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冷徹営業トップは私の限界オタクでした  作者: アル


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第25話「もう、『ちくわくん』と呼ぶのはやめます。 」

恋人になった翌日。

神崎は普段なら数分で決める服装に、今日だけは一時間以上かかっていた。


(陽菜子さんとの初デート……。)


映画へ行ったことはある。

二人で食事をしたこともある。

雨の日には相合傘までした。


だが、今日は違う。


(恋人としての、初デート……!)


神崎は鏡の前で顔を覆った。


「……無理だ。もう緊張してきた。」




そして、待ち合わせの時間――。


「ちくわくん、お待たせしました。」


待ち合わせ場所でそう声をかけてから、陽菜子はふと固まった。


――ちくわくん。


昨日までは何の違和感もなかった呼び方なのに。

恋人になった途端、少しだけ不思議に感じる。


神崎は、二人きりになると『春宮さん』ではなく『陽菜子さん』と呼んでくれる。」


(私だけ、ずっとちくわくんでいいのかな……?)



二人が向かったのは、六月になると色とりどりの紫陽花が咲くことで有名な公園だった。

園内へ入ると、遊歩道の両脇には青や紫、淡い桃色の紫陽花がずらりと咲いている。


「わぁ……きれい。」


陽菜子は思わず足を止めた。

丸く咲いた紫陽花へ顔を近づけ、嬉しそうに眺める。


「ちくわくん、見てください。この紫陽花、すごく綺麗ですよ。」


「はい。」


神崎は答えたものの、その視線は紫陽花ではなく陽菜子へ向いていた。


挿絵(By みてみん)


「……ちくわくん?」


「はい。」


「紫陽花、見てます?」


「見ています。」


「私のこと見てません?」


神崎は少しだけ黙った。


「……すみません。陽菜子さんが可愛くて、そちらばかり見ていました。」


「もう。」


陽菜子は呆れたように笑った。


「せっかく紫陽花を見に来たんですから、ちゃんと見てください。」


「努力します。」


「努力なんですね。」


陽菜子がくすくすと笑う。

そんな笑顔を見た瞬間、神崎の胸がまた大きく跳ねた。


(恋人……。この人が、俺の恋人……。)


昨日までは、隣を歩けるだけで幸せだった。

今もそれは変わらない。

けれど、今日からは少しだけ違う。

陽菜子の隣を歩いていても、もう『推し』と一緒に出かけているのではない。

恋人として、隣にいる。

そう考えるたびに、神崎はどうしても頬が緩みそうになった。


「ちくわくん、こっちにもありますよ」


少し先を歩いていた陽菜子が振り返る。


「……はい!」


神崎はすぐにそのあとを追った。

一通り公園を歩いたあと、二人は近くにあるカフェへ入った。

窓際の席へ向かい合って座り、陽菜子はアイスティー、神崎はアイスコーヒーを注文する。


「結構歩きましたね。」


「疲れていませんか?」


「大丈夫ですよ。楽しかったです。」


陽菜子が笑う。


「ちくわくんは?」


「最高でした。」


「紫陽花が?」


「陽菜子さんとのデートがです。」


あまりにも即答だった。

陽菜子の頬がじわりと熱くなる。


「……そういうこと、普通に言うんですね。」


「事実ですので。」


神崎はいたって真面目な顔をしている。

陽菜子は困ったように笑いながら、ストローでアイスティーをかき混ぜた。

そのとき。

ふと、朝から何度も気になっていたことを思い出す。


――ちくわくん。


今日も、何度その名前を呼んだだろう。

今までは何の違和感もなかった。

むしろ陽菜子にとって、とても大切な呼び方だった。

亡くなった愛犬に似ていたから、何気なくつけた名前。

けれど今、目の前にいる人は――。

愛犬に似ている誰かではない。

自分が好きになった、神崎紅夜という一人の男性だった。


「……ちくわくん。」


「はい。」


陽菜子は少しだけ迷ってから、神崎を見た。


「あの、私……そろそろ『ちくわくん』って呼ぶの、やめようかなって思ってるんです。」


神崎の表情が固まった。


「…………え?」


明らかにショックを受けている。

陽菜子は慌てて両手を振った。


「あっ、嫌になったとかじゃないですよ!」


「……そうなんですか?」


「もちろんです。」


陽菜子は少し困ったように笑った。


「『ちくわくん』って、私にとってすごく大切な呼び方なんです。」


神崎は黙って陽菜子の言葉を聞いている。


「でも……。」


陽菜子は少し照れくさそうに視線を落とした。


「神崎さんは、二人きりのとき『陽菜子さん』って呼んでくれるじゃないですか。」


「はい」


「だから私も、下の名前で呼んでみたいなって。」


神崎の目がわずかに見開かれる。

陽菜子は恥ずかしそうに指先を組んだ。


「今はもう、ちくわくんに似てる人だから好きなんじゃなくて……。」


一度、息を吸う。


「神崎紅夜さん本人が、好きなので。」


「…………。」


神崎は完全に固まった。

耳が、みるみる赤くなっていく。

陽菜子はそんな神崎を見ながら、小さく笑った。


「だから……紅夜くんって呼んでもいいですか?」


「…………。」


返事がない。


「ちくわくん?」


「すみません。今、心の準備をしています。」


「呼ぶだけですよ?」


「俺にとっては重大事項です。」


神崎は胸元を押さえ、大きく息を吸った。


「……どうぞ。」


陽菜子もなぜか緊張してしまい、少しだけ姿勢を正す。

そして。


「……紅夜くん。」


神崎の肩が大きく跳ねた。


「っ……!」


片手で口元を覆い、そのまま俯く。


「だ、大丈夫ですか?」


「もう一回お願いします」


「え?」


神崎は顔を上げた。

耳まで真っ赤だった。


「今の、もう一回だけお願いします。」


陽菜子は思わず笑った。


「紅夜くん。」


「…………無理です。」


神崎は両手で顔を覆った。


「恋人になった実感が一気に押し寄せてきました……。」


「ふふっ。」


陽菜子は楽しそうに笑う。


「じゃあ、これからは紅夜くんって呼びますね。」


「……はい。お願いします。」


少し間を置いて、神崎が小さく付け加える。


「ただ……。」


「?」


「たまには、ちくわくんとも呼んでいただけると嬉しいです。」


陽菜子は目を瞬いたあと、柔らかく笑った。


「もちろんです」


『ちくわくん』は、大切な思い出から生まれた特別な名前。

そして今日からは。

『紅夜くん』という、恋人だけの新しい呼び方が増えた。


ここまでお読みいただきありがとうございます!

これからも毎日更新していきます。「面白い!」「続きが気になる」と思ってくださったら、ページ下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、毎日の執筆の大きな励みになります!

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