み寄るクレス。


「大丈夫だったか?」

「……ええ」


 手が震える。

 心臓が早鐘のように脈打つ。

 身体が熱い。


 ……どうしよう。


 胸の前でぎゅっと両手を握り合わせると、それに気がついたクレスがその手を彼の大きな手でそっと包み込んできた。


「怖かったに決まってるよな。すまない、もう少し早く来てやれば……」

「……」


 クレスのそんな言葉に、私は思い切り首を振る。

 本当は言葉に出したい思いがあるけど、言えない。

 心臓が壊れてしまったみたいにばくばくと激しく脈を刻みすぎて、呼吸が乱れている。唇が震えて言葉が出てこない。


「……メリ」


 ぎゅっと目をつぶって落ち着こうとする私に、クレスはメリを呼びつけて「彼女を部屋に」と告げた。


「……ルビナ、行こう?」

「……」


 メリにも返事ができず、私は静かに頷いて足を進めた。

 足も震える。クレスの顔もきちんと見られない。


 ああ、どうしよう。



「……怖かったでしょう? 急いでクレス様に報せを飛ばしたけど……やっぱりお戻りになるまで待たせれば良かった」


 メリは私の部屋まで送り届けてくれると、ソファーに私を座らせて、ゆっくり話してくれた。


 どうやらワルターから手紙が来たあの日以来、もしクレスの不在時に何かあればすぐ知らせるようにと、魔法道具をメリやニコラスさんに持たせていたらしい。


 それですぐにクレスに知らせてくれたから、彼は王宮からわざわざ戻ってきてくれたのね。


 でも、こうなったのは一人で対処しようとした私の責任よ。

 まさかナイフまで持っているとは、さすがに想像しなかったけど。


「ねぇ、ルビナ。貴女さっき――」

「え……?」

「……ううん、なんでもない。とにかく今はゆっくり休んで」

「うん……。ごめんなさい、ありがとう」


 何か言いかけたメリに、なんとかその言葉だけは伝えて私は自室で一人、未だにドキドキと高く脈を刻んでいる心臓を落ち着かせようと、ぎゅっと胸を押さえた。


 ……怖かった?


 確かに、怖かった。でもそれはワルターに押し倒されて男という圧倒的な力の差を見せつけられたからではない。


 ナイフを掲げて、クレスを切りつけたからだ――。


 もしクレスに取り返しのつかない何かがあったら、私は後悔してもしきれなかったはずだ。


 それに、この鼓動が鳴り止まない原因はもう一つある。


 クレスが言った〝大切な人〟という言葉。


 私のために息を切らせて戻ってきてくれて、あんなに心配そうに見つめられて、どうしてこの気持ちを抑えることができる?


 彼は好きになっちゃいけない人だってわかってる。


 わかってるけど……


 でももう、限界よ。



 強くて、格好良くて、真面目で、律儀で、真っ直ぐで、優しくて……。

 普段はとてもたくましくてワイルドな人なのに、笑うととても可愛くて、少し不器用で、素直に感情を表現してくれて……。


 彼を想うとこんなに胸が苦しくなる。


 同時にこんなに温かくなる。


 好き。好きよ、クレス。


 私はクレスのことが好きだ。大好きだ。


 もう後戻りできないくらい、惚れてしまっている。



「……――っ」


 ぽろぽろと、涙が頬を伝い落ちた。


 あの家を出て、初めて泣いた。


 今までどんなに生活が苦しくても、婚約者に裏切られても、一人ぼっちだと感じても、こんなに涙が溢れたことはない。


 それなのにクレスを想うと感情が抑えられない。


「……っ」


 口にしてはいけないこの想いを代わりに溢れさせるように、止め処なく涙が零れた。



切なく終わっていますが、あと2話で第一章完結です。

今日中に上げられるよう頑張ります!

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