3.ミリアムとビッグメン
廃車の山を横目、卑猥な露店の灯りが続く。
木造バラックひしめくスラム街は塔のように高く、わずかに覗く曇天が空に蓋となっていた。それでも奥まった所は歓楽街のようにぎらついている。怪しげな店や売春宿に引き寄せられるかのように、小汚い者と妙に小奇麗な者が夢遊病者のようにうろついていた。
ゴミ捨て場や小さな畑を過ぎ、ちょっとした広場に出る。見たこともない動物が乱雑に売られているのを横目、散らかる注射器やゴミを蹴り、怪しげな屋台を過ぎた。かつては商店街であっただろうそこの看板は、いずれもゴミにゲロをぶっかけたように廃れている。
エレナはかかる声かまわず、必死に駆け抜けた。迷路のように入り組んだそこで迷わなかったのは、およそジュリア発であろう喧騒に人だかりがそぞろに向いていたからだ。
少し奥まった道を過ぎ、ちょっとした通りに出たエレナは息を切らし、周囲を舐めるように見渡す。けっこう走ったのだろう、曇天もあってあたりはすっかり夜の色だった。
エレナがふと遠目、石造りのねずみ色の橋に目をこらす。石橋の手すりでほんの一瞬、緑の髪が掠めるように見えた。
(見つけた! ジュリアの髪!)
とっさに駆け出そうとした瞬間だった。背後から何者かに腕を掴まれ、エレナは投げ飛ばされるように通りの暗闇に引きずり込まれる。とたん声をあげる間もなく口を塞がれ、とんでもない力で壁に組み抑えられた。
エレナはその正体に目を見開いた。ツンツンのハネッ毛の茶髪が目立つ、今時のチャラそうな若者……ゴハンだ。
どうしてここに、と訊ねようにも口が塞がれ声が出ない。すぐにエレナがさっきまでいた場所から数人の声が上がった。
「あー! くそッ。金髪女、見失った!」
「だからとっととヤッちまえばよかったんだよ~もったいねー」
続く爆笑と耳にするもはばかる内容の会話に、エレナは一気に血の気が引いた。ゴハンと目が合い、涙目になる。ゴハンは承知に頷いた。
喚く声が遠ざかり、やがて消えた頃……。ゴハンが気抜けに力を抜き、尻もちをつくエレナを立たせた。
「……コラ、この約束やぶりチャンめ」
ゴハンがエレナのおでこを小突く。「調査中に見かけたからいいものの、どうして来たのー? 危ないって言ったろ?」
「ジュ、ジュリアがッ……」
エレナは言いかけるも、喉に焼けた石が詰まった感覚に言葉も詰まり、息苦しくなる。言葉が続かなかった。
〔そのMIBとかいう2人組の男、信用していいの?〕
ジュリアの言葉が頭を掠める。それでもこの状況では、ゴハンの存在はありがたかった。
(そうだ、泣いてる場合なんかじゃない)
エレナは唇を噛み、自然と溢れていた涙をこらえる。
その時だった。ざわつく喧騒がいっそう大きくなった。橋の方で派手に何かを叩き割る音と悲鳴があがる。ゴハンが何事かと見やった。遠くの石橋で騒ぎがあるようだ。エレナは胸いっぱいに大きく息を吸い、顔を上げた。涙をこらえた意を決した顔つきに、ゴハンが一瞬息を飲む。
「ゴハン、力を貸して!」
★
石橋の下は墨を流したかのように暗い川が流れていた。そこに鏡のように映るは、ぎらつく電飾たち。焼けそうなほど灯り照らされた石橋で、大きく弧を描くギターがストライクをかまし、悲痛な叫びが叩き潰される。
執念の追跡者ジュリアに命を断たれたチンピラ、もといエイリアンが苦痛にうめき事切れた。
周囲の傍観者達は嬉々に見る者、賭け事を始める者、そして恐怖におののく者がひしめき、ひたとジュリアを見つめている。
ジュリアは頬にかかった血をぬぐい、ため息をひとつ顔を上げた。傍観者達が電流をあびたかのように硬直する。
ジュリアは声を大に周囲に告げた。
「10年前……【北条家虐殺事件】に関与した、白いスーツの男の情報を知ってる奴はいる?」
囁き声が寝返りをうった程度で、それ以上反応はない。ジュリアは構わず続けた。
「ここに白いスーツの男がいるのは割れてるのよ。出てくるまでここにいるクズ共全員を叩き殺せばいいのかしら」
ジュリアの言葉にかぶせるように、余裕に満ちたゆったりとした拍手が1つ響いた。
ジュリアはギターを握り直す。拍手は小さく消え、逆に気味悪い程の沈黙が静寂を演じた。緊張が空気をピリつかせる中、拍手の主は突然、闇からわいたように廃ビルの隙間から姿を現わした。
闇から現れた【白いスーツの男】に、ジュリアが奥歯を噛む。
【白いスーツの男】は2人いて、細っこい男と巨大な男がジュリアを見据えた。ジュリアは射抜くように睨み返す。
細っこい男はゆったりとした面持ちで立ち止まった。
「自己紹介をさせてくれ」
そう軽く片手をあげ言った。
「俺はミリアム。で、このゴツいのが……」と 隣の巨大な男を親指でさし「ビッグメンだ」
ジュリアは不動に白いスーツの2人を舐めるように視た。細っこい男、ミリアムはその仕草も相まって長いブロンドの髪がいかにもナルシストのようだ。ナイフで切ったような口は冷ややかな笑みをたたえている。
大きい男、ビッグメンはミリアムとは正反対だった。丸坊主に筋肉質で、2mはあろうかという巨体。ただひどく醜男だ。ビッグメンの大きく見開かれた両目は真っ赤に血走り、口からは唸声とともに涎と血が溢れている。
ジュリアの見解では2人とも、まごうことなくエイリアンだ。それも、やっかいな方の。
「北条ジュリア、お前の事はよ~く知ってるぜ。北条家虐殺事件も、白いスーツ男についてちょこまかと嗅ぎまわってる事もなァ」
ミリアムはおちょくったような口調で一歩 歩み寄り、手を前に出してカッコつけた。その手のなんと薄いこと。
「北条家虐殺事件の犯人を探してるんだろ?」
その言葉にジュリアが一瞬、目を見開いた。血生臭い空気が肺の奥でうねるような感覚に、重く震える息を吐く。
「……貴方、何が目的なの」
…
一方、エレナ。
川沿いの通りを駆け、息を切らしたエレナは、石橋でギターを構えるジュリアを捕らえた。駆けだそうも、ジュリアに対立する人影に思わず踏みとどまる。群集が大きく避け石橋のへりにくっつく中、その男達は悠々とジュリアと対峙していた。
(あっ、あれは白いスーツの男……!?)
エレナは対岸の廃ビル屋上で様子を伺うゴハンを見た。ゴハンが指でレンズの仕草を返す。それを合図にレンズをかかげ、ジュリアと対峙する白いスーツの男達をみた。
おだやかにゆらめく虹色の先……白いスーツの男達は、スリガラス越しのように霧がかって見える。
(……あの白いスーツの2人、エイリアン? ……なのかな)
それは、昼間に見たジュリアの下腹部の霧に似ていた。
対面するジュリアは動かない。まるで魔法にでもかかったように、白いスーツの男を見ている。
白いスーツの男ミリアムは、余裕めいた仕草でジュリアに声をかけた。
「俺はおあずけが大嫌いでなァ。目的はただひとつ。お前だよ、北条ジュリア」
余裕めいた口調で両手を胸にあて、まるで役者のような立ち振る舞いで続けた。
「そっちから来てくれたんだ、俺はいつでも取引に応じるぜ、いつでもだ。なんなら今だっていい。お前の胎の中、器であるお前を何年も何年も大~事に見守ってきたんだ。大切に扱うさ」
言って、囁きに目を細める。
ジュリアはその言葉に毛を逆立てた。手のギターがその力に応えるように軋む。胎の中でうごめく何かの胎動が、応えるようにうねった。
「……会いたいんだろ、【北条家虐殺事件】の真犯人に」
囁くミリアムの瞳は、狙いを定めた野獣のそれだ。
「その話ちょっと待ったーッ!」
響く声に群集もジュリア達も何事かと振り返った。その先から1人、金髪の少女エレナが、ジュリアが潰したチンピラに変な悲鳴をあげながらも猛ダッシュで2人の間に入り込む。
「エレナ!?」
驚くジュリアの両肩をエレナが掴む。呼吸を落ち着かせる間もなく、ひとつ咳き込みんでジュリアに目線を合わせた。綺麗な新緑色の瞳がジュリアを真っ直ぐ射抜く。
「ジュリア、いい人間もいれば悪い人間もいるように、エイリアンもきっとそのはずよ。さっきのエイリアン、指輪をつけていたの。恋人が……いいえ、家族がいたかもしれないわ。そりゃ確かに柄はよくなかったけど、地球で暮らしていただけかもしれないの。だからダメよ、無闇に殺めちゃだめなのよ。だってそれは、ジュリアの見えない心の傷になるんだもの」
真面目くさった内容にジュリアが〔だからどうした〕といわんばかりにげんなりと目を細めた。
「あのね、エレナ……今はそれどころじゃ」
「帰ろう、ジュリア。こんな所ジュリアには似合わないよ。一緒にご飯食べたり、出かけたり、いっぱい楽しいことしようよ……!」
「エレナ」ジュリアがすっぱ切る。
「……10年前の北条家虐殺事件、知ってるでしょ。白いスーツ男がエイリアンを使って虐殺したの。あの生き残りが私で、あいつはその手がかり。邪魔しないで」
それにエレナは合点した。ジュリアがなぜエイリアンを虐殺するのか……。それは、家族を殺した白いスーツ男への仇討ちだったのだ。
ジュリアもまた、被害者だったのだ。
それなのに、白いスーツ男に手に今こうしてゆだねられようとしている。ジュリアらしくない必死さが悲しくも、滑稽に見えた。
「わかったらすっこんで。貴女には関係ないの。とっとと帰りなさい……」
ジュリアは眉をひそめていた。
エレナにではなく、胎の中でうごめく何かが、エレナが登場してからやたらと中をかき回していたからだ。
エレナは唇を噛んだ。立ち直り、ポケットに手をつっこみミリアムを睨みつける。
「そこの白いスーツ男さん、ジュリアを一体どうする気?」
「エレナ……!」
ジュリアが噛み潰すように吠える。胎の中でうごめく何かが暴れる。妙な冷や汗がこめかみに筋をつくった。
「だって、こいつも白いスーツ男じゃないの。片方あきらかやばそうよ、ジュリアの家族をめちゃめちゃにした奴らなのよ? まともな取引するわけないじゃない。」
言って、まっすぐにミリアムとビッグメンを睨みつける。
「……ジュリアをどうする気か答えなさいよ! それとも、答えられないような事する気?! そんなの絶対に許さないんだから!」
ミリアムが糸を切ったように手をおろし、わざとらしいため息をつく。
「あーッなんだよクソ女、いいとこ邪魔しやがって!」
そこにジュリアも加勢する。
「エレナ、私が何年この時を待ってきたか、貴女にわかるわけがないの。どきなさい」
エレナは頑として首を縦には振らなかった。その目は怒りに燃えている。
「いいえダメよジュリア。こんな奴らにあなたをくれてやるもんですか」
それを皮切りに、しびれをきらしたミリアムが大股でエレナに迫りよる。気付いた時には髪を鷲掴まれ、エレナはまるでウサギの捕獲のように掴み上げられた。
「ぃっ……!」
エレナはそれでも負けじと睨みつけた。ミリアムがフンと鼻を鳴らす。
「黙れよクソ女。お前も一緒に連れてってやるよ、そしたら満足だろ?」
ミリアムは言って、棒立ちの大男、ビッグメンを顎で呼ぶ。とたん、ジュリアが弾けたように声をあげた。
「離して! その子は関係ないでしょ!」
ミリアムが悪意ある笑みを落とす。懐から抜いた銃口はエレナに向けられていた。
「この女……エイリアンがどうとか言ってたなァ? 無関係なわけないだろ」
ビッグメンはヨダレを垂らしながらエレナを受け取り、犬のようにエレナの体中に鼻をヒクつかせた。エレナが目いっぱい蹴りをくらわすも、ビッグメンはまるで丸太のようだ。
「おっ……ッおぉお……みりッあむ、ミリアム! 喰っていいァ?」
舌足らずにうめくビッグメンの頭は、水袋のようにうごめいている。それにミリアムは余裕の笑みを曇らせ、ビッグメンに舌打ちをした。
「テイクアウトだ、ビッグメン。これ以上ここを荒らしてもサツに流す金が増えるだけだ。喰うのは壊れてからだ、時代はエコだぜ」
ミリアムの視線が離れたエレナがそっと、腰の後ろホルダーからペンライトを手に滑り込ませる。
「ジュリア、一緒に犯人を探そ。もう1人じゃないの、私がいるわ」
エレナのその言葉に、ジュリアが歯がゆげに奥歯を噛む。エレナは笑顔を返し、ミリアムを睨みつけ声を張り上げた。
「ジュリアはわたしの大事な友達よ、これ以上あんた達に傷つけさせないわ!」
エレナが大きく手を上げる。それを合図に乾いた銃声が響いた。同時、ミリアムの手が弾け銃が地に落ちる。
群集が驚きに蜘蛛の子を散らし、エレナはその瞬間、レンズごしにミリアムにペンライトの光を向けた。
それはまるで雷光のように、まさに一瞬のことだった。太陽光で紙が燃えるのを超倍速したかのように、ミリアムの皮膚がたちまち赤黒く広がる。とたん予想以上の大絶叫がスラム街を引き裂いた。
ミリアムは虹色の光の当たった顔を両手で覆い 喚きながら2、3歩後ろによろめいた。その指の隙間から下痢便のように爛れた肉が流れおち、鼻につんとくる異臭があたりに充満する。
エレナは、それを呆然と見るビッグメンにも虹の光を向けた。少し震えたビッグメンの頭はショットガンをくらったスイカのように大爆発し、壊れた排水管のように血が噴出する。
ぐらつくビッグメンの巨体をめいっぱい蹴ったエレナは、情けなくわめくミリアムを付き飛ばし、ジュリアの手をとった。
「逃げるよ!」
言ってそのまま矢のように、逃げ惑う群集を抜けバラックの闇へと走る。背後からミリアムの怒号が聞こえたが、エレナ達は必死に走った。
★
「あぁあぁああ~、ビッグメン……何てこった、ビッグ~!!」
焼けただれ、まぶたというカーテンをなくしたミリアムの目玉から、大粒の涙が溢れた。海面のような皮へと変貌した皮膚から、膿や体液がだらしなく溢れ出ている。だが、ミリアムにとってそれはどうでもよかった。
「……俺の唯一の友達……ッ」
ミリアムはビッグメンに跪き、まるで神の足に接吻するかのように、吹き飛んだ首もとに口づけた。拳を割れんばかりに握りしめ、怒号と嘆きを空に吠える。
「くそ! ぶっ殺してやる! クソアマめ!!」
★
追手の影はなかった。
角を曲がり、石坂をくだり……エレナが闇雲に爆走していると判断したジュリアは「待って」とその手を引き止める。
エレナが肩を上下させ振り返った。振り返って、2人とも力が抜けたように薄汚い路地にへたりこむ。
バラックの隙間の入り口は遠く、冷えた地面が火照った身体に心地よかった。
「……ほんと、ばか……チャンスだった、のに」ジュリアは独り言ち、壁に背をあずける。
「何、あのレンズの威力……」
「ごめ……」
呼吸にあえぐエレナはそれ以上声が続かなかった。酸素を求める肺が熱い。全力でこんなに走ったことはなかった。
大きく深呼吸した2人は、はたと見合った。
「……ジュリア、もうあんな危険な賭けをしないで。私、ジュリアが傷つくのは見たくない」
ジュリアは応えなかった。そのままややためらいがちに手を伸ばし、そっとエレナの髪に指を流す。ミリアムに掴まれた髪は、細くやわらかく、はじめて受けた暴力に乱れていた。
心の奥でまた何かがくすぶる。ジュリアはそれ以上どう言ったらいいのかわからなかった。はじめて黒猫チビに懐かれたときのようだった。
そんなとき、喧噪遠いバラックでふとチャラい声が闇から響く。
「合図遅すぎっしょ~」
その声に2人は顔を上げ、暗闇に目をこらした。いつからいたのだろうか、ゴハンが室外機に腰掛け、のんびり足を組んでいたのだ。2本指を立てた挨拶と人懐っこい笑顔まま歩み寄る。
「オッス! オラ、ゴハン! な~んちゃって」
それにジュリアが文句ありげにエレナを睨む。エレナは苦笑を返すしかなかった。ふとエレナと違う浅い呼吸に、エレナがふと目を皿にする。ジュリアの額に脂汗が流れている。
「……大丈夫? ジュリア、どうしたの?」
「いつもの、発作……」
ジュリアは言って、苦しげに呻いた。まるで陣痛に苦しむ妊婦だ。エレナとゴハンが見合った。見合って、とっさにゴハンが跪き、ジュリアの額に手を当てる。その額は氷のように冷たく、脈は猫のように早鐘を打っていた。顔面蒼白で、視線も定まらない。ショック症状のそれに似ていた。
「こりゃ早く医者に診せないと」
「かかりつけがあるから……」とジュリア。
「どこだ?」とゴハン。
「……聖イルミナ医院……」
ジュリアは言って、そのまま地に崩れた。腹部を押さえ、苦渋に丸く震える。ゴハンはジュリアをそっと抱き上げた。ジュリアのギターを担いだエレナと見合い、互いに頷く。
まばらになった曇天はいつの間にか風に消え、ダイヤモンドの粒のような星々が街を見下ろしていた。
★
夜を切り落とした光のようにそびえ立つ聖イルミナ医院は、世界的に有名な総合クリニックだ。
日進月歩の医学界とはいえ、ここ聖イルミナ医院ほど最先端をゆく病院はないだろう。まさに医学界の花形、大筆頭なのだ。
まるで巨大SF街のようなそこは、臆することなくスムーズにジュリアを受け入れた。
ジュリアを乗せたストレッチャーが救急治療室へと消える。それを見送ったゴハンとエレナは、胸をなでおろし待合室へと移動したのだった。
待合室はまるで未来都市の空港のように広かった。沢山の患者をよそに、様々な医師や看護師が忙しなく行ったり来たりしている。エレナが必要書類を記入している間、ゴハンは落ち着きなさげに腕を組んでいた。書き終わるや否や、ゴハンが「帰らない?」と妙にせっつく。
「ジュリアが心配だから、顔だけ見て帰るわ」とエレナ。
ゴハンは聞いているのかいないのか、適当に相槌をうつ。
「じゃあ悪いけど、俺はスラムの調査に戻るよ。エレナちゃんも遅くならないようにね」
ゴハンはそれだけ言って、そそくさと出て行ったのだった。
ゴハンの背を見送ったエレナは、青地に金糸の模様が入った柔らかいソファに腰をおとした。汚れた靴先をみて、苦しげなジュリアを思い出し不安に駆られる。
(どうかジュリアが無事でありますように……)
時計を見上げると、20時をとうにすぎていた。
★
ハンスの元にセリオン学園から連絡が入ったのは、それからすぐのことだった。なんでもエレナ・モーガンが行方不明とのことで、大騒ぎになっているそうだ。
昼休みにエレナと旧校舎に入った、というささやかな目撃情報からの連絡に、ハンスは違和感に受話器を耳に当てなおす。
『エレナさんが行きそうな場所に心当たりはないか?』
受話器越しでも担任が狼狽しているのが伝わる。背後のざわつく職員室の音に、ただごとではないとハンスは受話器に両手を添えた。
「いえ、エレナとは昼に少し話をしただけで、それ以上はありません。あの……エレナに何かあったんですか?」
聞きまとめるところ、エレナは帰宅途中に行方不明になったらしい。スマホも通じず、保護者から連絡が入ったそうだ。よくある話じゃないかと思ったが、学校側からしたらその保護者が動いたことが問題だそうだ。だからこそ事件があっては大事と、こんな騒動になっているらしい。
担任は『何かあったらすぐに連絡するように』と残し、通話はすぐに切れた。ハンスは切れた受話器を置き、ふとした。昼間のゴハンのセリフが頭をよぎる。
〔ハンス、リサさんの件は俺たちが調査を続けるよ。わかったことがあったら必ず報告する。
売人はマフィア系と繋がってる可能性が高いから、その間ハンスはリサさんに変わった訪問者が来ないか十分警戒してほしい。
もちろんハンスも、動くゼリーはここだけの話として胸に納めてくれ。売人の耳に届くと危険だ〕
──まさか。
慌ててゴハンに電話をかけるも通じず、ハンスはそのままジャケットを羽織り、飛び出すように自転車にまたがった。どうか勘違いであってほしかった。
(……もしかしたら、2人は調査中にトラブルがあったのかもしれない。だとしたら、俺のせいだ……!)
全力で自転車をこぐなか、ハンスはリサの笑顔を走馬灯のように思い出していた。自分がリサを止めていたら、そのままの君が大好きだと伝えていたら、リサはあんなことにならなかった。自分がゴハン達に相談しなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。リサの二の舞は二度とごめんだった。
最悪の自体が頭をよぎる。不安を振り切るように、ハンスは自転車を飛ばしたのだった。