第1話「止まった時計の針」
第1幕 第1章 第1話「止まった時計の針」
「オルドス本部の特殊凍結アーカイブへの移送が決定した。……お前にできることは何一つない」
防護服の化学繊維が擦れ合う微かな殺伐とした音と、スピーカー越しに不鮮明に割れた無機質な宣告。それが、十四歳の俺の鼓膜を打ち破った最後の現実だった。
「待ってくれ! ミウを連れて行かないでくれ! 俺が……俺がなんとかするから!」
厚い強化ガラスの向こう側で、ミウの体は白い冷気へと呑まれつつあった。足元から這い登る霧のような結露が視界を濁らせていく。俺は白衣を着たオルドスの職員の袖にすがりつき、なりふり構わず食い下がった。
「頼む、どうすれば妹を元に戻せるんだ!? 教えてくれ!」
だが、職員は冷酷に俺の手を振り払うと、冷笑とともに吐き捨てた。
「無駄だ。初期フリーズの進行を止める術はこの時代には存在しない。フリーズによる因果の歪みを直すなんて芸ができるのは、かつて過去の時間軸へ潜った『ダイバー』どものような都市伝説の中の存在くらいなものだ。とうの昔に全滅した連中だがね。せいぜい諦めろ」
冷笑とともに叩きつけられたその言葉。だが、絶望の深淵で、その『ダイバー』という一言だけが俺の脳裏に焦げついた。
爪が皮膚に食い込むほど握りしめた拳。ミウの小さな爪が徐々に白銀の結晶に侵食されていく様を、俺はただ無力に凝視するしかなかった。叫び声は肺の奥で粘りつく唾液とともに途切れ、搬送用カプセルが冷たい重音を立てて閉ざされた。
妹の時間は止まった。だが、世界は何も変わらず、黒く湿った煤煙と揮発油の臭いを空気に吐き出し続けている。十四歳の俺のポケットには、泥の中から拾い上げたミウの形見――凍りつくように冷たい、真鍮のネジ巻き鍵がひとつ、無骨な硬さで掌を押し返しているだけだった。
数日後。俺はあの職員が嘲笑交じりに漏らした『ダイバー』という存在を唯一の糸口として縋りついた。スラムの泥と排気ガスに塗れた闇市を走り回り、打ち捨てられた不法侵入用の情報端末のログを狂ったように漁り続けた。過去のレイヤーへダイブを敢行し、神話級アーティファクトを奪還せんとした伝承の『ダイバー』たち――今では都市伝説の如く語られるその影を追い求めて。
そして執念の末、生き残りの男がキレーサ下層の廃区画に隠れ潜んでいるという噂に辿り着いた。
俺は濁った安酒の酸臭とエンジンオイルの焦げつく匂いが充満する地下酒場「ラスト・コール」の重い鉄扉を押し開けた。
蝶番が錆びた悲鳴を上げ、足元で腐食した鉄板がペコペコと音を立てる。
カウンターの最奥。ぐらつくスツールに深く沈み込み、灰皿を煙草の吸い殻で山盛りにしている男がいた。元オルト・レコードのダイバー、レンだった。
「……何の用だ、ガキ」
レンは濁った琥珀色のグラスを見つめたまま、一度も視線を上げなかった。無精髭の伸びた頬は削げ落ち、目の下には黒ずんだ落ち窪み。吐き出す呼吸から、安煙草の酸辛い煙が立ち上る。
「俺をダイバーにしてください」
俺はベタつくカウンターの木板に両手を強く押しつけ、乾ききった喉から声を絞り出した。
「妹を助ける方法を調べたんです。過去のレイヤーに潜り、因果の歪みを直すアーティファクトを持ち帰るしかないって……。あんたが噂に聞くダイバーなら、俺をダイバーにして下さい!」
レンは湿り気を含んだ短くなった煙草を灰皿の底へ押し潰すと、喉の奥で乾いた掠れ声を漏らして笑った。
「帰って配給の泥水でもすすってろ。世界はとっくに壊れかけてるんだよ。宝探し気取りで過去へ潜った奴らがどうなったか知ってるか? 全員、時間の底で存在ごと溶けて消えた。無駄な足掻きはやめろ」
煙草の灰がカウンターの上にこぼれ落ちる。レンは軋む足音を立てて立ち上がり、出口へと歩き出した。
「待てよ!あ、・・・いや、ま、待って下さい!」
俺は咄嗟に身を乗り出し、すれ違いざまに男の右腕――袖口の擦り切れた布地から覗くサイバネティクス義手の肘関節を、両手で力任せに掴んだ。
その瞬間、頭蓋の奥で何かが爆ぜた。
パチン、と耳元で不吉な乾いた放電音が跳ねた。
視界が急激に彩度を失い、白黒の格子模様へと反転する。
周囲の喧騒、安酒の悪臭、言葉の意味――それらすべてが脳内から急速に脱色され、削ぎ落とされていく。言語の中枢が力づくで遮断され、耳に届くレンの怒鳴り声は、ただの無機質な高周波のノイズへと変質した。
代わりに、視界の解像度が異常なまでに跳ね上がる。
掴んだ右腕の外装プレートが、まるで薄い硝子細工のように不透明感を失い、青白く光を透過させていく。
俺の目の前に浮かび上がるのは、内部で複雑に組み合わさったチタン合金の骨格と、幾重にも張り巡らされた微細なケーブルの網。そして――十数年前に過電流で焼損し、黒く煤けたアクチュエータの断線部。噛み合わせの狂った歯車が、摩擦で火花を散らしながら不快な振動を俺の掌に伝えていた。
息が止まる。全身の皮膚から血の気が失せ、激しい吐き気が胃袋を突き上げる。自身の生来の認知特性が、暴力的な精度で世界を解体し、組み替えていく気持ち悪さ。
(直す――断面を読み取り、歪んだ歯車を、あるべき元の位置へ)
俺の指先から、青白い光の線が幾何学模様を描いて奔流となり、溢れ出した。
光のグリッドが装甲の隙間へと滑り込む。俺は手のひらの感触だけを頼りに、摩耗した金属の断面を擦り合わせ、欠損した導線へとエネルギーのパッチを当てるように繋ぎ合わせていく。縫い合わせる。力任せに、だが精密に。
カチリ――!
鼓膜を打ったのは、新品の精密時計が初めて時を刻んだような、完璧な歯車の噛み合いの音だった。
「なっ……!?」
レンの喉から詰まった息が漏れた。
視界が暗く湿った酒場へと急速に引き戻される。猛烈な頭痛と吐き気がこめかみを殴りつけ、ガクガクと震える膝が砕けそうになり、俺はその場に膝をついた。喉の奥に胃液の苦い味が広がっていく。
レンは信じられないものを見る目で、己の右腕を見つめていた。
先ほどまで油膜の不快な異音と振動を上げていた義手が、モーター音ひとつ立てず、しなやかに五指を開閉させている。関節の擦れ合う感触すら消え去り、まるで己の生身の肉体のように滑らかに動いていた。
「……お前、今……何をした?」
連行されたのは、スラムの廃ビル地下、冷えたコンクリートの匂いが充満する「オルト・レコード」の観測室だった。
排気ダクトから吹き出す液体窒素の重い冷気が、足元を白く覆う。部屋の中央、揺らめく光の束から立ち現れたのは、白基調のガウンを纏った少女の立体映像――基底管理AIアリスだった。青白い光のリングが、俺の頭頂から足先までを緩やかに走査していく。
『脳波ログ、ならびに因果干渉波形の解析を完了』
アリスの無機質な合成音声が、冷たく静かな室内に響き渡った。
『被験体名:カイ。全四レイヤーにおける時間適応率……測定限界を突破。平均九二・四パーセントを記録。――全時代の因果結節点へ干渉可能な、万能のマスターキーと定義します』
室内の空気が一瞬で凍りついた。
適性率九〇パーセント超。それは世界政府オルドスが血眼になって捜索している、規格外の突然変異体であることを意味していた。
「アリス、そのログを今すぐローカルの暗号領域に隔離しろ」
レンが冷え切った声で命じた。
『ダイバー・レン、それはオルドス規定違反です。本個体は即刻、中央執行部へ引き渡され――』
「ログを書き換えろ、アリス!」
レンが新しく修復された義手の拳を、ガタつく作業台の鉄板へ叩きつけた。重い打撃音が響く。
「上層部の連中にコイツを渡してみろ。散々調べられて、使い捨ての「合鍵」にされるのがオチだ。……もう喋るな。アリス、ログを書き換えろ」
アリスの瞳が一瞬激しく明滅し、静かに頷いた。
『……プロトコル承認。偽装データをオルドス外郭サーバーへ送信しました』
レンは懐から皺くちゃの安煙草を取り出し、震える指先でジッポライターの火を点けた。紫煙の向こうから、鋭い眼光が俺を射抜く。
「え?何がどうしたっていうんです?俺が何か・・・?」
何が何だかわからない。適合率?合鍵?偽装登録?
レンが唐突に言った。「小僧、地獄へ付き合う覚悟はあるか?」
「お前の異常な適合率は、各レイヤーへダイブするためのいわば「マスターキー」だ。オルドスも長年探してる。……まあ、分かりやすく言うならお前がいれば、ミソロジー級アーティファクトが眠るレイヤーにダイブできるってことさ」
「お前に覚悟があるなら、ダイバーにしてやらんこともない。ただし条件がある」
レンは煙草の煙を吐き出し、力強い視線で俺を見下ろした。
「今日からお前は、オルドスの目を盗んでミソロジー級アーティファクトを掘り起こす、俺の『共犯者』だ。いいか、小僧」
詳しいことはわからない。わからないことだらけだ。でも、ミウを助けるために因果の歪みを直すアーティファクトを持ち帰るしかないなら、この提案を呑むしかない。
俺はポケットの中の真鍮の鍵を握り締め、手のひらにその無骨な角を食い込ませながら、真っ直ぐに頷いた。
5年後。
キレーサ第十三区画、崩落しかけた複合商業ビルの屋上。
低く垂れ込めた鉛色の雨雲から、肌を刺す酸性混じりの霧雨が絶え間なく降り注いでいた。
カチャリ、と湿った空気の中に擦れたジッポライターの金属音。
「おい、カイ。そいつはいくらになりそうだ?」
十九歳になった俺の背中に、使い古されたトレンチコートの男が長いため息とともに煙草の煙を吹きかけてきた。
「せいぜい合成レーション二日分ですよ。それも、裏通りの闇市で買い叩かれなきゃの話ですけどね」
俺は右手の手甲――無骨な金属装甲と擦り切れた革ベルトで補強した作業用ガントレットの締め込みをぎりりと直すと、回収したレリック級遺物の残骸を、油と汚れの染みついた布で手際よく包み直した。
足元を見下ろせば、濡れたトタン屋根と無秩序に這い回る黒い配線チューブの隙目で、ガラスの彫像のように不気味な灰色に変色したフリーズの侵食フロントが、息を潜めて静かに広がり続けている。
五年間、俺たちは下請けの過酷な潜行任務を重ね、妹の凍結進行を抑える延命剤として低級のアーティファクトを稼ぎ続けてきた。だが、ミウの時間は止まったままだ。
「……サボってないで、早く降りましょう。また雨脚が強くなってきました」
「へっ、急かすなよ。相棒」
レンが短くなった煙草を指先で雨の中へ弾き、肩に担いだ武骨な銃型デバイス――ダイブ・アンカーのずっしりとした重みを掌で確かめた。
止まった世界の針を動かすための、過酷で泥臭いお仕事が、今日もここから始まる。
俺たちは顔を見合わせ、言葉なく地下のダイブルームへと歩き出した。




