三、
三、フレグランスと柿
しがみついた渡部の体からスパイシーなフレグランスが匂いたち、玖美の鼻腔を刺激した。
その香りで我に返った玖美は身を離そうとした瞬間、閃光とともに轟音が響く。渡部の袖を一層きつく握った。
頭のどこかで嗅ぎとったフレグランスの香りは、あの人がつけていたものと同じだった。
あの人――。
西村幸雄とは別れて三年になる。
株式会社マゼンタに入社したばかりの玖美は、社の慣例で得意先へ挨拶がてら注文商品の搬入をしていた。
角丸商事株式会社もその一社で、玖美は重いノートの束を抱えて受付に問い合わせていた。
ところが受付では注文した者はいないという。一瞬先輩のいたずらかと勘繰ったが、注文はFAXで流れてきておりそこまで手のこんだいたずらをするとは考えにくかった。
玖美は持ってきた注文書を受付嬢に渡してあげた。そのFAX用紙にはかすれているが、田村と書いてある。
受付嬢二人組は手分けして、再び各部署の田村にあたってくれた。
「どうかしましたか」
背後から優しいバリントンの声した。振り向くと声に劣らず優しい顔立ちの男が立っていた。
「ああ、西村さん。株式会社マゼンタの杉崎様がノートを収めにいらっしゃったんですけど、
どこの部署の田村さんかわからずに困っているんです」
すると西村は眉をしかめ、「失礼」と受付嬢からFAX用紙を取りあげた。
「これは俺の字です」
受付嬢二人は、「もおっ!」と一斉に西村を非難し、苦笑いを浮かべた。
玖美はその光景をぽかんと眺めていたが、やがて西村は玖美のほうに向き直り、
「ハンコはディスクにありますから、半分持ちましょう」
「あ、はい」
ようやく依頼主がわかった安心感から、うっかり返事をしてしまった。
よく考えてみたら、サインでも大丈夫だったのだが、玖美はまんまと西村にしてやられた。
なぜなら彼の部署に向う道中、西村は玖美を食事に誘ってきた。それがきっかけとなり、交際はスタートした。
二人の交際は順調だった。
西村は玖美のリクエストに答え、色々なところへ出掛けた。また玖美一人では足を踏み入れにくい場所へも連れて行ってくれた。
飲み食い道楽の玖美にとって、こんなに心強いパートナーはいなかった。
転機は交際七年目の春にやってきた。
西村はニューヨーク支社への転勤が決まり、一緒に来て欲しいと誘われた。
ところが玖美は仕事が面白くなり始めたばかりで、おまけに主任に抜擢されたばかりだった。
それでも、西村への返事をひと月ぐらい悩み抜いた末、ニューヨーク行きを拒んでしまった。
結局、西村は一人寂しくニューヨークへ旅立って行った。
玖美は搭乗口に向う彼の背中を眺めながら、本当にこれでいいのかとずっと自問していた。
西村のニューヨーク勤務から数ヶ月後。玖美の耳に西村が結婚したという噂が飛びこんできた。
その相手はなんとあの受付嬢の一人だった。
つまり西村は玖美と受付嬢と二股をかけていたことになる。
これを聞いた玖美は激しい憎悪と深い悲しみに襲われた。
その噂を聞いたのは年末年始休暇に入る直前で、休みに入るなり伯父の家にある自室に篭城し、
伯父もそんな玖美を察し出かける時以外話しかけなかった。
そのおかげで玖美の傷心は正月には格好がつくぐらいには癒え、休暇明けには何事もなく通勤できるようになった。
「大丈夫ですか」
玖美の頭上に西村とは違う声がして我に返った。
しがみついている手を離しながら、「ごめんなさい」と蚊の鳴く声で謝罪した。
日中、庭先に投げ捨てたムカデを思い出した。ムカデは腹を見せ、もぞもぞと足を動かしていた。
自分は今渡部に腹を見せ、もがいている気分だ。次第に玖美の頬は熱を帯びているように感じた。
「本当に大丈夫ですか。顔が真っ青だ」
心配そうに渡部が尋ねてきたが、玖美は腹のうちで思わず苦笑してしまった。
まだ、出会って間もない男に自分の醜態をさらけ出し、恥ずかしくて赤面しているはずなのに。
相手の男から見て、真っ青とは一体どういうことなのだろう。
「ええ、大丈夫です。理由はわかりませんが、幼い頃から雷に弱いんです」
「ここは山の中ですから、音が響きやすいのかもしれませんね」
外からは雷鳴とともに、パラパラと地面に叩きつける音が聞こえてきた。
どうやら、雹が降っているらしい。
「しばらく、ここにいても構わないですか。この雨では運転しにくいでしょうし……」
眉毛を下げ一段と優しい顔になった。
玖美にとって渡部の申し出は大変ありがたかった。
一人にされると自分はもっと怯えてしまうだろう。
そして雷が鳴り止むまですっぽり布団を頭から被って、怯え震えながら過ごすことになるだろう。
「ゆっくりして行って下さい」
玖美の頬が緩むと、渡部もつられて頬が緩んだ。
「それは良かった。じつはあなたのことが心配でしたから」
二人は居間に戻ると、窓ガラスに雨粒が激しく打ちつけていた。
「これは大変だ」
渡部は慌てて窓辺ヘ行き、雨戸を閉めてくれた。
「ありがとうございます。助かりました」
玖美が改めて御礼を述べると、渡部は大きな体を小さくさせて、
「いいえ、大したことじゃないですから。それより、雨戸の建付けが悪いですね。カンナはありますか」
「多分、下駄箱にあると思います」
「あとで直して差し上げます。これでも日用大工が趣味なんです」
嬉しそうに語る渡部の指にミミズ腫れのような傷痕があった。不器用ながらも好きということだろうか。
突っ込みたい気持ちを抑えて、簡単にお礼を述べてお終いにした。
「あのう、庭の中央に立っているのは柿の木ですか」
「はい、そうです。伯父は毎年秋に収穫し、私の家にも送ってくれました。
今年はどうするかまだ考えてませんが……」
渡部に質問され、秋の柿の実を思い出した。伯父は毎年玖美の家へダンボール一箱分を送ってきていた。
それでも、余った柿はご近所やコンビニエンス石田にお裾分けをしているらしかった。
「僕も一度だけご相伴に授かったことがあります。今年の柿は特に甘くて美味しいからと会社に持って来られたんです。
本当にうまかったな。あんなにうまい柿を食べたのは、後にも先にもあの一回限りです」
そう言って渡部は目を細めた。
外は相変わらず激しく雨が降っているが、次第に雷の音が遠のき、玖美の心に理性が芽生え始めていた。
どうやら、この渡部という男は西村とは真逆のタイプで、彼が言葉を発するたびにざわめついていた心が落ち着いてしまう。
彼の口調はどこまでも穏やかで、人を安心させてしまう魔力を秘めていた。
玖美は彼の口からもっと色々な話が聞きたいと願うようになっていた。
「私もその年の柿の味をよく覚えております。
確かあの年は猛暑でも、適度に雨が降ってくれたおかげで出来が良かったと記憶しております。
伯父も一生懸命肥料を与えていたので、甘かったんだと思います」
「そうでしたか。もっと杉崎さんの柿を食べたかったな」
渡部の故人を悼む言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。
玖美はしがみついたときの渡部の匂いを思い出していた。
西村と同じ匂い。
でも、それは全く違う匂いに思えてならなかった。
雨は一向に降り止む気配がなく、渡部をこのまま引き止めるには夕飯をご馳走するしかない。
冷蔵庫に詰め込んだ食料は一人前五回分。
もしかしたら、どこかに生前伯父が買い置きした缶詰があるかもしれない。
「あのう、雷も止んだことですし、おいとまいしてもよろしいでしょうか」
渡部が恐る恐る口火を切り、腰が半分ほど浮いている。
このままでは帰ってしまう。
玖美は焦りを覚えた。もっと、この人と話がしたい。もっと、この人の話を聞きたい。
そして、彼がつけているフレグランスの香りを鼻腔奥深くまで嗅いでいたい。
「ちょっと待ってください。折角ですので、夕飯をご馳走させてください」
玖美の必死な形相に、渡部は少々たじろいた。
「そんなに甘えてしまっては、うちに帰るのが億劫になってしまいます。どうか引き上げさせて……」
「いいえ、一緒にいて下さい。泊ってくれても結構です。それに泊ってくれたら嬉しいです!」
玖美は渡部を引き止めようと、つい本音をもらしてしまった。




