夢蛤(終)
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「……京極、あれ以来ずっと学校休んでる」
「ふ~ん」
喫茶店で勇人の前に座った煉が、湯気の立つホットチョコレートにふうふうと息を吹きかけながら興味なさげに窓の外を見た。京極の一件から二週間程経つ。勇人が煉に会うのはあの日以来初めてだ。
「まぁ、あいつがこれ以上なんかするとは思えないけど、とにかくもう関わっちゃダメだよ。触らぬ鬼に祟りなし。俺もしばらくここには来ないつもりだし」
「……次はいつ来んの?」
勇人の問いに答えようとはせず、目を逸らせた煉が無言でずずず、とホットチョコレートを啜った。
「あの、失礼、塚乃護勇人君だよね……?」
背後からかけられた声に勇人が振り返ると、スラリとした優しげな男が立っていた。
「……篤志の兄の久志です」
思わず息を呑んだ勇人に向かって、久志が深々と頭を下げる。
「先日は兄弟二人して本当にお世話になってしまって……でもお陰で命拾いしました。本当にどうもありがとう。あの時はなんだかばたばたしてしまって、助けて頂いた御礼も言えなかったばかりか、名前まで聞きそびれてしまって本当に失礼しました。御迷惑かとは思ったんだけど、塚乃護君の名前は学校の方で調べて貰いました」
「え、いや、そんな、俺なんか全然……」
勇人がそっぽを向いてホットチョコレートを啜る煉にチラリと目をやった。
あの夜、京極の兄は狗神に右腕を喰い千切られた。しかし煉は狗神をどうするわけでもなく、勇人に救急車を呼ぶように言うと、後はただ無言で久志の傷を手早く止血し、気付け薬か何かを飲ませ、ついでに勇人の傷にも布を巻き直し、そして救急隊が到着する前にいなくなってしまった。翌朝焰狐が届けてくれた薬草と煉の作ったリストバンドのお陰か、たった十日程で勇人の腕の傷は僅かな跡を残しただけで綺麗に塞がった。しかし喰われた腕が元通りになることはない。
「……あの、もう出歩いても大丈夫なんですか?」
勇人がおずおずと訊ねると、久志がふわりと微笑んだ。久志の物腰は穏やかで、その微笑みは優しく、とてもあの京極と血が繋がっているとは思えなかった。二人の兄弟は、一体何故こんなにも違ってしまったのだろうか。
「ありがとう。君が届けてくれた薬のお陰で痛みも殆ど無いし、傷の治りも医者が驚くほど早くて」
あぁ、そりゃ俺じゃねぇわ。知らんぷりしている煉を再びちらりと見遣る。
「……あの、それで……」
煉の前で京極の事を訊くべきかどうかと迷い、僅かに口籠った勇人に向かって久志が再び頭を下げた。
「こんなことお願い出来る立場じゃ無いのは分かっているし、本当に申し訳ないんだけど、実は塚乃護君にどうしてもお願いしたい事があって」
勇人の目の端で、煉の眉がぴくりと動いた。
弟に憑いている狗神を祓って貰えないかと久志に頭を下げられ、勇人は必死に首を横に振った。
「いや、ホント、アレは俺なんかじゃ絶対無理です。あの狗神って見た目はイマイチだけど、怨念というか負のパワーが物凄いから、俺なんか近づくだけでヤバイというか」
「篤志、あいつ、毎晩うなされてて、全然眠れないみたいなんです。目も虚ろで、誰が話しかけても聞こえないみたいで。このまま放っておけば、あいつは死んでしまうかもしれない……」
憔悴し切った顔の久志が目に涙を浮かべて勇人を見つめる。
「家に一度来てくれるだけでもいいんです。篤志の状態を見て、俺がこれからどうするべきなのか教えてくれるだけでいい。本当に申し訳ないとは思うけど、他に頼れる人もいなくて……」
そこまで言われて無下に断ることが出来るほど、勇人の面の皮は厚くはない。
「……分かりました。様子を見るだけでいいなら」
勇人がそう言った途端に煉のこめかみに青筋が立ち、煉を取り巻く空気の温度が一気に十度位上昇した。
❀
煉は実に不機嫌極まりない顔をしつつ、しかし勇人の予想通り何も言わずに勇人と共に京極の家まで来てくれた。
「恐らく小次郎が篤志に取り憑いているんだと思う」
久志が護符の貼られた部屋の戸の前に立ち止まり、暗い表情で肩を落とした。
「と言っても、僕にはよく視えないんだけど。でも気配は感じるんです……あの時はよく視えたのにね」
部屋の戸を開けた途端、その隙間から霧のような瘴気が溢れでる。そっと中を覗き込んだ勇人は、思わず息を呑んだ。
カーテンを閉め切った暗い部屋の澱んだ空気がねっとりと躰に絡みつき、息を詰まらせる。そしてその澱みが凝縮されたような小さな影が部屋の真ん中で背中を丸め、膝を抱えて座っていた。
影の両腕には手首から肩まで血の滲んだ包帯が巻かれていた。影が何やらぶつぶつと呟きながら、血のこびり付いた小さなナイフで包帯の巻かれた腕に切りつける。鈍った刃では布すらも切れないのに、それでも幾度も幾度も、まるで何かの儀式の様に、ただひたすら刃をあて続ける。勇人達が部屋に入ってきたことにすら気付かないのか、顔を上げようともしない。
ふ、と部屋の空気が動き、影がびくりとして顔を上げた。
澱んだ空気が渦を巻き、狗神が現れた。尻で這いずるようにして部屋の隅へ逃げようとした京極の前に立ちはだかった狗神が、喉を震わせ長々と遠吠えする。次の瞬間、狗神の鼻面が歪み、形を変え、鋭い嘴となり、その背に黒い翼が生えた。バサリと羽ばたいた翼が風を巻き起こし、京極の頬を切り裂く。瘧に罹ったように震える京極を睨む狗神の瞳孔が猫のようにすっと細くなり、ごろごろと喉を鳴らしたかと思うと突如嘴を大きく開け、真っ赤に血濡れた牙を突き出すようにしてシャシャシャ、と嗤った。
狂ったような悲鳴を上げる弟を久志が落ち着かせようとして抱き締めた。逃げようと藻掻いた京極の目が、不意に勇人を捉えた。
「ぁああぁぁあぁ」
物凄い力で久志の腕を振りほどくと、目を血走らせた京極が喚きながら勇人に掴みかかってきた。久志が弟を止めようとするより一瞬早く、煉が京極の腕を掴んだ。
「あああぁ……ぁあぁ」
京極が煉に腕を掴まれたまま床に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、頭を抱えて声が枯れるまで叫び続け、ようやく大人しくなったかと思うと、再び虚ろな眼で虚空を見つめてぶつぶつと何やら呟きはじめた。そして血糊で刃の鈍ったナイフを床から拾い上げ、汚れた包帯の巻かれた腕を切りつけだした。幾度も、幾度も、幾度も、幾度も……。
✿
「狗神を祓うことが出来ないわけじゃない」
京極の部屋の外で疲れた顔で頭を抱えた久志に向かって煉が不意に言った。
「でもあの犬って元々あんたが可愛がってた犬だったんでしょ? 俺が祓っちゃうとさ、あの犬の魂は無に還るんだ。つまり完全に消えてしまって二度と転生出来なくなる。愛犬がある日いきなり虐殺された上に二度と転生出来ないとか、それでもいいの?」
「……仕方無いよ」
「ふ~ん、あんたにとって、あの犬ってそんなモンだったんだ。たとえ腐り歪んだ狗神に成り果てても、あの犬にとってあんたの腕一本はあんたのキチガイ弟の命にも匹敵したっていうのにね」
ふん、と焰狐が鼻を鳴らした。
「口先でいくら可愛いなどと言っても、ヒトの愛情なんて所詮その程度さ。今更驚くほどの事でもあるまい」
「祓いは断る」
立ち上がった煉が、無表情に久志を見下ろした。
「あんたの弟に憑いてるのは狗神だけじゃない。ってゆーか、アレはあいつが殺した色んな動物やら鬼やらが混じっちゃって、すでに狗神ですらなくって、あんたには視えないだろうけど、もう凄いことになっちゃってるから。それを全部無に還すとか、土下座されたって俺はごめんだね」
「……あいつの仕出かした事は本当にすまないと思っている。だけど、ずっと苦しみ続けるあいつをただ観ているだけなんて、俺には出来ない。事の責任は俺にもあるんだ。俺はあいつのやっている事を知っていながら、こうなるまで放っておいたんだから。頼む、助けてくれ。動物達の供養ならいくらでもする」
「わかってないなぁ。あのね、祓う、ってのは無に還す、ってことなの。無に還っちゃったら、いくら供養したって魂も残ってないのに意味ないでしょ。そんなの坊さんの財布を肥やすだけ。そんなことより、あのキチガイを戒律の厳しい寺にでも放り込んで鍛え直して貰うほうがよっぽど建設的だと思うけどね。良かったらいい寺紹介するよ?」
無言で自分の前に土下座する兄を見て煉が溜息をついた。
「あのさ、もしあんたの弟が殺したのがカラスじゃなくってヒトだったらどうする? 近所の可愛い幼稚園児とか何人も誘拐してきてさ、面白半分に殺して頭をビン詰めとかにしてても、あんたは同じこと言えるの? 供養するから許してくれなんてさ、調子良過ぎると思わない?」
「それは……でもアイツが実際殺したのは犬や猫で、だからそんな、仮定の話をされても……」
「幼稚園児ならダメで、犬や猫ならいいんだ?」
煉の眼が京極の兄を通り抜け、ふとどこか遠くをみた。
「……なんでだろう。なぜヒトはいつも、自分達だけが特別だと思うんだろう」
そう呟いて立ち去ろうとした煉の腕を久志が掴んだ。
「俺に、俺に出来ることなら、なんでもする。必要なら左腕も両脚も眼も耳も、俺の持っている全てのモノを差し出すから、だから、お願いだから、あいつを助けてやって欲しい……!」
振り返った煉が酷く哀しげに久志を見つめた。
「俺さ、あんたにそっくりなヒト知ってるよ。真面目で、優秀で、優しくて、みんなに好かれていた。そのヒトは、愚かで自分勝手な弟の贄となり、弟が負うはずだった全ての厄を負って死んだ」
「此の世には取り返しのつかない過ちがある。それは過ちを犯した本人が償っていくしかないんだ。たとえ一生を懸けても償いきれなくて、いずれ地獄で鬼に喰われるとしてもね」
❀
「……勇人」
京極の家を出て、ぼんやりと歩いていた煉がふと勇人を見上げた。
「こんなつまらない事に巻き込んじゃって、ごめんね」
「謝んなよ。ってゆーかさ、あいつ前から俺に目を付けてたらしいからな。もしお前がいなかったら、俺マジでヤバかったよ。あんな規定外の鬼、今の俺じゃ手も足も出ないっつーの」
「勇人、たとえこの先勇人の霊力が前と同程度かそれ以上になることがあっても、アイツに憑いた鬼にだけは手を出すなよ」
「それはお前が獲物の印をあいつに刻んだからか?」
振り返った煉が目を細め、にやりと笑った。
「あ、ばれてた?」
「もしもお前以外の陰陽師や退魔師があいつに憑いた鬼を祓えば、お前の獲物に手を出した代償が百倍返しくらいでくるんだろ? そんなアブねーもんに手を出す奴なんかいねーよ」
「小さい印にしといたのに、よく気がついたね。サスガ勇人、腐ってもナントカは伊達じゃないね」
「腐ってもとか、お前はイチイチ一言余計なんだよ」
あはは、と声を上げて煉が笑う。
「でもね、アレはどっちかと言うと、俺の獲物ってより、アイツに憑いてる鬼の為の目印なんだ。鬼って近眼なのかな? 奴等は大きくなればなる程見境が無くなって、無関係なモノにまで悪影響を及ぼすようになる。でもあの印があれば、鬼は印の付いたモノ以外を襲うことはない。アイツの周りのニンゲンに厄が及ばないようにする為に、あの印は絶対に必要だった」
周りの人間を守る為か、京極の狂った心を永久に檻に閉じ込めておく為か、命を奪われた動物達の魂が陰陽師の手により無に還ることなく、いつの日か転生する道を残す為か。勇人には煉の本音はわからない。
勇人がふっと溜息をついた。
「煉、お前さ、陰陽術は苦手だとか言ってなかったっけ?」
「うん、苦手だよ」
「嘘つくなよ。獲物の刻印は高等術だろ」
「嘘じゃないって。夢見術とか式神や結界を創るとか、そーゆーのはホント苦手なんだけど、なんか昔から獲物の印を刻むのだけは得意なんだよね。俺ってもしかして独占欲が強いのかな?」
エヘヘ、と悪戯っぽく笑う煉を横目で見ながら、それはねぇんじゃね? と勇人が呟いた。
ヒトは誰しも欲があり、それは決して悪いことではない。煉にもきっとナニカ強く欲するモノがあるはずだ。しかしソレが単なる独占欲でないことだけは確かだ。だって時々、油の抜け切ったジジイか仙人みたいな面するもんな、コイツ。
「煉、お前ってブレないよな。いつもひとつのモノをしっかりと見据えているって言うかさ。俺は常に正しくありたいとは願ってるけど、でもはっきり言って自分が間違わない自信なんて全然ないんだよな。お前が羨ましいよ」
「……そんなことないよ」煉が寂しげに笑った。「俺はいつも迷っている。自分が何を守るべきなのか、何が正しいのか。他人から見れば俺が選んだモノは間違っているのかもしれない。でもきっと正しい答えはひとつじゃないから、だから別に構わない。そう思わなくちゃ、とてもじゃないけど やってらんないからね」
ぽつりぽつりと話しているうちに海岸まで来た。
「勇人、コレいる?」
煉がポケットから夢蛤を出した。
「いや、遠慮しとく。どうせ俺はもう使えないしさ、なんかこえーもん」
他人の夢を覗くのも覗かれるのも怖ろしい。それは秘められたヒトの心の奥底を覗き見ることに似ている。
「そっか」
ひゅ、と煉が海に向かって夢蛤を投げた。夢蛤が夕陽を反射しながら綺麗な曲線を描き、遠くの波間に消えていった。
「勇人」
長い間無言で夢蛤の消えた海を見つめていた煉が不意に勇人を振り返った。
「勇人が信じ守ろうとするモノは、俺のそれとは違うかもしれない。そのせいでいつか勇人と争うことになったとしても、それでもやっぱり俺は勇人のこと好きだから」
「ば、ハズイ奴だなっ、男同士で好きとかいってんじゃねーよ!」
「照れることないだろ?」
「ったく、なんなんだよ、お前さ~」口を尖らせた勇人が声を落とすと横目で煉を睨んだ。「……友達じゃないとか言ってたくせに」
「うん、友達じゃないよ」
「は……はぁ?!」
「勇人のことは好きだよ、でも勇人は友達じゃない」
あっけらかんと言い放ち、煉が笑った。
「俺、ヒトとは友達にならない主義なの」
その方が楽だから、とでも言うように煉が笑う。
煉の笑い声を乗せて風が遥かに海を渡る。
汐風が眼に冷たくて、勇人は煉の顔を見ることができなかった。
エピローグ
深い霧の揺蕩う渓谷で桐刄が書物を読んでいた。微かに揺らいだ霧の流れに、桐刄が頁を繰る手を止めて顔を上げた。
「……煉」
乳白色の霧の中に無言で佇む少年の影に桐刄が微笑みかける。
「珍しいね、どうしたの?」
「……別に。少し疲れただけ」
煉が桐刄の隣に横になると桐刄に背を向け、殻の中に閉じこもるかのように躰を丸めて目を閉じた。桐刄が脱いだ羽織をその小さな背中にぱさりと被せる。
「何か良い夢でもみせてあげようか?」
「……何もみたくない。何も聞きたくない。今はただ眠りたい」
……あれは誰だったのか。何処かにいる、自分の後ろ姿を夢見るヒト。
でも今だけは、そのヒトの存在さえも心から閉め出し、光の届かない奈落の底の音の無い眠りが欲しかった。
(END)




