夢蛤(4)
7
肩に背負っていたスポーツバッグを式神に持たせると京極が暗いグラウンドを見廻した。バッグの中で仔猫が鳴きながら布を引っ掻く。手にした真新しいサバイバルナイフの刃を月明かりに透かしてみる。いいナイフだ。この切れ味を試す時の事を考えると、恍惚と期待にゾクゾクする。準備は整った。後はあいつが来るのを待つだけ……。
「いくら待ったってアイツは来ないよ」
不意に背後から響いた声に身体を硬くして振り返れば、煉とかいうあの生意気な少年がポケットに手を突っ込んでこちらを見ていた。
「あんたさ、ここに犬を埋めたらしいじゃん」
「……誰から聞いた」
「この辺を縄張りにしてる知合いからちょっとね」
ナイフを手に身構える京極を見ても怯える風もなく、煉がにやりと笑った。
「これって、やっぱアレ? 犯人は犯行現場に戻るとかいうやつ?」
無言で自分を睨む京極に煉が軽く肩を竦めてみせた。
「とにかくさ、ソレ置いて、もう家に帰りなって。良い子が寝る時間はとっくに過ぎて、そろそろ悪い子も寝る時間だよ」
恐れげもなく近づいてきた煉が式神の持つスポーツバッグに手を伸ばした瞬間、京極が缶に入った液体をバッグに向かってぶちまけた。ツン、と鼻を刺す刺激臭に、一瞬早く飛び退いた煉が顔をしかめた。京極が笑いながら濡れそぼった二匹の仔猫をバッグから掴み出す。
「お前って、火焔術者だろ? でもこれで火は使えないぜ? 使えば子猫ごと丸焼けさ。俺は別にどっちでもいいんだけどさ」
「……サイコ野郎が」
不意に背後から現れた腕が京極の首を締め上げた。
「仔猫返しやがれ」
抑えきれない怒りを眼に滾らせた勇人の姿に京極がにやりと笑い、煉が何か叫んだ。自分に向かって投げつけられた仔猫を庇おうとして勇人が僅かにバランスを崩した瞬間、京極のナイフが勇人の腕を深々と切り裂いた。
「……勇人、なんで来たんだ?」
勇人を後ろ手に庇いつつ、煉が低い声で言った。
ぼたぼたと勇人の腕から流れる血が足下の湿った土に吸い込まれていく。煉が着ていたシャツを脱ぐと勇人に投げた。
「……止血しろ」
「え?」
「いいからそれ使ってサッサと止血しろよっ、出来るだろ?! それくらいっ」
煉がこんな苛ついた声を出すのを初めて聞いた。煉は基本的にヒトを舐めた口調で話すが、しかしその眼はいつも笑っていた。煉に睨まれ、勇人が慌てて投げられたシャツを掴むと傷口を縛った。シャツがあっという間に赤黒く染まってゆく。神経が切れたのだろうか、左腕は完全に痺れ、痛みは感じなかった。
「塚乃護、お前さ、狗神の創り方とか知ってる?」
口許にうすっらと嗤いを浮かべて血の滴る勇人の腕を見ていた京極が不意に言った。
「幾つかバリエーションがあるんだけどさ、一番よく知られている方法では、まず犬を首だけ出した状態で生き埋めにして何日も餌を与えずに飢えさせる。犬の飢えと絶望が頂点に達した時に、犬の前にご馳走の皿を置く。犬がそれを食べようとして首を伸ばした瞬間に刀で一気に首を刎ねる。後は皿の馳走を術者が食べれば狗神の一丁上がりさ。残念ながら犬の首を一気に刎ねることの出来るような刃物が手に入らなくってさ、だからオプションBを試してみたんだ」
京極が勇人の立っている辺りの地面を指差した。
「丁度今、塚乃護が立っている所に兄貴の犬を生き埋めにした。この方法で狗神を創る場合、条件が三つある。まずひとつ、犬はヒトに大切にされたモノでなければいけない。都合の良いことに俺の兄貴は動物好きでさ、その犬もバカみたいに散々甘やかされてたんだよな。ふたつ目、犬の埋められた地面はより多くのヒトに踏まれる場所がいい」
京極が楽しげに笑った。
「ここってサッカー部が毎日使ってるよな? 塚乃護も結構貢献してくれたんだぜ?」
あの日、校舎の窓から自分を見下ろしていた影を思い出し、思わずぞっとした。
「で、最後の条件。土の下に眠る狗神を起こすには血が必要なんだ。それもただのヒトや動物の血じゃなくて、代々続いた陰陽師とかの濃い血がいいらしい。たとえば塚乃護みたいなね」
ざわり、と足下で不気味な気配が蠢いた。咄嗟に飛び退いた勇人を嘲笑うかのように、血の零れた地面がぼこり、と動き、ナニカが土から這い出てきた。
だらりと垂れた乾いた舌、割れて血のこびりついた爪、浮き出た肋骨、抜けかけて逆立った首の毛の間を無数の蛆が這う。土から這い出たソレが、水から上がった獣のように身震いした途端、腐った眼玉がひとつぼとりと落ちて地面を転がった。
狗神の躰から漏れる腐臭に勇人が顔を顰めた。
「……京極、テメー、それが自慢の狗神かよ?ソイツ腐ってるじゃねぇか」
「おかしいな、起こす時に血が足りなかったのかな。塚乃護の血、もう少しくれよ」
「ざけんじゃねーよっ」
ははは、と京極が実に愉快気に笑った。
「まぁ初めてならこんなもんじゃないかな。このままでも充分使えそうだし、心配しなくても次はもっと上手くやるさ」
「充分って、てめぇこんな気色の悪いモン使って一体何する気だよ?!」
「決まってるだろ? 鬼を祓うのさ」
「……は?」
京極の言っている意味がわからず勇人がぽかんとすると、京極が自分の背後に蹲る汚泥のような式神を指差した。
「狗神に喰わせてこの鬼を祓うんだ。こいつも結構便利だったけどさ、やっぱ元が鬼じゃあ知能も足りないし、おまけに少し大きくなり過ぎたからな。餌代が馬鹿にならないから、式神のモデルチェンジすることにしたんだ」
満足気にくつくつと京極が肩を震わせる。
「狗神を手に入れるた上にウザい鬼を祓うことが出来て、ホント塚乃護には感謝してるよ」
「……それだけじゃダメだ」
それまで黙って京極を睨んでいた煉が不意に口を開いた。
「たとえ狗神が鬼を喰っても、それだけじゃ駄目なんだよ。狗神を使役するための贄がないもの」
「贄だと……?」
「ヒトを呪わば穴ふたつ、っていうでしょ。別にヒトを呪うための術だけじゃないんだけど、何事であれ願い事を叶えるには対価が必要なんだ。それは失くしたイヤリングの片方とか、服にコーヒーを溢すとか、そんな小さな事かもしれないし、可愛がっていたペットが死んだり、交通事故で手足を失ったりすることかもしれない。だからね、勇人みたいなプロの陰陽師達は必ず贄を用意するんだ。願い事の、つまり自分達の使う呪術の対価として。そして用意した贄以上の呪術は余程のことがない限り使わない。特に狗神みたいな強力な呪術は」
煉の言葉に、我が意を得たりと慌てて勇人が頷く。しかし京極は二人を馬鹿にしたようにせせら嗤った。
「贄なんかいくらだってある。この辺りの全ての鳥やノラ猫、クダラナイ人間共に飼われてぶくぶくと太った馬鹿なペット、必要なら皆殺しにして狗神にくれてやる」
「そんなものは贄にはならない。願い事を叶える代償は願い事をする者にとって大切なモノ、そして願い事を叶えるモノにとって意味のあるモノじゃなくちゃダメだからね」
「此の世の全ては無価値で無意味だ。俺にとって大切なモノなんか、ひとつだって在りはしない」
京極の言葉に煉が嗤った。
「最近の若者の薄っぺらい口先だけの虚無主義か。自分に酔ってるの? ありきたり過ぎてつまんないな。でもまぁ、あんたがそう思うなら好きにすればいいさ。俺は一応プロとして忠告しただけで、別にあんたを止めるつもりはないから」
「ちょ、ちょーっと待てって」
睨み合う煉と京極の間に、勇人が急いで割って入った。少し落ち着け、と煉に向かって言うと、勇人が京極に向き直った。
「あのさ、京極。お前、やり方はどうあれ、鬼を使役するどころか独学で狗神まで創っちまうとかプロ顔負けだよ。だけど煉の言ってることは本当だ。俺の見たとこ、お前は鬼を式神化して使役した分の贄も足りてない。その上狗神にその鬼共を始末させるとか絶対無理なんだよ。贄を払わずにバックレると倍返しする羽目になるからな。つまり払わなかった鬼共の分の倍返しプラス狗神を使った分の贄が必要になるってこと。たとえ狗神を使って上手く鬼を祓えたとしても、お前もただじゃ済まないぜ?」
「何?その上から目線」
京極が鼻を鳴らしてせせら嗤った。
「塚乃護さぁ、昔はどうだったか知らないけど、今は霊力なんか無きに等しいじゃん。そんな奴が自分のことプロとか言っちゃって、恥ずかしくないわけ?」
「な、俺はただ、お前のために……」
「お前のためとか言ってんじゃねーよ。ウザいんだよ」
「勘違いしないで欲しいんだけど、俺は別にあんたを助けたいわけじゃないから。狗神使いたいなら御自由にどうぞ」
「ちょ、なにキレてんだよ、煉?!」
「残念ながらさ、いつの世にもいるんだよね、こーゆー奴。下衆で腐った欲求を満たすために己より弱いモノを求め、苦しめ、その命を奪い、それに狂った歓びを覚えるおぞましい人間。DNAレベルで壊れちゃってるんだろうね。そんな不良欠陥品のことを俺が気にかけるわけないじゃん。だからさ、思う存分、その狗神に鬼を喰わせるといい」
煉が自分を睨む京極を見据え、静かな口調で言い放った。
「……使え」
それは一方的な殺戮だった。
腐りかけた狗神の力は凄まじく、京極の背後で大きくなり過ぎた鬼は瞬く間に狗神の牙にかかってズタズタに引き裂かれ、喰い荒らされた。ものの数分もしないうちにドス黒い泥のような血溜まりのみを残し、鬼は消えた。
鬼を喰い終えた狗神が京極に向き直った。
「よし、よくやった!」
京極が笑いながら殺した動物の瓶詰めを狗神に投げてやった。瓶が狗神の肩に当たり、割れて中身が地面に散らばった。しかし狗神はそれには見向きもせず、笑い続ける京極を紅く光る眼でじっと見つめる。
「……なんだよ」
狗神の様子がおかしいことに気付いたのだろう。京極が僅かに身体を硬くして、狗神を睨んだ。地を這うような低い唸り声と共に狗神が一歩京極に近付き、京極が思わず後退りした。
「なんなんだよ……」
「犬が芸をしたらご褒美あげないとね」
のんびりとした口調で煉が笑う。
「褒美なら今やっただろうがッ」
割れた瓶を指差す京極に向かって、煉が肩を竦めて首を横に振った。
「だから言ったでしょ。そんなモノは贄にはならないって」
狗神の唸り声が、苛立ちもあらわにますます激しくなる。
「イイ事教えてあげよっか?」
怯えたように後退りする京極を見て煉が幽かに嗤った。
「……贄はあんたのその小汚い命さ」
次の瞬間、狗神が激しい唸り声と共に京極に襲いかかった。
「きょ、京極ッ」
悲鳴を上げて逃げ惑う京極を前にして、勇人は焦りながらもどうすれば良いのか分からず、凍りついたように動けなかった。と、京極と狗神の攻防を前に、煉がのんびりとアクビした。
「う~ん、まさに "survival of the fittest" って感じだね」
「は……はぁっ?!」
「知らない? 最適者生存。ダーウインの進化論でさ、ある環境においてそこでの生存に最も適したモノが自然選択されて生き残り、次世代に子孫を残すことができるってやつ。やっぱあいつみたいに壊れたDNAじゃダメなんだね」
「おまっ、そんな事言ってる場合じゃないだろ?!」
「なんで?」
「なんでって……」
煉の瞳が真っ直ぐ勇人を見つめた。煉の瞳は山奥の淵に似ている。黒々と深い淵の水に似て、何にも動かされること無く、此の世の全てを呑み込んで、それでも変わることなく澄みきっている。
狗神に追い詰められた京極の悲鳴が響き、勇人は頭の中が真っ白になった。
「危ないよ、勇人」
飛び出そうとした勇人の腕を煉が掴んだ。
「勇人じゃ無理だから、手を出さない方がいい」
煉が涼しい顔でにっこりと微笑む。たいして力をいれているようには見えないのに、腕を掴まれた勇人は金縛りにでもあったかのように身体が動かなかった。
「放せよ……」
勇人の掠れた声に煉が素っ気なく首を横に振った。
「ダメだよ。たとえ手に負えなくても、きっと勇人は自分を犠牲にしてでも奴を助けようとすると思ったから、だから言ったんだよ、これ以上関わるなって」
「じゃ、じゃあ見殺しにしろってのかよ?! 退魔師がっ、ヒトが鬼に喰われるの黙って見過ごすわけにはいかねーだろっ?!」
「あれ? 前に言わなかったっけ? ヒトとか鬼とか、俺には関係ないって。俺は俺の守りたいモノを守る。そしてその中にアレは含まれない」
穏やかな表情で、口許に微かな笑みさえ浮かべて京極を指差す煉の姿にぞっとした。
何故気付かなかったのか。
こいつは心底怒っていたのだ。ヒトが目の前で死んでも構わないと言い切れる程に。いや、きっと京極の死など煉にとっては無意味かつ無価値で、それはどんな感情も、歓びや哀しみはおろか復讐を遂げることへの満足感すらその胸の内に呼び起こすことは無いのだろう。
……でも俺は違う。
勇人が俯き、唇を噛んだ。京極の所業をおぞましく思い、怒りを感じ、狗神に襲われる奴をみて心の何処かで溜飲を下げている。しかしそれでも奴の死を目の当たりにして冷静でいられる自信はない。
それは決して奴を哀れに思っているわけでも、奴を助けることが正しいと信じているわけでもなくて、自分はただ怖いのだろう。いつの日か、取り返しのつかない、二度と後戻りの出来ない過去を振り返り、もしかしたら自分の選択は間違っていたかもしれないという可能性と向き合うことが。
「い、いやだ……」
狗神に追い詰められた京極が泣きじゃくりながら喚く。
「俺を、助けろっ! 死にたくっ……ないッ」
「みんなそう思っていた」
煉の声が静かに京極を突き放す。
「……でもみんな死んだ」
何かぬるりとしたモノに足を取られて転んだ。慌てて起き上がろうとした手が、生温かく濡れたモノを掴んだ。裂けた腹からやけに綺麗なピンク色の腸と赤黒い肝臓を覗かせた鳩が、ガラス玉のような眼で自分を見つめていた。半開きの嘴の中の砂に汚れた舌が動いた。
『みんな死んだ』
後退りしようとして、背後の何かに躓いた。生きたまま頭蓋骨を開けられた兎が転がっていた。羽の折れた数羽のカラスが兎に集り、露出した脳をつつき、その度に兎の後ろ足がびくびくと動いた。一羽のカラスが振り向くと、嗄れた声で鳴いた。
『満足したか? いい暇潰しになったか?』
頭蓋骨を割られた猫が足下に擦り寄ってきた。猫が甘えたような上目遣いで首を傾げると、腐り溶けた脳がとろりと顔の横を流れ、ごろごろと喉を鳴らす猫の赤い首輪の鈴がりんと涼しげな音を立てた。
『俺達を弄ぶのは面白かったか?』
地面に座り込んだ膝の上にカラスがとまった。眼玉をくり抜かれ、ドス黒い血を流すふたつの暗い穴が自分に向けられた。ぐぇっと嘔吐き、カラスが何かを吐き出した。潰れた眼玉が膝の上をころころと転がっていった。
『俺達はおまえを充分愉しませてやっただろう?』
カラスが喉を震わせて嗤う。
『今度はおまえが俺達を楽しませる番だ。』
「ち、違うっ、俺は、塵芥じゃないっ、おまえ等とは違う……!」
狗神が京極に飛びかかり、その体をを引きずり倒すと足に噛みつき襤褸人形のように振り回した。肉が裂け血が迸り、それでもなお這いずって逃げようとする京極の肩に鋭い爪が喰い込んだ。
「いやだっっ」京極が泣き喚いた。
「俺はお前等とは違うッ! 俺は、こんなところで、こんなふうに、死ぬべき人間なんかじゃ、ないッ」
京極の喉に向かって狗神が牙を剥き、勇人が思わず目を瞑った。
誰かの叫び声がした。突如辺りが静かになり、勇人が恐る恐る目を開けた。
気を失った弟を兄が抱きかかえていた。兄の右腕は肩から噛み千切られ、その流れる血で弟の顔が真っ赤に染まっていた。
「小次郎……」
久志が狗神に向かってそっと左手を伸ばした。長い間じっと久志を見つめていた狗神が、やがて血の滴る腕を噛み砕き、ごくりとそれを呑み込んだ。
「……小次郎、こんな姿になっちゃって、ごめんな。守ってやれなくて、本当にごめんな」
ほろほろと零れる涙が、狗神の腐った躰を濡らす。
「でも、篤志は俺の弟だから、どうか、どうか、俺に免じて許してやってくれ……」
暗いガラス玉のような眼には何が映っているのだろうか。
狗神は唯ひたすらに無表情だった。
(To Be Continued)




