五、
五、パンドラの箱
将人がめくる写真には幼い頃の玖美ばかりが写っていた。
幼稚園の入卒園式、お遊戯会や小学校の入学式卒業式、運動会、ピアノの発表会、そして遊園地の写真。
全て玖美一人だけで写っているものばかりだった。
「これはあなたと杉崎さんですか」
めくっていた将人の手が止まり、玖美が見やすいように写真を傾けてあげた。
白いポロシャツを着た伯父とピンクのTシャツを着た玖美がにこやかに写真に収まっていた。
「はい、そうです」
写真を見た玖美は即答した。
伯父は自分との思い出を大切に保管してくれていたのだ。
二人だけで写っているこの一枚は伯父にとって、特に大切なものに相違なかった。
この日、母親は親戚を見舞うため出掛けることになっており、父親と二人きりで遊園地に行くことになっていた。
普段父親は仕事で帰りが遅く、朝もちらっと顔を合わせる程度で、土日祝日も接待ゴルフや出張で会話らしい会話をしていなかった。
父娘二人だけとあって父は玖美を甘やかせた。
玖美が「メリーゴーランドに乗りたい」と言えば乗せ、「チェロスが食べたい」と言えば食べさせ、「うさぎのぬいぐるみが欲しい」と言えば買い与えた。
だけど、玖美は何でも「ダメ」と言う父が別人のように優しく甘えさせてくれるので、子供ながらに薄気味悪く思っていた。
夕食もファミリーレストランへ連れて行かれ、「好きな物を何でも注文していいよ」とにこやかに言われ、これが最後の晩餐になるのではないかと不安になった。
結局、空腹には勝てずハンバーグステーキとチョコレートパフェを注文したが、完食できずに残してしまった。
それでも、父は玖美を咎めようとせずファミレスを後にした。
家路に向う車を運転している父はずっと黙りこんでおり、その横顔に寂しさが滲みでていた。
ますます玖美は怪しみ、このまま家に帰らずどこか知らない場所に連れて行かれるのではないか思い、買ってもらったうさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていた。
しかし、そんな不安は自宅が近づくにつれ、解消されていった。
家の玄関には灯りが点り、母が帰っていることを物語っていた。
「ただいま!」
元気よく玄関に飛び込むと、母がすぐに出迎えてくれた。
「おかえり。遊園地はどうだった?」
「うん、楽しかったよ! いっぱい色んなのに乗ったよ。それからこれも買ってもらっちゃった」
ずっと車中で抱きしめていたぬいぐるみを突き出し、にこにこして聞いている母親に見せてあげた。
その背後からのっそりと父親が姿を現し、玖美はびっくりして口を噤んでしまった。
「おかえり、玖美。直也はどうした?」
すると玖美の背後に人の気配を感じ、振り向くと今まで父親だと思っていた伯父が入ってきていた。
「今日一日、玖美ちゃんをお借りしてすまなかった」
「いいえ。玖美も楽しかったみたいだから良かったわ」
玖美は楽しそうに話している伯父と母の会話を黙って聞いていた。
やがて父と目が合い、持っているうさぎのぬいぐるみに視線が移っているのを感じた。
「玖美、そのぬいぐるみは買ってもらったのか」
父の誘導尋問にひっかかるようにして首を縦に振ると、無表情で「直也、ありがとう」と抑揚のない声で礼を述べた。
「いやあー、どうってことないよ。それより玖美ちゃんと一緒に過ごさせてくれた英樹と
十和子さんに感謝してます」
その言葉を聞いた瞬間、玖美の目から大粒に涙が流れ落ち、「わぁん、わぁん」と声を上げて泣き出した。
「玖美、どうしたの?」
驚いた母親は玖美に優しく尋ねたが、泣いているばかりで答えない。
「泣いていないで、ちゃんと答えなさい」
父の冷たくビシッとした声が耳に届くと、ますますしゃくり上げて激しく泣いた。
「玖美ちゃん、ごめんね。びっくりしたよね。おじさんたちが悪かった。ごめんなさい」
伯父がなだめるように優しく声をかけてきた。すると、玖美は涙を拭きながら顔を上げた。
「みんなひどいよぉ! 最近お父さんと話していなかったから、楽しかったのにぃ!」
玖美の言葉を聞いた大人たちはたちまち閉口してしまった。
後にして思うと、おかしなことが多かった。
例えば学校の担任や友達の名前を知らなかったり、家の敷地内に植えたひまわりが発芽しているのに知らないなど齟齬が生じていた。
しかし当時、お父さんは忙しいから知らないのだろうと軽く流していた。
「玖美さん、顔色が悪いですが、大丈夫ですか」
渡部の声で玖美は現実に引き戻された。
「はい。今その写真を見て、思い出したことがあります」
玖美は遊園地に行った日のことをかいつまんで将人に説明すると、彼は眉を寄せて渋面になった。
「もしかして、僕たちはパンドラの箱を開けてしまったのかもしれませんね」
……パンドラの箱。
確かにその通りかもしれない。伯父は自分を極力この部屋に近づけようとしなかった。
あの夏の日、伯父に怒鳴られたのは玖美のこうした写真が保管してあって、それを見られたくなかったのかもしれない。
伯父が亡くなった今でも呪縛に囚われ、なるべくなら足を踏み入れないようにしてきた。
しかし、昨晩は将人に布団を貸すため仕方なく部屋に入り、布団を取り出すとすぐに逃げるようにして出て行った。
「この部屋は私にとってパンドラの箱みたいなものです。
小学生の頃、中に入ろうとして伯父に咎められました。
ですが伯父が亡くなって半年。そろそろ遺品の整理をしなきゃいけないと思っていたんです」
大きなため息をはき出すように、将人に告白した。
「そうですか。何だか深い事情がありそうですね。
僕に出来ることがあれば、何でもおっしゃって下さい」
「ありがとうございます。それよりお腹空いてませんか。
簡単なものしかできませんが、朝食にしましょう」
そう明るく言って、デスクに乗せた袋と発泡スチロールを手にした。
「あっ、筑前煮を頂きました。パンとは合わないですけど、一緒に頂きましょう」
「お手数かけてすみません」
慌てた口調の玖美に将人の顔が自然と綻んだ。
二人は朝食を摂りながら、今後の予定を話し合っていた。
午前中、将人は昨日約束した雨戸の修繕をし、その間玖美は伯父の部屋を掃除することになった。
こうして二人はかいがいしく働き、あっという間に昼になってしまった。
お昼は下に降りて将人行きつけの蕎麦屋に入った。
「杉崎さんのお墓はどちらにあるんですか。やはりA市内ですか」
勢いよく蕎麦をすすりながら、将人が尋ねてきた。
「Y町です。お墓から海が見えます。そこには祖父母も一緒に眠ってます」
「Y町ですか。僕の住んでいるM町の隣りですね」
蕎麦を飲みこむと、「墓参りしたいな」とぼそっと呟いた。
その言葉を聞いた玖美は当初の予定を思い出していた。
二日間は伯父の家でのんびり過ごし、最終日は墓参りに行くつもりだった。
この後、将人と別れ、買い物をして戻っても何もする気になれないだろう。
もし将人が許してくれるのならば、彼の車に同乗し墓参りを済ませてしまいたい。
そうすれば、少しでも長く将人と一緒にいられる。
「あのう、じつは明日お墓に行こうと思ってました。
もしよろしければ、予定を一日繰り上げて案内いたしますけど」
話してしまってから、しまったと思った。
昨日も泊って欲しいとお願いしたうえに、今またお墓まで同乗させろと言っているようなものだ。
自分はなんて厚かましい女なのだろう。
しかし思い悩む必要はなかった。
将人はあっさり「いいですよ」と笑顔で返した。
昼食を終えた二人は、早速お墓へと向った。
その道中、将人が玖美より三つ年下であることや、両親は同県内のM市におり、自分は一人暮らしをしていることがわかった。
さらに墓参りのあと一回自宅に戻り、晩ご飯を飲食店でともにし、玖美を再び伯父の家まで送り届けてくれるという。
最初困惑した玖美もこれは何かの縁だと思い直し、将人の厚意を受けることにした。
「ここです」
玖美は杉崎家之墓と彫られた石の前で足を止めた。
墓石からは海が眺められ、絶好のビューポイントになっている。
二人は景色に目をやり、伯父の眠る墓石に手を合わせた。
「杉崎さんは毎日、素晴らしい景色を眺めていらっしゃるんですね」
先に拝み終わった将人が、ぽつりと言った。
「ええ、ここは伯父が購入したそうです。
場所は不便ですけど、景色がいいので誰か訪れることを願って購入を決めたそうです」
「本当にいいところですよね」
将人は墓石の隣りに並んで立ち、海に目をやった。
玖美はそんな彼の姿を眩しそうに眺めた。
「そろそろ、引き上げましょう」
まだゆっくりこうしていたい気持ちを抑えて、将人を促すと「ええ」と同意してくれた。
玖美は駐車場に歩き出そうとした瞬間、待ったがかかった。
「玖美さん、この孝枝さんってどなたですか」
将人のひと声で再びパンドラの箱が開かれようとしていた。




