EP 7
統合幕僚監部的「防衛計画」
深夜のビルマ方面軍・第15軍司令部。
じめじめとした熱帯の夜気の中、司令官室の窓からは、ジャングルの不気味な虫の音が絶え間なく響いていた。
卓上に広げられた巨大なビルマ・インド国境の地図。
その上に、ランプの薄暗い灯りに照らされた坂上(牟田口)の巨体が前傾姿勢で覆い被さっている。
手元には、例の「焦げた木の実の煮汁」が入ったマグカップ。冷え切ってさらに泥めいた味になったそれを一息に呷り、坂上は脳のエンジンをレッドゾーンまで回した。
(……チンドウィン川からの距離、約300キロ。標高2000メートル級のアラカン山脈。しかも、道幅は獣道以下)
坂上の両目に映る平面の地図が、現代のイージス艦のCIC(戦闘指揮所)のモニターに映し出される「3D戦術マップ」へと変換されていく。
等高線が隆起し、河川が立体的にうねる。
絶望的な地形だ。ここを大軍で、しかも徒歩で越えようなど、正気の沙汰ではない。
(大本営の阿呆どもは、この山脈を「地図上の数センチの線」としか見ていない。だが、現実は巨大な肉挽き機だ。普通に進めば、全軍の9割が餓死か病死、あるいは崖からの滑落で消滅する)
坂上は、太い鉛筆を握り直し、地図上に幾つかの『点』と『線』を力強く書き込んだ。
史実の牟田口廉也が描いたのは、「インパールへ向けた三方向からの猪突猛進」である。
だが、今の彼が描いているのは全く違う。
現代の防衛大綱や、統合幕僚監部が有事の際に想定する**「遅滞防御(敵の進撃を遅らせながら出血を強いる戦術)」と「キルゾーン(重火器を集中させた殲滅地帯)の構築」**だ。
(目的をすり替える。インパールを『占領』する必要など微塵もない)
坂上の唇の端が、暗闇の中で凶悪に吊り上がった。
(英軍の司令官スリムは、補給線を重んじる極めて真っ当な将軍だ。ならば、奴の強みを逆手に取る。……我々が山を越えるのではなく、山の手前で強固な陣地と補給網を築き、英軍をジャングルに『誘い込む』のだ)
補給線が伸びきるのは英軍の方だ。
そして、雨季が到来すれば、ジャングルは泥の海と化し、戦車や装甲車を主体とする英軍の機動力は完全に死ぬ。
そこを、軽歩兵主体の日本軍が地の利を活かして局所的に叩く。
――勝てる。いや、少なくとも「全滅」だけは絶対に避けられる。
作戦の骨子は固まった。
だが、ここで最大の問題が立ちはだかる。
この「極めて消極的で、かつ合理的な防衛作戦」を、血の気の多い大本営やビルマ方面軍上層部が認可するはずがないのだ。彼らが求めているのは「大英帝国を打ち破る、皇軍の華々しい大進撃」というファンタジーである。
「……フッ。おとぎ話が欲しいなら、くれてやる」
坂上は、官給品の粗末な便箋を引き寄せた。
ここからが、市ヶ谷(防衛省)の防衛計画部で、数多の予算案や防衛大綱を財務省や政治家相手に通してきた「エリート官僚・坂上真一」の真骨頂であった。
霞が関や市ヶ谷の役人が使う魔法の技術。
それは、「勇ましく、上層部が喜ぶ言葉」を表面に散りばめながら、実態としての権限や行動の自由を現場に残す**『霞が関文学(稟議書のレトリック)』**である。
坂上は、万年筆を猛烈な勢いで走らせ始めた。
『――本作戦ノ真ノ目的ハ、驕慢ナル英軍ヲインパールノ地ニオイテ完全ニ捕捉シ、皇軍ノ鉄槌ヲ下ス事ニ在リ。その為ニハ、徒ニ進撃シテ敵ヲ逃ガス愚ヲ避ケ、決戦場タルアラカン山脈周辺ニオイテ、敵ヲ誘致・殲滅スル「包囲反転ノ陣」ヲ敷クモノトス――』
(翻訳:インパールまでは行きません。山のこっち側で待ち伏せします)
『――尚、皇軍ノ猛烈ナル進撃ヲ支エル為、後方連絡線及ビ兵站拠点ヲ「前進陣地」トシテ強固ニ構築シ、以テ不抜ノ攻撃基盤ト為ス。各師団ハ、コノ「前進陣地」ノ構築ヲ最優先トシ、コレガ完了セザル場合ハ、次ナル飛躍(進撃)ヲ厳ニ慎ムベシ――』
(翻訳:補給所を作らない限り、一歩も前に進むな。陣地を作って引きこもれ)
『――モッテ、天佑神助ヲ確信シ、雨季到来ト共ニ泥濘ニ苦シム英軍ヲ一気ニ撃滅セン!!』
(翻訳:雨季が来たら両軍とも動けなくなるから、それまで陣地で耐え凌ぐぞ)
書き上げられた文書は、パッと見は「敵を完膚なきまでに殲滅するための、恐ろしく勇猛果敢な作戦命令」にしか読めない。
精神論を愛する大本営の参謀たちが読めば、「牟田口将軍はついに神懸かった!」と涙を流して喜ぶような、勇ましい単語(皇軍、鉄槌、殲滅)のオンパレードである。
だが、軍事的な命令の「実行条件」として読み解けば、「補給陣地が完成するまで進撃禁止」「敵を深追いするな」「拠点で待機せよ」という、極めて強固な遅滞防御命令にすり替わっているのだ。
「……完璧だ。俺の背中の予算書にかけて、この稟議は百パーセント通る」
坂上はペンを置き、凝り固まった首の骨をバキバキと鳴らした。
背中の仁王が、よくやったと笑っているような気がした。
翌朝。
目の下に深い隈を作った久野村参謀長が、坂上の執務室に飛び込んできた。
彼の手には、坂上が徹夜で書き上げた「作戦命令書」が握られている。その手は、ブルブルと感動に震えていた。
「か、閣下ァ……!!」
久野村は、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
「読みました……! なんという、なんという壮大な必勝の策! 敵をあえて誘い込み、皇軍の力で一網打尽にする! 兵站拠点の構築すら『前進陣地』と呼称し、全軍の士気を高めるお心遣い! 某、閣下の深謀遠慮に、心底震え上がりましたぞ!!」
(……よし、バカが一人釣れた)
坂上は内心のガッツポーズを微塵も顔に出さず、牟田口特有の傲慢な態度で、フンと鼻を鳴らした。
「当然だ。俺を誰だと思っている。大本営の机上の空論など、この牟田口の必勝の信念の前には赤子同然よ」
「ハッ! 直ちにこの命令書を、方面軍と総軍、そして大本営へ打電いたします! これならば、誰も文句は申しますまい!」
意気揚々と部屋を出て行く久野村の背中を見送りながら、坂上はマグカップの底に残った泥のような汁を飲み干した。
(まずは第一関門突破だ。書類上の『決裁』は下りる)
だが、本当の戦いはこれからだ。
ジャングルの整備、物資の集積、そして何より、現場の兵士たちの意識改革。
現代の海上自衛隊が誇る「鉄壁のアーキテクト」が、昭和の密林に「死なないための要塞」を築き上げる、孤独で過酷な土木作業が始まろうとしていた。




