霧隠し(前編)
村雨の 露もまだひぬ 槇の葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ(新古今集・寂蓮法師 )
1
「……天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ……」
高校の授業風景というのは、日本中どこでも似たようなものなのだろうか。教師の説明する学問のすゝめをぼんやりと聞き流しつつ、滑らかに鉛筆を動かし、ノートに教師の顔をデッサンする。
「つまりだな、世の中における人の差というものは、真剣に学問と向き合ったかどうか、その努力の程で決まると……」
本当にそうだろうか。人間の差なんて、努力でどうこう出来るものじゃない。持って生まれたモノに左右される事の方が多いんじゃないかな。
デッサンの手を止めた竹中が教室を見回した。例えば高校のクラス。同じ国で同じ年に生まれ、似たような家庭環境で育ち、同じ高校に通う。なのに、こんなちっぽけなクラスの中でさえ人間が階層化されている。男子のトップグループと女子のトップグループ……と、それ以外。
トップグループは制服の着こなしも、持ち物も、髪型も、喋り方や歩き方ですら “それ以外” とは違っていて、クラスメイトどころか最早同じ星の住人とすら思えない。そして異星人間での文化の交流は在り得ない。それどころか、あっちはこっちの名前すら知らないのだろう。そしてその違いは学問に対する姿勢の違いでないことだけは確かだ。
「こらー、寝るなー、休み明けだからって弛んでるぞ。櫻井、お前だ、お前」
教師の声に、竹中の前の席の少年がむっくりと頭をあげた。
「よだれぐらい拭け」
教室にくすくすと笑い声が広がる。しかし教師の注意もクラスの忍び笑いも気にした風もなく、櫻井克也が軽く伸びをすると窓の外を眺めた。
――階層化されたクラスにも、ごく稀に例外がいる。竹中がぼんやりと外を眺める克也の横顔を盗み見た。彼、櫻井克也がその例外だ。
櫻井君は有名な水泳選手で、この高校にもスポーツ特待生として入学したらしい。陽気で、カッコ良くて、人望もあって、彼はトップグループの中でも一際輝いていた。でも一年程前、入学して間もなく交通事故に遭い、その後遺症で泳げなくなってしまった。
退院した櫻井君は一見したところ、特に変わった様子はなかった。でも彼はトップグループとも水泳部の人達ともあまりつるまなくなった。鬱が入っちゃったわけでもなさそうだし、話しかけられれば普通に喋ってるみたいだけど、でも、なんだか周囲の全ての人から距離を置いている感じがする。
克也が突如右肩から糸屑でも摘まむ様な仕草をすると、その指先をしみじみと眺め、何やらぶつぶつと独り言を言い始めた。
克也が指先の小鬼の耳をくすぐりながら囁く。
「レンくーん、煉は一体どこに行っちゃったんだろうねぇ。もう三ヶ月近くになるのにねぇ」
そんな克也に竹中が背後から気の毒そうな視線を送る。
……やはり事故の後遺症なのか、櫻井君は時々独り言をいったり、空を見上げてニコニコしたり、誰もいない教室の鉢植えや校庭の草藪に話しかけている事がある。
克也が右肩を揉みながら大アクビした。
……一見何も考えていないようだけど、選手生命を絶たれた彼にはやはり他人にはわからない深い苦悩があるのだろう。
授業の終わりを告げるベルが鳴り、途端に息を吹き返したように教室がざわめき始めた。配られたプリントを振り返って竹中の机に置いた克也が、竹中のノートにふと目を止め、にっこりと笑った。竹中が慌ててノートを閉じる。
「おい、克也」
男子生徒に呼ばれた克也が竹中から視線を外した。
「次の体育サッカーだってよ。どうする? ふける?」
「サッカーか。最近運動不足気味だからな、今日は出るわ」
「まじ? まぁサッカーなら手は要らねぇしな――」
「ばっ……」
隣で話を聞いていた生徒が克也に話しかけていた生徒の頭を慌てて殴った。
「バカかてめーはっ」
そんなクラスメートのやりとりに克也が屈託なく声を上げて笑う。
「ばーか、腕の一本や二本なくったって、てめーらなんかに負けねぇよ。俺様の運動神経ナメンナヨ」
笑いながら教室を出て行くクラスメート達を横目に、竹中が重いため息と共に席を立った。
2
高校のグラウンドでは克也が相手チームのディフェンスを次々と抜き、鮮やかな足捌きでボールを運んでいく。一方、竹中はボールを運ぶ集団に意味もなくウロウロとついて走っていた。
……団体球技って本当に苦手だ。トップグループと運動部のやつらの独壇場で、“それ以外”は空気だもんね。ボールに触れることもなく一時間過ぎちゃったり。まぁ、ボール廻されたって困るんだけどさ。それにしても櫻井君は本当にすごい。事故の後遺症なんて全然感じさせないどころか、サッカー部のヒト達まで手玉にとっている。やっぱり異星人は僕なんかとは色々と造りが違うらしい。
シュート態勢に入った克也を無理に止めようとした生徒が、克也の右肩に突っ込んだ。顔をしかめて蹴った克也のボールが大きくずれて、ぼんやりと突っ立っていた竹中の顔面に激突した。目に火花が散って、キーンと耳鳴りがする。
あぁ、たまにボールに触るとこーゆー状態って、神様は依怙贔屓だ……。
克也が慌てて竹中に駆け寄ってきた。
「うわーっ、わりぃ、超ゴメン! 大丈夫か?!」
「……だ、大丈夫……」
朦朧としながら顔を上げた竹中を見て、克也が顔をしかめた。
「全然大丈夫じゃねーじゃん」克也が竹中に肩を貸して立ち上がらせた。「歩けるか?保健室行こうぜ」
「……ありがとう、でも一人で行けるから……」
ふらつきながらそう言うと、克也がちょっと笑った。近くで見る克也は笑うと切れ長の目尻が少し垂れて、意外なほど子供っぽく見えた。
「顔面にボール蹴り込まれてお礼とかいいから」
克也が駆け寄ってきた女子から受け取ったタオルを竹中の顔に押し付ける。柔らかなタオルからハーブ石鹸のような甘い匂いがした。
(良い匂い…… って、あれ?)
タオルにベットリとついた赤い染みが不意に目に飛び込んだ。
(し、しまった……)
「竹中……? おい、どーしたんだよっ?! 竹中っ?!」
大声で自分を呼ぶ克也の声が、遠くに霞んだ。
3
目覚めると、保健室のベッドの中だった。ぼんやりと白い天井を眺めていたら、克也が読んでいた雑誌を置いて顔を覗き込んできた。
「おぉ、生き返ったか?!」
……俺って死んでたの?
「目が覚めた? 気分はどう?」
克也の声に保健医がカーテンを開け顔を覗かせると、竹中の光彩反応をチェックをした。
「大丈夫そうね。脳震盪かしら、体育の授業中に気を失ったのよ。憶えてる?」
「もう俺超びびったよ。鼻血だしていきなり倒れたからさ、打ち所が悪くって死んじまったかと思った」
「……あの、授業は……」
「七時限目ももうとっくに終わった。ってか、病院行かなくていいのかよ? 明日の朝目が覚めなくてそのままポックリ……とか嫌だぜ? 俺、十七の身空で人殺しとかになるのはごめんだ」
「ごめん、本当に大丈夫だから……」不安気な克也を見て竹中が口ごもった。「……あの、実は、僕、血がダメで……」
「は?」
「人のでも自分のでも、血をみると気持ち悪くなっちゃうんだ。採血の時なんかもう悲惨でさ……だからさっきもタオルに付いた血を見て……」
安心したように笑いだした克也を竹中がおずおずと見上げた。
「……あの、もしかして、ずっと付き添ってくれてたの?」
「え? まぁ、俺も人殺しになるかどうかという人生の岐路に立たされたわけだし」
それを聞いた保健医が呆れたように嘆息した。
「その割には隣のベッドでのんびり昼寝してたじゃないの」
「果報は寝て待て、っていうじゃん。教室帰ろうか」と言うと、克也が笑いながら立ち上がった。
教室へ向かう廊下をのんびり歩く克也を竹中がちらりと見上げた。このヒトって身長どれ位あるんだろう、などと考える。小柄な竹中の頭は克也の肩にも届かない。やはり水泳でも高身長の方が有利なのだろうか。まぁ櫻井君はもう泳げないみたいだけど……。
竹中の視線を感じたのか、克也が竹中を見下ろし首を傾げた。
「なに?」
「え? あの、別に……櫻井君ってさ、あの、髪型とかカッコ良いよね……」
「え?」克也が驚いたように目を見張った。
「あっ、ごめん、変なこと言っちゃって……ただ、そーゆーのってどこで切ってもらうのかな、って思っただけで……」
「マジ?! これカッコ良い?! これって家の洗面所でテキトーに自分でバシバシ切ってるだけだぜ?」
「え、本当に?」
「うん、だって俺金ねーもん。前は泳いでたからさ、結構気をつけて短くしてたんだけど、今はその必要ねーから、伸び過ぎてウザくなったらテキトーに切ってんの」
「……そうなんだ」やはり素が良いとなんでも似合うんだな。羨ましいのを通り越して思わず感心した。そんなことですら努力など必要ないとは、これはもう依怙贔屓というより、きっとこのヒトは神に特別に愛されたヒトなんだろう。
「うーむ、今まで気づかなかったけど、俺ってもしかして、カリスマ美容師とかの素質ある? 来週提出の進路希望決まってなかったんだけど、丁度良いからそっちの方向でいくかな」
「……」意外と単純なヒトだな。
「……あの、ところで、さっきのタオルは……?」
おずおずと訊ねた竹中に、克也がけろりとした顔で答えた。
「血が付いてたし、捨てたよ」
「えぇっ?! でもアレって誰か女子から借りたんじゃ……」
「別にいいんじゃねー? タオルくらい」単純な上に無神経だな、このヒト。
「だ、だめだよ、そんな……!」
「お前あんま興奮すんなよ? また鼻血出るぞ」
克也が笑いながらガラリと教室の戸を開けると、数人の女子が振り返り口々に克也に声をかける。
「あー、克也、おかえり~」
「遅かったね~」
一人の女子が席を立って二人に近づいてきた。
「竹中君、大丈夫? この馬鹿が力任せに蹴ったボールが当たるなんて、災難だったね」
「あ、う、うん、全然平気……」
ドギマギして口ごもる竹中を横目で見ながら、克也が女生徒に話しかける。
「ユウコ、さっき借りたタオルなんだけどさ、結構血が付いてたから、俺の独断と偏見で捨てさせて頂きました。竹中が気にしちゃってさ」
「?!」克也の言葉に竹中が凍りついた。あのタオル、細野さんのだったのか。それを洗いもせずに捨てるとは、あぁなんたること……。
「ご、ごめんね、細野さん……」
慌てて謝る竹中に細野裕子がニコッと微笑みかける。あぁ、なんて素敵な笑顔。
「いいよ、別にタオルくらい。気にしないで」
裕子が克也に向き直った。
「そんなことより、克也! あんた、来月の修学旅行のグループ、まだ決めてないでしょ? 古谷達に誘われたのに断ったんだって?」
「え、うん、まぁ……」
目を逸らして口ごもる克也に裕子が溜息をついた。
「もう、どうしてあんたは……」
何やら言い合う二人を竹中がぼんやりと眺める。
……細野さんは、水泳部の名物マネージャーだ。美人でテキパキと面倒見の良い彼女に憧れる男子生徒は多い。細野さんはよく櫻井君のことを気にかけている。そこには元水泳部のスターへの労わり以上のものがあるような気がする。きっと彼女は櫻井君のことが好きなんだろう。
「だーかーらー」
何を話しているのか。煮え切らない克也の態度に裕子が声を高めた。
「グループごとのスケジュールを明日までに担任に提出しなくちゃいけないの! 学級委員の私の責任なんだから、もうごちゃごちゃ言わずに私達のグループに入りなさい!」
「げ」克也が引き攣った顔で竹中を振り返った。「竹中、お前、修学旅行の班決めた?」
「え、ううん、まだ……」しまった、今日誰かに聞こうと思ってたのに、サッカー事件のせいですっかり忘れていた。
「じゃあさ、俺とペア組もうぜ!」
「え、ペアって……えぇ?!」
「……俺とじゃ嫌?」
克也が捨て犬のような切なげな表情で竹中の手を握りしめる。
「そ、そんなことはないけど……」
「良かった! じゃ、決まりな!」
克也が勝ち誇った顔で裕子を振り返った。
「ってことで、俺と竹中でグループね」
「オッケー、じゃあ、そっち二人と私達三人で五人グループね」
「……はい?」
裕子がにっこりと微笑んだ。
「グループは五〜六人で組むことになってるから、丁度良かった♡」
「くっそ~、よりによってユウコ達と自由行動かよ~。自由って言葉が泣くな」
帰り支度をして、克也と共に校舎を出る。隣で克也がなにやらぶつくさ言っているが、竹中も降って湧いた事態にかなりの衝撃を受けている。
……信じられない。よりによって、クラスでも地味で空気状態のこの僕がトップグループの人達と、それも細野さんや櫻井君と自由行動だなんて……。
「それにしても、高校の修学旅行が京都って、うちの学校もショボイよな。せめて九州か北海道だろ? 最近は海外とか多いらしいじゃん」
口を尖らせた克也に竹中が首を傾げた。
「え? まぁ、いいんじゃない? 僕、京都行ったことないし……」
「あぁ、それなら、行きたいところとか、ちゃんとあいつらに言っておいたほうがいいぜ? ユウコって、実は仏像とか大好きでさ~、下手すると俺達の自由は薬師如来解説ツアーに潰えるぞ」
「おい、櫻井!」
他校の生徒だろうか。校門の外で人待ち顔に佇んでいた高校生が克也をみてほっとしたように声をかけてきた。
「お~、峰。そんなところに突っ立って、暇人だな。どしたん?」
「……お前さ、また携帯止められてるだろう」
「あ~、先月の料金滞納しててさ~、ワリーワリー」
全然悪いと思っていない様子でへらへらと笑う克也に峰が軽く舌打ちする。
「ったく、何度目だよ。煉君が連絡したくても出来なかったらどうするんだよ」
「それは大丈夫。あいつ俺の携帯番号知らないから」
「はぁ?!」
校門の前で立ち話する背の高い二人組に女生徒達がちらちらと熱い視線を送ってくる。櫻井君もカッコいいけど、この峰ってヒトも中々だ。 やっぱり学校が違ってもレベルの高い人同士で友達になるんだな。 疎外感を感じ、竹中が黙って歩き出した。
「おい、竹中!」
呼ばれて振り向いた竹中に克也が微笑みかけた。
「今日は色々と悪かったな。また明日な」
「……また明日」
歩き出した竹中の背に向かって、克也が手を振りながら大声で叫んだ。
「今晩夢に川が出てきても渡るなよ~! 光に向かってトンネルの中歩いてもダメだぞ~」
(To Be Continued)




