第6話「冷徹営業トップは心配性でした。」
営業部の担当になって2日目。
今日も営業部は、朝から慌ただしかった。
神崎は朝から外回りに出ているため、陽菜子の隣は空席だった。昨日はすぐそばにいたせいか、その空席が妙に広く感じられた。
「春宮さん、この領収書って、全部接待交際費でいいんすか?」
営業部の新人・佐藤が数枚の領収書を手に話しかけてきた。
「全部、というわけではないですよ。誰と何のために食事したか書いてますか?」
「誰と…あっこれ書いてませんでした!!」
佐藤は大きく目を見開き、しまったというように、額へ手を当てた。
「これは多分…この人っすね!」
「多分では申請できないかな…」
佐藤はまたやってしまったと言わんばかりに肩を落とし、自分のデスクへ戻っていった。
「あらあら、新人さんの教育お疲れ様。」
白石が会話に入ってきた。2つのマグカップを持っていた。
「春宮さん。これ、どうぞ。」
白石はコーヒーの入ったマグカップを渡した。
「あ、いいんですか?いただきます。」
「春宮さん、昨日、神崎さんとランチしたらしいですね?」
白石は座っている陽菜子を見下しながら尋ねた。
「はい。私の同僚と寺内さんも一緒でしたけど。」
陽菜子はそう言い、コーヒーを飲んだ。
次の瞬間、舌の上に強烈なしょっぱさが広がる。
「しょっぱい…。」
「あら。私、お砂糖とお塩、間違えちゃったのかしら。」
白石は口元に手を添え、わざとらしく首をかしげた。
その時、白石のデスクの電話が鳴った。
「神崎さんが優しいからって、勘違いしないほうがいいわよ。」
白石は声を潜め、陽菜子を冷たく睨みつけ、電話に出るため自分のデスクへ戻っていった。
陽菜子は、しょっぱいコーヒーと白石の背中を交互に見つめた。
(…白石さん、疲れてるのかな?)
陽菜子は心配そうに首を傾げた。
しかし、白石の意地悪はそれでは終わらなかった。
昼前、陽菜子が化粧室で手を洗っていると、隣に立った白石が濡れた手を勢いよく振った。
水滴が陽菜子の顔とブラウスに飛び散る。
「あっ…」
「ごめんなさい。手が滑ってしまって。」
白石は陽菜子を見ずに鏡を見て自分の髪を直しながら言い、化粧室を出て行った。
濡れたブラウスをハンカチで拭きながら、陽菜子は白石が出て行った扉を見つめた。
コーヒーも、今の水も、ただの偶然かもしれない。
けれど―― 。
(私、何か白石さんを怒らせるようなことしたかな…)
陽菜子は小さな違和感を覚えた。
お昼、陽菜子はいつものように同僚の恵美と社員食堂で食事をしていた。
少し離れた席では、寺内が営業部の社員たちと昼食をとっていた。陽菜子と目が合うと、寺内は軽く手を上げて笑った。
「今日、神崎さんいないんだね。あの顔、拝みたかったなぁ。」
恵美が残念そうに、親子丼を口に運びながら言った。
「もう。恵美ったら、結婚して子供もいる人がそんな発言していいの?」
陽菜子はくすくすと笑う。
「だって、神崎さんってすごくスタイルいいし、顔もいいし、目の保養だよ〜。」
「ふふっ、そうかもしれないね。」
その時、社員食堂の入り口が開いた。
外回りから戻ってきたらしい神崎が、営業部の社員と話しながら入ってきた。陽菜子は気づかなかったが、神崎は食堂へ入るなり、真っ先に陽菜子の姿を見つけていた。
そこへ、カレーと水の入ったコップを載せたお盆を持った白石が、陽菜子の正面から歩いてきた。
白石が陽菜子のテーブルの近くまで来た、その瞬間だった。
不自然に足をもつれさせ、お盆が大きく傾く。
「あっ」
コップが倒れ、中の水が陽菜子の頭から降りかかった。
床へ落ちたカレーが足元で跳ね、陽菜子のズボンにも茶色い染みが広がる。
「冷たっ…熱い」
「陽菜子!大丈夫!?」
恵美は慌てて立ち上がった。
椅子が床をこする大きな音に気づき、寺内もすぐに席を立った。
「春宮ちゃん、大丈夫?」
寺内は陽菜子のもとへ駆け寄り、後ろから自分のジャケットを彼女の肩にかけた。
「きゃあ。春宮さんごめんなさい!わざとじゃないの。」
白石は驚いたように口元を押さえていたが、その手の陰では、かすかに笑っていた。
その表情を見た寺内から、いつもの笑顔が消える。
「白石ちゃん。今、わざとやったよね? 」
「…わ、私、わざとなんか…」
白石は寺内の視線から逃れるように、一歩後ずさった。
その背中が、誰かの胸元へぶつかる。
神崎が、すぐ後ろに立っていた。
神崎は床に散らばったカレーと、濡れた陽菜子の姿を見た。
「白石さん……説明してください。」
「ち、違います。私はただ、転んで……」
白石は今までに見たことのないほど冷たい表情をする神崎と目を合わせられなかった 。
白石が言い訳を始めるより先に、神崎の視線は陽菜子へ向いた。
濡れた髪。汚れた服。床に落ちたカレー。
神崎は白石を追及することも忘れ、陽菜子のもとへ駆け寄った。
「春宮さん、大丈夫ですか……!」
神崎は陽菜子の肩にかけられていた寺内のジャケットへ視線を落とした。
一瞬だけ、神崎の眉間に深いしわが寄る。
「……寺内さん、ありがとうございます」
低い声でそう告げると、神崎は陽菜子の肩から寺内のジャケットをそっと外した。
代わりに、自分のジャケットを陽菜子へかける。
「こちらを使ってください」
神崎は寺内を見ずにジャケットを突き返した。
「はいはい。」
寺内は呆れたようにジャケットを受け取った。
「春宮さん、こちらへ来てください。休養室へ行きましょう」
陽菜子の肩と腕へ優しく手を添え、陽菜子を休養室へ連れていった。
立ち去る直前、神崎は寺内へ短く視線を向けた。
寺内はその意図を察したように、わずかにうなずく。
その背後で、逃げようとした白石へ寺内が声をかけた。
「白石ちゃん。話はまだ終わってないからね」
営業部の近くにある休養室は、昼休みの時間だったためか、誰も使っていなかった。
部屋の中には、神崎と陽菜子の二人だけだった。
神崎は休養室の棚に置かれていた、応急処置用の未使用のタオルを取り出した。
陽菜子の正面に立ち、濡れた髪の毛を丁寧に拭いた。
「ちくわくん…ありがとうございます。」
「いえ…」
(二人きりになると、ちくわくんって呼んでくれる!陽菜子さんがつけてくれた、俺だけの特別なあだ名で…いや、今はそれどころじゃない。)
「陽菜子さん、大丈夫ですか?火傷とかしてないですか?」
「大丈夫ですよ。ズボンにシミができちゃっただけです。」
陽菜子は安心させるように、へらりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、神崎の感情があらわになった。
「大丈夫じゃないですよ! 熱いカレーが足元へ落ちたんですよ? もし少しずれて、肌へ直接かかっていたら……っ」
神崎は言葉を止めた。
自分が必死になっていることに気づき、口を閉ざす。
「…私のために心配してくれたんですか?」
「…っ。」
神崎の顔が、恥ずかしさでみるみる赤くなっていく。
そんな神崎を見つめ、陽菜子は柔らかく笑った。
「心配性なところ、私の犬のちくわくんと一緒だ。」
犬と一緒にされた神崎。神崎は一瞬だけ複雑そうな表情を浮かべた。
けれど、陽菜子が嬉しそうに笑っているのを見ると、犬と同じ扱いをされたことなど、どうでもよくなった。
(陽菜子さんが、俺を見て笑ってくれている )
「…それだけで幸せです。」
最後の言葉は心の中で言ったつもりだったが、口から出ていた。
はっと口元を抑える。
「え?」
不思議そうな顔で見る陽菜子。真っ赤になる神崎。
神崎は、濡れた陽菜子の髪を見つめた。
白石に向けていた怒りが、再び胸の奥から込み上げてくる。
けれど、陽菜子を怖がらせないように、その感情を必死に押し込めた。
「……陽菜子さん」
神崎は濡れた髪を、壊れ物に触れるように優しく拭いた。
「俺がそばにいます。あなたが営業部にいる間、ずっと」
神崎の手に、わずかに力がこもる。
「もう、誰にも傷つけさせません」




