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Deadend Freeze  作者: さとりたい
第1章

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プロローグ

五年前の冬。

頭上を覆うのは、重く湿った鉛色の雲だった。キレーサ第十三スラム区画の空気は、錆びた鉄と煤けた泥の臭いに満ちている。


半壊した廃ビルの縁。高所に刻まれた寒風の中、レン・カシマは湿り気を帯びた指先で安物の合成葉巻に火をつけた。

チッ、という硬質な着火音。紫煙が風にさらわれ、煤けたコンクリートの亀裂へと消えていく。かつて、「ネオエデン」の屋上で吸っていた紫煙とまったく同じ臭いだった。銀混じりの黒髪が雑に揺れる。冷たく凍りついた灰色の瞳が、死に瀕した街の底を見下ろしていた。


頭蓋の奥を揺さぶるように、脳内通信の帯域へアリスの静かな声が直接落ちる。

『フリーズ現象確認』


「……そうかよ」


レンは口内に残る安葉巻の苦味を、雑に吐き捨てた。

どうせ世界は終わる。今日、この場所が少しばかり早く凍りついたところで、何が変わるというのか。喉の奥にへばりつく煙の苦痛とともに、薄暗い諦念が脳を麻痺させていく。


だが、アリスの次の一言が、彼の思考の澱みを容赦なく切り裂いた。

『……人がいる。レンなら間に合う』


「……チッ」


頬から顎にかかって走る古い傷跡が、歪むように引き攣った。舌打ちの音が喉で跳ねる。

脳裏をよぎるのは、過去の歪んだ残像だ。指の隙間からこぼれ落ち、救えなかった相棒の冷たい皮膚の感触。


「……場所は? 近いのか?」

『300m……下』

「下かよ……。じゃあ、間に合うな」


使い古された黒のタクティカル・トレンチコートの裾が、激しい風を切って翻る。

レンは腰のホルスターから大型の銃型ダイブアンカーを引き抜いた。金属と油の重みが拳に伝わる。

引き金を引く。ガァン、と硬質な排殻音が沈黙の街に響き渡り、打ち出された鋼鉄ワイヤーが対角の鉄骨へ噛みついた。手に残る強烈な反動。レンは躊躇なく、鉛色の奈落へ向かってその身を投げ出した。


風を切る轟音が鼓膜を叩く。重力を置き去りにして滑降する肉体。ワイヤーが軋む高周波の音が、頭蓋を直接振動させた。


最下層のスラム。泥とへドロに塗れた薄暗い路地裏へ着地した瞬間、レンの視界を青白い結晶の狂乱が満たした。


時間が、空間が、世界そのものが陶器のように凍りつく超自然の牢獄――「フリーズ」。

その美しくも残酷な境界線の手前で、一人の少年が狂ったように叫んでいた。


「嘘だろ、目を開けろよ! おいッ!」


油汚れと泥の染み付いた粗末な作業着を着た少年。

琥珀色の瞳からこぼれる大粒の涙が、泥で汚れた頬の上に温かい筋を描いては、足元のみぞれの中へ落ちて消える。

その視線の先、境界線の向こう側で、幼い少女が静止していた。


少女の身体はすでに淡い光の粒子に包まれ、その時間を完全に止められている。

前髪の揺れも、小さな肩の上下も、まばたきすらも。まるで透明なガラスの塊の中に閉じ込められたかのように、指先一本動かない。


「動け……動いてくれよ……ッ!」


血を吐くような絶望の声。少年の爪が、凍りつき始めた少女の洋服の布地を虚しく滑る。指先から伝わってくるのは、血の通った人間の体温ではない。絶対零度の鉄板に触れたかのような、皮膚を灼く猛烈な冷気だ。

手元のわずかな温もりで必死にすがりつこうとするが、硬直した時間は少年の泥臭い抗いを無機質に弾き返す。時間の停止という絶対の物理境界の前では、届かない指先すら何ひとつ意味をなさない。


その姿はあまりにも無力で――そして、かつてすべてを失い、ただ絶望の悲鳴をあげることしかできなかった、あの日のレン自身の姿そのものだった。


「どけ、ガキッ!」


背後からの衝撃。少年の首元を、巨大な手が鷲掴みにした。

粗雑な力で後方へ引き倒され、少年の身体はへドロの浮いた泥水の中へ叩きつけられた。背中に走る激痛。喉の奥にへばりつく、へドロと硝煙の混ざった悪臭。


「あぐっ……!」


少年が起き上がろうとした瞬間、目の前でレンの右腕が露出した。

服の袖から剥き出しになった金属フレーム。サイバネティクス義手がギュリギュリと嫌な音を立てて軋み、隙間から青い火花を撒き散らす。焦げついたコードの匂いが鼻を突いた。


レンが構えたアボート・アンカーが、キィンと甲高い励起音を上げる。

凍土とレンたちの間に、青白い膜がフリーズの浸食を固定するように壁となって展開された。


「妹がそこにいるんだ!」


少年は叫び、へドロを蹴って立ち上がろうとした。妹の肩へ飛びつこうと、泥まみれの手を伸ばす。

だが、少年の手のひらを打ったのは、陶器のように硬質で、冷酷に凍てついた感触だった。


バリッ、と冷気が腕を駆け上がる。

喉の奥が引き攣り、肺腑が冷気を吸い込んで凍りつく。胃液が逆流し、口内に強い苦味が広がった。

世界の時間が物理的に停止する現象――フリーズの侵食面が、路地の黒い泥ごと、少年の足首から滲み上がり呑み込もうとしていた。


「ぐっ……、離せ……っ!」


暴れる少年の顔面に、容赦なく硬いものがめり込んだ。

レンの泥まみれの軍用ブーツだ。鈍い衝撃が頬骨を砕かんばかりに走り、少年の視界が真っ白に明滅した。


「黙ってろ! 今触ればお前の腕ごとパージ(消去)だ!」


レンの咆哮。

見開かれたレンの蒼い双眸には、凍りついた少女を見つめながらも、そこにいない誰かの幻影を見ているかのような、狂おしい恐怖と後悔の色が煮煮えくりかえっていた。


「チッ、間に合わなかったか……」


レンの口から漏れ出た言葉。


「……そいつの時間は、もう止まっちまった」


低く、突き放すような声。

だがその声の奥底には、凍りついた世界を焼き尽くすほどの、昏く烈しい熱が宿っていた。


少年は泥の中に伏せたまま、指先を痙攣させた。

妹の体に触れていた手のひらには、まだ彼女の最後のみずみずしい肌の感触と、それを塗りつぶした絶対零度の冷たさが残っている。心臓を素手で握り潰されたかのような、激しい執着と痛みが胸の奥で爆発していた。


『レン、状況を』


耳の奥で、アリスからの通信音がノイズ混じりに跳ねる。


「……オルドスへ運ぶ」


言い終えると同時に、レンはアリスの追及を拒むように通信を切った。


レンは足元の毛布を掴むと、凍結して固形物となった少女を毛布ごと乱暴に抱え上げた。

その瞬間、地面で沸き立つように這いつくばっていた少年が血走った目で弾かれたように飛びかかってきた。


「妹に……触るなっ! どこへ連れて行く気だ、返せッ!」


泥まみれの手が、レンのトレンチコートにしがみつく。爪が生地を裂かんばかりの力。大切なものを奪わせまいとする、必死の足掻き。

だが、レンは一切の弁明も口にしなかった。


「……静かにしてろ」


低く吐き捨てると同時に、剥き出しの金属義手が無機質な駆動音とともに旋回した。容赦のない掌打が少年の首筋を的確に穿つ。


「がっ……」


喉の奥で潰れた声を上げ、少年の視界が一瞬で真っ暗な深海へと没した。

力が抜け、泥の中へ崩れ落ちる少年の胴体を、レンは無造作に拾い上げて脇の下へと挟み込む。


両足に全身の筋力を叩き込み、重い軍用ブーツで泥濘を強靭に蹴り上げると、泥濘の闇の奥へと疾走を開始した。

切り裂く夜風と、濡れた泥を蹴り上げる足音だけが、絶望の路地に残されていた。



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