七、
七、あとのお楽しみ
将人に対する報復は連絡を怠ることだった。しかし、その報復は携帯に将人の文字が浮かび上がった瞬間に幕切れとなってしまった。
ときめく気持ちを抑えながら電話に出ると、「あっ、玖美さん。よかったぁ~」と喜んでいる将人の声を聞き、その声に自分も和んでしまった。
「どうでしたか」
第二声は宿題の答えを求める声だった。
自分はこの声を聞きたくてたまらないくせに、どうして連絡を怠ろうと考えたのかバカみたいだ。
でも、それだけ将人のことが好きで好きでたまらないのだろう。
肩で大きく息をついてから、父親から聞いたことを話して聞かせた。
「そうでしたか」
ひどく落胆しきっている声が耳に届いた。彼からすると自分の推理が外れて悔しかったに違いない。
あの晩、熱っぽく語る将人に絆れ、同じ部屋で寝てしまった。しかし、玖美は後悔していない。
将人は玖美に対してどこまでも優しく温かかく、心のひだに染み渡ってきた。
「電話だと玖美さんの声が遠く感じますね」
「そうですね。私もそう思います」
二人で過ごした濃密な三日間は、今となっては遠い昔のように思えた。
玖美は将人を知れば知るほど、夢の中で溺れているようだった。もっと素直に堪能しておけば良かったと後悔していた。
「ところで玖美さん。お仕事は何時頃に終わりますか」
将人の脈絡のない質問を不思議に思いながら、「早い時は七時、遅い時は九時ぐらいです」と答えてしまった。
「でも、どうして……」
そんなことを聞くのかと問い詰めようとしたところ、電話の向こうから将人の低い「ふふふ」という笑い声がもれ、遮られてしまった。
「それはあとのお楽しみにしておきましょう」
電話の向こうで将人の笑顔が見えるほど、弾んだ声だった。
二人はしばらく他愛のないことを語り合って、電話を切った。
それから一週間後、五月十五日のことである。
仕事を終えた玖美は同僚三人と一緒に会社を出ると、すっと影が前に立ちはばかった。
「玖美さん、待ってました」
聞き覚えのある声に視線を向けると、将人がにこにこして立っている。
「えっ、どうしたんですか」
将人を見た瞬間、仕事モードだった玖美の心が一気に恋愛モードにスイッチする。
恋愛モードに切り替わった途端、雲の上を漂っているみたいに気持ちがふわふわして落ち着きがなくなってしまう。
「本社に用事があって、その足で来ました」
ただならぬ二人の関係を察知した一人の女子が、玖美のことを肘で突っつき、
「主任、そちらの男前はどなたですか」
と冷やかしがちに言うと、彼女の頬がますます火照ってしまった。
「えーっと、玖美さんの会社の方ですか」
将人の問いかけに、みなは顔をニヤつかせながら首を大きく何度も縦に振った。
「いつも玖美さんがお世話になっております」
そう言って、将人は丁重に頭を下げた。
すると一同の頬はますます締まりがなくなり、「いいえ。こちらこそ」と浮ついた声で返した。
この間玖美はただ側で同僚たちを睨んでいるしかなかった。
「じゃあ、主任。僕たちは失礼いたします」
「主任、彼氏さんとお幸せに!」
口々に言いたいことを述べ、「ちょっと、あんたたち!」と怒る玖美を無視して一目散に駅に向かって足早に歩いて行ってしまった。
「将人さん、ごめんなさい」
「どうして玖美さんが謝るんですか。それにしても、みんないい人そうですね」
玖美は将人のセリフにちょっと眉をしかめ、「いい人にはいい人なんですが」と前置きし、
「みんな余計なことばかり喋るんですよ」と口を尖らせた。
「じゃあ、婚約者とでも紹介した方がよかったですか」
将人から柔らかい笑顔が消え、真顔になる。玖美はその顔にぎょっとして、
「それは困ります。明日一日、対応に追われて大変ですから」と苦笑いを浮かべた。
玖美の回りは噂好き者ばかり集まっている。ちょっとでも隙を見せたならば、話に尾ひれが付いて拡大してしまう。
以前、廊下で部長と笑顔で日常会話を交しただけなのに、栄転か部署変えを懇願していると噂が立って大変な思いをした。
ただ幸い玖美と部長が出来ていると根も葉もない噂が立たなかったのには安堵した。
「ところで将人さんはいつからここで待っていたんですか」
「六時半ぐらいです。その頃には仕事が終わるだろうと思ってましたので」
またしても平然と答える将人に、玖美はぎょっとする。
社員証に記録した時間は二十時三十六分になっていた。恐らく今は四十分を過ぎているだろう。
彼は二時間十分も待っていてくれた。
「そんな前から。携帯に連絡してくれたら、飛んできたのに」
「僕もそう思ったんですけど、お仕事の邪魔をしたくなかったので。
それに待っている間も、仕事する玖美さんを想像するのも楽しかったです。
思っていたとおりだ。玖美さん、スーツ似合ってますね」
将人の片頬にえくぼが浮かび、この人はどこまでお人好しなのだろうと思った。
だけど、将人はそれだけ自分のことを愛してくれているのだ。
以前、付き合っていた西村は二時間十分も玖美を待ったことがあっただろうか。
もし二時間十分も待つようなら、一人さっさと予約した店に行き、玖美には先に行っているとメールしてくるだろう。
そうでなければ、怒って帰ってしまうだろう。
玖美は将人の愛情の深さを知り、彼となら上手くやっていけそうな気がした。
「お褒め頂き、ありがとうございます。それより将人さん、お腹空いてませんか」
「あっ、忘れてました。ぺこぺこです」
本当にお腹が空いているらしく、腹部を手で抑えながら答えた。
「じゃあ、行きつけのお店でいいですか。ここからすぐのところなんですけど」
玖美の誘いに将人はにこやかに頷いた。
二人は玖美がよく行く立ち呑み屋にいた。将人は珍しいらしくしきりにきょろきょろしている。
「玖美さん、ここにはよくいらっしゃるんですか」
声をひそめて尋ねてきた。その姿は天敵に怯えている小動物みたいでかわいい。
そんな将人を見ていると玖美の頬がひとりでに緩んでしまう。
「ええ。だけど変でしょ?」
「ちっとも変じゃないですよ。だけど一つだけ気に入らないことがあります」
そう言って将人はカウンターの中で働いている男性に視線を送った。
「あの彼がイケメンすぎることです」
真顔で言われ、玖美は思わず吹き出してしまった。
将人はここの店のオーナー兼シェフに嫉妬しているのだ。
嫉妬している彼を見ていると、ますます愛おしくなってしまう。
「あ、そうですね。将人さんに言われて、今気がつきました」
玖美は困らせてやろうとわざと惚けると、将人は弱ってしまったらしく肩を落とした。
「ふふふ。将人さん、あの人の左薬指をごらんなさい。既婚者ですよ」
「なんだぁ――! そうでしたか!」
玖美の一言で将人はたちまちほっとして明るい顔になった。
しかし、本当のところこの店には、お酒を嗜むのと同時に、目の保養に通っていた。
もちろん会社にもイケメンはいるが、あまりじっと眺めていると噂になりかねない。
そこで一人こっそり訪れ、オーナーの顔を拝みつつ酒を飲むのが、ここ数年らいの楽しみとなっていた。
「将人さん、いただきましょうか。ここの串焼き、すごく美味しいんですよ」
二人が立っているテーブルには、ビールジョッキと串焼き、枝豆が置いてある。
「そうですね。でも、その前に……」
将人はビールジョッキを持ち上げ、押し出してみせた。その仕草を見た玖美は微笑みながら、ビールジョッキを持ち上げた。
二人は静かにジョッキを重ねると、それぞれの口にビールを流しこんだ。
空きっ腹にビールが染み渡り、体中の細胞が活性化したような気がした。
「ぷはぁ~」
いつもの癖で親父臭い仕草をしてしまい、さらにジョッキの中のビールが半分に減っているのを見て少し慌てる。
デートの真っ只中なのに、自分の親父臭い日常を晒してしまい深く後悔した。
この店は裸の自分が出てしまう。ここに将人を誘ったのは間違いだった。
かと言って、お洒落なバーは西村と行った店しか知らない。
元カレが連れて行ってくれたお店に現カレを案内するのはやはり憚られた。
「玖美さん、いい飲みっぷりですね」
静かにジョッキを置きながら、将人がにこやかに話しかけてきた。
「ごめんなさい。親父臭くって嫌ですよね?」
気恥ずかしさを押し殺しながら尋ねると、将人は片頬にえくぼを浮かべ、
「そんなことありません。あなたらしくていい」
いつもの調子で、恥ずかしがっている玖美を優しくなだめた。
周囲は一人飲みは静かに、気心の知れた仲間二、三人でつるんでいる者たちは楽しそうにお酒を酌み交わしている。
テーブルはいっぱいで、遅く来たにも関わらず玖美たちが席を取れたのは奇蹟に等しかった。
二人の間に間が流れ、静かに飲み食いしていた。
しばらくしてジョッキを持っていた将人の手が止まり、まっすぐ玖美を見つめた。
「ところで玖美さん。真実を受け止める覚悟はありますか」
将人が話す真実とは何のことだろうと考える玖美であった。




