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柿の花咲く頃  作者: 秋沢文穂
本編「柿の花咲く頃」
3/18

二、

二、正直な人

「粗茶ですけど、どうぞ」

 玖美は男が身につけているスーツの襟元を睨みつけながら、お茶碗を差し出した。

「あ、ありがとうございます」

 男は裏返った声でお礼を述べ、おどおどした様子で頭を下げた。

 緊張しているのは自分だけではない。この男もそうらしい。


 玖美はお盆を脇に置きながら、男の顔を盗み見た。

 男の顔はお弁当箱みたいに真四角だった。

 肌は真っ黒に日焼けして、目鼻立ちは少し地味な印象。目を引くほどの美男子ではないが、顔全体は男らしさがみなぎっている。

 角刈りの生え際から汗が噴き出ていた。

 男はハンカチを取り出して額の汗を拭い、ハンカチを握ったまま玖美の淹れたお茶を飲みこんだ。


 茶碗を茶托の上に戻すと、急に男の顔つきが変わった。玖美は驚いて、その身をのけぞらせてしまった。

「あのう……」

 男は上着の内ポケットに手をやり、探り出してレザーの名刺ケースを取り出した。

「わたくし、こういう者です」

 玖美の前に差し出された名刺には、『株式会社コーワハウス 販売促進部 渡部わたべ将人まさと』と書いてある。


 株式会社コーワハウスと言えば、東京に本社を構える大手不動産会社だ。

 その人間がこの家にやってきたということは、売却を迫りに来たのかもしれない。

 以前、父も「直也の家を他人に貸すか、売るかもしれない」と話していた。

 玖美はますます身を硬直させ、相手の出方を待つことにした。


「じつにいい家ですね。木の温もりを感じます」

 天井や柱を眺めながら、しみじみと言った。

 そのおどけた男の声に玖美は拍子抜けをしてしまい、一気に脱力してしまった。

 この男は一体、何をしに来たのだろう。


「あのう、伯父は半年前に亡くなり、後継の父はいないんですけど……」

 声に出してしまい、気がついた。

 これでは自分しかいないことを、しっかりアピールしているようなものだ。

 助けを呼んでも誰も来ない。すぐに後悔が生まれた。

 そして玖美は後悔から恐怖に変わり、たちまち身動きが取れなくなってしまった。


「ああ、忘れてました。杉崎さんにご挨拶させて下さい」

「はい、どうぞ」

 玖美は怪しげな男――渡部を仏壇に案内してあげた。案内された渡部は早速仏壇に手を合わせ、伯父に挨拶をしているようだった。

 玖美は渡部の後ろ姿をぼうっと見つめていた。顔だけではなくその背中も男らしかった。

 学生時代、何かのスポーツをしていたと思わせる肩は、張り出され背広にぴったり抑えつけられ、自由を奪われ可愛そうなぐらい窮屈に見えた。


「ありがとうございました」

 突然、玖美の方に向き直って、会釈してきた。

「あ、いいえ。伯父も喜んでいると思います」

 急にふられた玖美はしどろもどろに応対してしまい、また後悔する。

 だいたい伯父が生前にこの男と会ったことがあるのか疑わしい。

 この男の正体は、コーワハウスの社員としかわかっていないのだ。

 それに名刺はパソコンを使えば、いくらでも偽造できる。用心するに越したことはない。


「それにしても、杉崎さんとあなたはよく似ていらっしゃる」

 渡部が玖美を見て薄く微笑んだ。彼の片頬には、えくぼが浮かびあがっている。

 いかつい顔なのに、そのえくぼのせいで可愛く思ったが、悟られまいと平然とした態度で話し出した。

「じつは私の父と伯父は双子なんです」

「へえー、そうなんですか。それであなたとそっくりなんですね」

 玖美には渡部の関心の仕方がわざとらしく感じた。

 この男は全てを知っていて、様子を見に来たのではないだろうか。

 あるいは玖美が自宅に戻った後、この家にある物を盗みに入るのではないだろうか。

 依然、玖美のなかで疑念が渦巻いていた。


 二人は向き直り、座卓を挟んで対峙する。渡部の人懐こい眼差しが玖美の姿を捉えていた。

 気不味くなった玖美は、そわそわと立ち上がった。

「あの、お茶を淹れ直してきます」

「あ、結構です。もう少し、あなたとお話したいんで……」

 男の声が尻窄みに小さくなっていった。

 まるで普段大人しい男の子が生まれて初めてナンパしたみたいに自信なさが滲み出ていた。

 そんな彼の態度を見ていたら可愛そうになり、浮かせた腰を再び下ろして、睨めっこに戻った。


 二人の間に、柱時計の秒針の音が規則正しく流れている。

 玖美は静寂を打ち破るために、何かを話さなければという焦燥に駆られた。

「そう言えば、私の名前をお教えしてませんでしたね」

「いや。えーっと、知ってます。杉崎玖美さん。株式会社マゼンタの主任でしたよね?」

 男の言っていることは当たっていた。玖美は確かに株式会社マゼンタの主任だ。


 株式会社マゼンタは紙製品を主流とした文具メーカーで、小学生向き学習帳からビジネスマン向き革張りの手帳を取り扱っている。

 玖美は営業企画部設立以来初の女性主任に任命された。


「何だかストーカーじみていて、気持ち悪いですよね」

 渡部は少し前のめりになって尋ねてきたので、反射的にああ、と頷いてしまった。

 すぐに玖美は間違いだと気づき、「いいえ」と慌てて打ち消した。

 慌てている玖美を見た渡部の頬がたちまち綻んだ。

 頬に出来たくぼみを玖美は恥ずかしさを押し殺して見い入ってしまった。

「玖美さんは正直な人ですね。かわいいです」


 真顔で「かわいい」と言われ、うつむいた。

 三十一歳にもなって見知らぬ男の人から、「かわいい」と言われるなんて……。

 どう対処したらよいわからない。

「初めてお会いしたばかりなのに、変なことを言って申し訳ありませんでした。じつは杉崎さんは僕の上司だったんです」

「まあ、そうだったんですか」

 玖美は驚きとともに、どうしてもっと早く言ってくれなかったのか、心のうちで渡部を責めた。

 しかし、この家の査定に来たわけではなく、大切な伯父の家を取られないと思うと安堵した。


「杉崎さんは本当にいい上司でした」

 渡部が「本当に」を強調したので、玖美は彼が言わんとしていることを悟った。

「僕が悩んでいた時に、杉崎さんは食事に誘ってくれたんです。

 その食事中、ずっと僕の話を黙って聞いてくれました。

 そして、的確なアドバイスをしてくれたんです。そのおかげで僕は随分救われました」

 いかにも温厚な伯父らしいエピソードだと玖美は思った。


「でも、あなたの会社と伯父の会社は違いますよね。確か伯父は保険会社に勤めていたと記憶しておりますけど」

「ええ、前に勤めていた会社は幸健こうけん生命です。

 もともと不動産業に就職したかったんですけど、希望に沿う会社がありませんでした。

 杉崎さんは何度も相談に乗ってくれたんです」

「そうでしたか」

 玖美はようやく合点がいった。

 どうやら、伯父は勤め先でも人望が厚かったようだ。

 今こうして向かい合って話している渡部がいい証拠だ。

 伯父が亡くなって半年、この辺鄙な山の中までわざわざお線香をあげにくる人はいない。


「あなたを見ていると、杉崎さんといるみたいで、何でも話したくなってしまいます。

 杉崎さんもあなたのことをよく自慢げに話していましたよ」

「まあ、一体どんなことを?」

「四年生の大学を卒業して、文具メーカーのマゼンタに就職してるって。

 初めてのボーナスでネクタイをもらったって、嬉しそうに見せてくれました」

「そんなことまで」

 玖美は伯父にネクタイをプレゼントした日のことを思い返した。

 包みを開けた伯父の驚きと喜びが入り交ざった顔は、そう簡単には忘れられない。今でも目に焼きついていた。


 二人の間に沈黙が流れ、ことんと音がした。向かい合っている渡部が茶碗を置いた音だった。

 そんな静寂のなか遠くの方でゴロゴロという雷鳴が聞こえてきた。

「長いこと、お邪魔してすみませんでした」

「いいえ。こちらこそ何のお構いもできませんで、失礼いたしました」

 渡部はすでに立ち上がっていて、部屋から出ようとしている。

 慌てて玖美も立ち上がり、玄関先まで見送ることにした。


「今日は本当にありがとうございました。伯父も喜んでいると思います」

 雷鳴は相変わらず轟いていたが、玖美は落ち着いてお礼が言えてほっとした。

「こちらこそ、久しぶりに杉崎さんと話しているみたいで楽しかったです。

 また今度立ち寄っても構わないでしょうか」

「ええ、伯父の月命日近くの週末におりますので、どうぞお立ち寄り下さい」

 玖美の中にあった警戒感は完全に払拭されていた。

 渡部も嬉しそうに「ありがとうございます」と笑顔を見せ、二人の間に張っていた緊張の糸は切れていた。


 和やかなムード漂うなか突然、青光りとともに激しい雷鳴、そして震動までもが伝わってきた。

 玖美は「ひゃあ」と情けない叫び声を上げながら、目の前にいた渡部にしがみついていた。

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