EP 10
鉄パイプとプレイヤーズ(金曜日のカレーと、ただの男)
昭和20年代後半。
焼け野原から驚異的なスピードで復興を遂げ、高度経済成長への助走を始めた日本。
GHQの占領政策は終わりを告げ、新憲法と「自衛隊」という名の盾を持ったこの国は、アメリカの属国ではなく、対等なパートナーとしての道を歩み始めていた。
だが、その歴史の裏側で、大英帝国を降し、大本営を物理で制圧し、原爆を叩き落としてGHQの最高法規すら書き換えた「牟田口廉也」という男が、その後どうなったのかを知る者は少ない。
彼は新憲法が公布された直後、すべての役職を辞し、忽然と歴史の表舞台から姿を消したのである。
* * *
東京近郊の、海が見える小さな港町。
利便性の良い駅裏に建つ、飾り気のないシンプルな一軒家。
そこには、かつての「権力の頂点」とは無縁の、極めて効率的で静かな暮らしがあった。
「……おい、焦げ付くぞ。火を弱めろ」
小さな台所で、軍用外套ではなく、着慣れたよれよれのシャツを羽織った巨漢――坂上真一が、タバコを咥えながら鍋の中身を木べらでかき混ぜていた。
「分かってますよ。閣下の……いえ、坂上さんのレシピ通り、ジャガイモと玉ねぎは大きめに切ってありますから」
隣でエプロン姿の雪川美奈子が、クスクスと笑いながら皿にご飯をよそっていく。
鍋の中でグツグツと煮込まれているのは、カレーだ。
高級な食材など使っていない。肉と野菜、そして月に一度まとめて買い出している日持ちのするスパイスで作った、極めてシンプルで無骨なカレーライス。
「……今日は金曜日だからな」
坂上は、出来上がったカレーをご飯の横に無造作にぶっかけ、食卓に運んだ。
元・呉の暴走族総長。
元・海上自衛隊イージス艦長。
元・防衛省J5(統合幕僚監部防衛計画部)のエリート官僚。
三つの顔を持ち、三つの地獄(修羅場)を潜り抜けてきた男。
だが、彼にとって「金曜日の昼にカレーを食う」という海自時代からの習慣だけは、どれだけ時代が激変し、歴史が書き換わろうとも変わらない、自分自身の「原点」であった。
「いただきます」
美奈子と向かい合って座り、スプーンでカレーをすくう。
派手な味付けはないが、スパイスがガツンと脳を刺激する、合理的で完璧なカロリーの塊だ。
「……うん。美味い」
「ふふっ。世界を相手に喧嘩を売った人が、カレーライス一つでそんなに幸せそうな顔をするなんて、GHQのケーディスさんが見たら卒倒しますよ」
美奈子が、自分の分のカレーを食べながら目を細めた。
「世界なんざ、もう俺の知ったことじゃねぇよ」
坂上は、あっという間に皿を空にすると、食後のコーヒーを淹れるために立ち上がった。
かつて背中に宿っていた『阿吽の仁王像』の殺気は、今はもうない。
彼は、自らが構築した「自衛隊」というシステムが、ソ連の脅威に対する防波堤として機能し、ベアテの残した「人権条項」が新しい日本の若者たちを縛りから解放していくのを、ただの一般人として新聞の片隅で確認するだけだ。
政治の泥被りも、権力の椅子もいらない。豪華客船での世界一周のような贅沢より、手の届く範囲で機能的に完結する、この「シンプルで手間のない生活」こそが、坂上にとっての究極の報酬であった。
シュンシュンと沸いた湯で、濃いめのブラックコーヒーを淹れる。
マグカップを持ち、縁側に腰掛けた坂上は、ジッポライターで『プレイヤーズ』のタバコに火を点けた。
「……終わったな」
深く吸い込んだ紫煙を、秋の高く澄んだ空に向かってゆっくりと吐き出す。
大日本帝国という巨大な不良債権の処理。
それは、気が遠くなるほど面倒で、血生臭い作業だった。だが、やり遂げた。
今はただ、波の音と、美奈子の淹れてくれたコーヒーの苦味、そしてタバコの煙だけが、彼の時間を静かに満たしている。
「……坂上さん。お茶碗、洗っておきますね」
台所から聞こえる美奈子の声に、坂上は片手を上げて応えた。
玄関の土間。
そこには、インパールの泥濘から大本営の会議室、そしてGHQの目の前まで持ち歩いた、あの『赤錆びた鉄パイプ』が、傘立ての中に無造作に突っ込まれていた。
もう二度と、この鈍器が血を吸うことはない。
この国には、もう「理性の化け物」の暴力は必要ないのだから。
海風が吹き抜ける。
タバコの煙が空に溶け、元ヤンキーにして最強の防衛官僚は、ただの「坂上真一」として、穏やかな午後の日差しの中に目を閉じた。
(完)




