雨蛙
くやしさに 人なげくとき野の青さ あまがへるこそ 鳴きたみにけれ (斎藤茂吉)
プロローグ
梅雨。煙るような霧雨の中、傘をさした高校生が交差点を渡っていた。イヤホンを挿し、手に持ったiPhoneを真剣に眺めつつ独り言を呟く。
「ここのターンのタイミングが一瞬ずれた気がしたんだけどな」
道行く人が次々と高校生を追い抜かしてゆく。点滅を始める歩行者信号に全く気付く様子もなく、高校生がカルキの匂いのする湿った髪を掻き毟った。
「……やっぱ動画じゃ判らないな。 コーチも大丈夫って言ってたし、タイム的にも問題なかったけど……」
突如視界の端にトラックの影が迫った。急ブレーキの音が響く。人々の悲鳴。空に舞う傘。雨雲が割れて、光が射し込んだ。瞳に映る、蒼い、蒼い空。
そして全てが暗闇に包まれた。
……そして一年後。
1
梅雨。
服の隙間から忍び込んだ湿りが身体の内側までじっとりと重く濡らしてゆく。空気を埋める細かな水滴に煙る景色は目の前にあってもどこか遠く、音は柔らかにくぐもる。これじゃ水の中にいるのと変わらないな、と克也は思う。でも悪くない。どこか懐かしいようなこの感覚、俺は嫌いじゃない。
交通量の多い交差点を通りかかった克也が、傘の中で俯く人々に混じって車道の前にうずくまっているモノにふと目を留めた。それは柴犬ほどの大きさの蛙だった。蛙というにはあまりに大きなソレは、何を考えているのか、車の流れをただひたすらじっと見つめていた。蛙を振り返ったり、その不可思議な姿に驚いたりする者はいなかった。皆、まるで蛙が見えないかのように無関心だった。そんな中、克也だけが蛙に目を向ける。
「……またか」軽く舌打ちすると克也がうんざりとした溜息をついた。
ああいうモノが見えるのは別に珍しい事じゃないけど、それにしてもこんな雨の日は特に多い気がする。アイツ、あんなところでじっとして、道を渡りたいのだろうか。どうせ無理だろうけど。ここの信号は変わるのが早いから。あのデカくて鈍そうな蛙に渡り切れるわけが無い。
克也が蛙から目を逸らすと足早にそこを通り過ぎようとした。
わかってる。あんなモノはただの幻覚だ。でもいくら幻覚でも、潰れたデカイ蛙の死体なんて気持ちいいもんじゃない。 まぁこの前は大山椒魚だったけど。いや、頭が二つある蛇だったっけか……? 克也がちらりと交差点を振り返り、思わずええっ、と声を上げそうになった。11-2歳の少年が蛙を抱えて交差点を渡っていた。
歩行者信号が点滅を始める中、少年が蛙の重さによろめいた。克也が急いで少年に駆け寄り、クラクションを鳴らす車を睨みつけた。でっぷりと腹の出た蛙を引き摺るようにして信号を無事渡り終えると、少年がさも大事そうにそっと蛙を地面に下ろした。柴犬サイズの蛙は近くで見ると益々異様だった。猫くらいひと呑みにしそうな大きな口。ヒキガエルとか、そういう種類だろうか。全身がぶつぶつとした丸い吹出物のようなモノで覆われ、お世辞にも愛らしいとは言い難い。
不意に背中の丸いぶつぶつが動いた。キョロン、と無数のぶつぶつに一斉に見つめられ、克也が息を飲んだ。そう、『見つめられた』のだ。蛙の全身を覆うのは、大小様々な眼玉だった。
のそのそと、どこかへのどかに去って行く蛙を見送ると、少年がちらりと克也を見上げ、「……どーも」とぶっきらぼうに礼を言った。そのまま立ち去ろうとする少年の肩を克也が慌てて掴んだ。
「なに?アレなんなの?コレって何かの冗談?」
「は?」
「は、じゃねぇよ!あのバケモノみたいな……」
「あぁ、あんた視えるヒトなんだ。時々いるんだよね。最近は珍しいんだけど」
「見えるって……」
「だから、天還。視えたんじゃないの?」
「アマガエル?! ってアレはアマガエルなんて可愛いもんじゃねーぞ⁈ ばあちゃんの田舎で見たやつは小指の先程の大きさで……ってかそもそもあんなでけー蛙が何でこんな街中にいるんだよ?! それで誰も気にしないとか有り得ねーだろ!」
少年が面倒臭そうに溜息をついた。
「雨蛙じゃないよ、天還 (アマガエリ)。ああゆうのは視えない人間がほとんどだし、やつらに必要なのは適度な湿度だから場所なんか関係無いね。この季節はどこにでもいるよ」 それだけ言うと素っ気なく立ち去ろうとする少年の腕を克也が再び掴んだ。
「マテマテ、こんだけ人を混乱させておいてそのまま立ち去るとか有り得ねぇだろ。まずなんで俺の幻覚がお前に見えるのか、それから説明しろ」
少年が迷惑そうな顔で克也の腕を振りほどくと雨に濡れた艶やかな黒髪を掻き上げた。何をそんなに苛ついているのか、利かん気そうな大きな瞳が克也を睨んだ。
「幻覚だと思ってるんだ? それであんたの老い先短い人生に不具合ないんでしょ? なら別にいいじゃん。俺もあんたの相手してられるほど暇じゃないんで、いい加減離してくんない? さもないと、大声で叫んじゃうよ? 『ヒトゴロシ~』とか 『ショタコン ゴウカンマ~』とか」
このくそガキめ。自分を斜め下から睨む生意気そうな大きな眼にムカッとして、思わずその頭を軽く殴ってやりたくなった。いや、だめだ、人目もある。小学生相手にムキになるな、俺。ここはひとつ大人の風格をもって冷静に対処せねば。
克也が軽く咳払いすると、立ち去る少年の背に声をかけた。
「なあ、話に付き合ってくれたら、菓子でもゲーセンでも、なんでもお前の好きなもん奢るぜ?」しばし立ち止まって何事か考えていた少年が振り向いた。
「なんでも……?」
❀ ❀ ❀
全くよく喰うガキだ。
ファミレスで大量のオーダーにぱくつく少年を前に、克也が財布の中身を気にしつつ質問を続ける。
「つまりあのでけー蛙は物の怪とか妖っていうもんだと……?」
「そ、多分あんたが見たっていう大山椒魚や蛇もね。他にもそれと気付かないだけで、結構視てるんじゃない?」
「うーん、俄かには信じられねーような衝撃的事実っていうか……」
少年が食べる手を休めてじっと克也をみた。
「っていうか、あんたみたいなケースの方が珍しいよ。普通、生まれた時から視えてれば、いずれはわかるもんでしょ、自分には他人に見えない存在が視えるってさ。それをその年まで幻覚だと思ってるなんて、単なるアホか、よっぽど自分の頭に自信がないかだね」
克也がムッとして声を荒げた。「ったく、いちいち失礼な奴だな。俺がこーゆーモン見えるようになったのは、つい一年位前からなの」
「……事故?」
「あぁ、ちょっと交通事故でさ、頭とか打っちゃって。その頃からなんだよな。医者には脳に問題はないって言われたんだけど。なに? 俺みたいなケースってあるんだ?」
「まぁね。強い心理的・肉体的ストレスを感じた時に後天的に視る力が高まる人間がたまにいるんだよ。あんたの場合、心理的ストレスなんて縁がなさそうだから、まぁ事故かなんかかな、と」
「……待てよ。煉だっけ? お前も実は俺の幻覚とかいうオチじゃないだろうな」
「それはあり得ないでしょ。あんた程度の頭で俺みたいに複雑な幻覚創れるわけないじゃん」 少年の余りの言いように怒りを通り越して呆れてしまった。
「お前、本当にかわいくねー餓鬼だな。俺の小遣い丸々食いやがったくせに。一度、年上に対する節度ある態度ってのを教えてやろーか?」 煉が鼻先でふふんと笑った。
「あのさ、その粗暴なところ、直した方が良いんじゃない? もう少し社会性を身に付けないと嫌われるよ? 第一、年上って言うなら俺の方があんたよりだいぶ上だよ」
「は?」
「ちなみに、ここの食事は情報との交換条件じゃないから。あんたの奢りではあるけどね」
「は?!」
「公共の場ではぁはぁウルサイな。アブナイヒトと一緒にいて俺まで誤解されるの嫌だから、やめてくんない?」
「ハァ~?!!!」
叫ぶ克也を無視してふと窓の外に目をやった煉が、不意に真顔になるとテーブルを黙って立った。
「おい、どうしたんだ?」
「……ちょっと用事が出来た」煉が心在らずといった様子で外を見つめたまま、ごちそうさま、と呟き、そのまま後も振り向かずにレストランを出ていった。
「ったく、なんなんだよ、あのガキ」
溜息をついてふと窓の外を見ると、足早に去って行く煉が前方の数人の高校生を追うように小走りに道を渡るのが見えた。煉が追う高校生のうちの一人に見覚えがあった。克也が慌ててテーブルの上の伝票を掴み立ち上がった。
2
けぶるような霧雨の中、街角で高校生のグループに追いついた煉がすらりと背の高い一人の高校生の制服の端を掴んだ。しかし振り向いた高校生の戸惑った顔を見ると僅かに息を呑み、慌てて手を離した。
違う……。
俯いて唇を噛んだ。
これはあのヒトではない。
がっちりと肩幅の広い高校生が首を傾げて煉と仲間を見比べた。
「何この子? 峰の知り合い?」 峰と呼ばれた背の高い高校生が首を振った。
「いや、知らないけど……」
「人違いじゃね? それか迷子?」「峰先輩の隠し子とか?」「あり得るな」
「えっと、どうしたの?何か用かな……って、ええっ⁈」からかう仲間に構わず俯いた少年の顔を覗き込んだ峰が、見知らぬ少年の今にも泣き出しそうな顔に驚き、慌てた。
「あっ、あの、どうしたの⁈ 大丈夫?」
煉はただ、困り果てた峰の顔をぼんやりと見つめ、またか、と心の中で呟いた。
また間違えた。もうこれで何度目だろう。何故だ。前はこんな事はなかったのに。ずっとずっとあのヒトのことだけを想い、あのヒトだけを探し続けてきた。でも、余りにも永い間逢えなくて、俺は血を分けたあのヒトを見分けることすら出来なくなったのだろうか。
しっとりと服の隙間に染み入ってくる霧雨が心を冷やし、髪から滴る雫と共に気力が身体から流れ出す。
何か言わなくちゃ、と思った。心配そうに自分を覗き込む目の前の見知らぬヒトに、何か、この場を取り繕う言葉を。そして愛想良く微笑んで、何事も無かったように立ち去らなければ。そうすればこのヒトは明日には俺の事など忘れるだろう。忘れてもらわなければ。ヒトと関わるのは面倒だから。ただ、いつものように振る舞うだけでいい。いつも、いつも、いつも、あの日から、ずっと繰り返してきたように……。
「おいっ、煉!」
派手に水飛沫を上げながら克也が雨の中を走ってきた。煉に追いついた克也を見た途端、高校生達の間に緊張と動揺が走った。
「あれって、北高の櫻井じゃねぇ?」「まじ? 北高水泳部の?」「でもあいつって確か……」
色々な意味で注目されたり好奇の目に晒されるのは慣れっこだ。いちいち相手をしていては切りが無い。克也がひそひそと話す高校生達を無視すると、何やら力無く項垂れている煉の顔を覗き込んだ。
「なんだよ、お前、イキナリいなくなってさぁ……って、ど、どしたん⁈」
先程の小生意気な態度が嘘のように、煉の眼は暗く虚ろだった。と言うよりまるっきり別人。何を聞いてもただ黙って首を振る煉を見ているうちに、不意に胸の内側がザワザワした。理由が何であれ、こんなチビガキにこんな表情をさせるとかあり得ない。克也が険しい表情で自分を囲む高校生達を見上げた。
「……煉、お前、こいつらに何か用があったんじゃねぇの?」
立ち上がった克也に怯えたように高校生達が数歩後ろに下がった。やや猫背気味ながら、峰と比べても遜色無いほど長身の克也が右肩を揉みながら無言で高校生達を見下ろした。
「言っとくけど、俺達は別に何も……」克也の切れ長の眼に睨まれ、何か言いかけた高校生が口籠った。
「な、何だよ、文句があるなら……」
「よせ、白井」峰が落ち着いた声で後輩をたしなめると克也を正面から見据えた。「大会が近いんだ、狂犬相手に怪我をしてもつまらないだろう」
克也が一瞬物言いた気に峰をみつめた。しかしすぐに目を逸らすと、ふらふらと歩き出した煉の後を追った。
「先に行ってろ」と峰に言われ、仲間や後輩達がほっとした表情で立ち去る中、峰がひとり険しい表情で克也の後姿を睨んだ。
「櫻井」 立ち去ろうとした克也の肩を峰が掴んだ。面倒くさそうに振り向いた克也が峰の手を軽く払いのけると、ふっと溜息をついた。
「なに? 品行方正なミネ君は狂犬の相手はしないんじゃなかったの?」
「聞こえてたのか。耳まで逝っちまたのかと思ったぜ? 言われっ放しとか、らしくないだろ」
「らしくないとか言われる程お前と親しかった記憶ないんですけど」
自分に背を向けて歩き出した克也に、峰が鋭く舌打ちすると吐き捨てるように言った。
「……櫻井。お前は狂犬なんかじゃない、ただの腑抜けた負け犬さ」
克也が振り返り峰を睨んだ。
自分の噂を知らない訳でも無いだろうに、恐れげもなく真向から自分を睨み返してくる峰の眼に、煉の事など一瞬にして頭から吹っ飛んだ。周囲の誰もが自分を横目で見ながら、しかし誰も正面から目を合わせようとはしない。そんな中、こいつは俺から目を逸らさない。自分を睨む峰の眼に、久し振りにイラっときて、同時にゾクゾクした。いやワクワクか? どちらでも構わない。俺のこと負け犬とか言いやがって、こいつ、ぶっ殺してやる……
二人の険悪な雰囲気に惹きつけられたのか。雨に湿った物陰から影を凝縮したような黒い小鬼達が姿を現した。煉がはっとした表情で振り返り、幾匹もの小鬼が睨み合う克也と峰の足元に這い寄るのを視て軽く舌打ちした。と、煉の手がぼうっと光を帯び、次の瞬間克也と峰の身体に這い上がろうとしていた数匹の小鬼が燃え上がった。小さな悲鳴をあげて小鬼達が灰と化し、それを見た他の鬼達が先を争って物陰に隠れようとする。
「うわっち、何だよこれっ!」
自分のすぐそばで燃え散る小鬼から飛びのきながら克也が煉を振り返った。逃げようとする小鬼を掴むと音も無く燃やす煉を見て、克也が驚愕に目を見張った。一方、悲鳴を上げながら逃げ惑う小鬼も煉の手の中の炎も見えず、しかし一瞬の熱を頬に感じ、なにやら毒気を抜かれた峰が首を傾げて克也に声をかけた。
「おい、一体どうしたんだよ、櫻井」
「どうしたもこうしたもねーっ、このガキ、今……」
「今日みたいな、じめついた日には集まり易いんだ」次々と小鬼を燃やしながら煉が肩を竦めた。「だからさ、こんなところで喧嘩なんかしないでよ、メーワクだから。赤の他人の後始末させられるこっちの身にもなってよね」
……このガキ、一体何者なんだ? 煉が何を言っているのかさっぱり分からず首を傾げる峰の隣で、克也はただ呆然と立ち尽くしていた。
「じゃあ、俺もう行くから」
「待てよ!」「待って!」素っ気無く二人に背を向けた煉を克也と峰が慌てて呼び止めた。煉が峰を振り返ると寂しそうに微笑んだ。
「さっきはごめんね。人違いだったんだ。だから気にしないで」
それだけ言うと歩き出した煉の頭を克也ががっちりと摑んだ。
「おいこら、俺は無視か。ってか、お前びしょ濡れじゃん!」
「……別に濡れたくらいで死にはしないよ」
「死ななくったって風邪くらいひくだろ」
無言で立ち去る煉に克也が溜息をつくと、背後からバサリとジャケットをかぶせた。
「来いよ。温かいもんでも飲もうぜ。(あっでも俺金ねーや) ……峰の奢りで」
「はぁっ?!」
❀ ❀ ❀
喫茶店で無言でココアを啜る煉と、それを黙って眺めている克也の間に峰が居心地が悪そうに座っている。俺は一体ここで何をしているのか、峰がそっと溜息をついた。
「えっと…… さっき、人違いって言ってたけど、誰と間違えたの?」
煉がチラリと峰を見上げ、すぐに視線を下げるとずずず、とココアを啜った。
「……兄貴」
「えっと、お兄さんは、もしかして家出か何か……?」無言の煉に、峰が少し慌てた。「あ、ごめん、別に詮索しようとかそういうつもりじゃないから……」
「コラ、煉。ここは峰の奢りだからな、返事ぐらいしてやれ」
「櫻井!」峰が隣に座る克也の脇腹を肘で突くと、急いで煉に向かって 「気にしないでね」と言って微笑んだ。そんな峰の優しげな顔を煉がぼんやりと見つめた。
やっぱり似ているな、と煉は思った。別人だけど、でも色素の薄い柔らかな髪とか、優しく落ち着いた表情とかが、すごく似ている。
「……兄者……兄貴とはもう長い間逢ってないんだ。とてもとても、気が遠くなる程長い間探しているのに、どうしても見つけられなくて。あんたは後姿とか雰囲気とかが、兄貴にすごく似てるんだ」
煉が俯いて唇を噛んだ。不安で気が狂いそうになる。髪を掻き毟り、人目も構わず叫び出したくなる。そして目につく全てを壊したくなる。もう二度とあのヒトに逢えないのではないかと思うと……。
気まずい沈黙を破るように克也が軽く咳払いした。
「あ~、お前さ、さっき言ってた、交換条件って何?」
「……別に、もういいよ」
「いや、でも何か欲しいものがあったんだろ? まぁ俺の今月の予算じゃ無理かもしれないけどさ、こっちも言い出した手前、気になるだろ?」
しばらく考えてから、煉がぽつんと呟いた。「……人魚に会いたい」
「ニンギョ?!」
「ある人に聞いたんだ。人魚のいる水族館があるって。でもそれがどこのことなのか、わからなくって」
「煉、おめーな、少年の美しい夢を壊すようで悪いけど、人魚ってのは、伝説上のイキモノなの。龍とかと一緒で存在しないの」
煉の無表情な眼が克也を見つめた。「龍は存在するよ。人魚もね」
「えーっと、ちょっと待って」峰が首を傾げた。「水族館って言ったよね。水族館にいる人魚って、もしかしてジュゴンのこと?」
「ジュゴン?」と克也が聞き返した。
「あぁ、南海の人魚って呼ばれてて、飼育とかすごく難しいらしいんだけど、日本でも確か関西の方で飼育している水族館があったはず……」
「関西って、遠いな、おい」と言いかけた克也が、先程までの暗い表情が嘘のように目を輝かせて自分を見つめる煉に気付いた。克也が髪を掻きむしってため息をついた。
「……まぁ、月末のバイト代が入ればなんとかなるか」
3
「こらこら、迷子になるなよ」
待ちきれないように水族館の入口に駆け込もうとする煉に克也が声をかける。
「……で、何でお前がいるの?」
克也の隣で峰がふふんと鼻を鳴らした。
「櫻井だけじゃレン君を巻き添えにしてあさっての方向に突き進みそうだからな、目付役だ。ついでに言えば泳ぐ哺乳類の観察は俺の趣味だ。特にジュゴンは人魚伝説のモデルだからな、機会があったら一度見ておきたいと思ってたし」
「人魚ねぇ」
「人魚に関する伝説って日本各地に結構色々あってさ、有名どころでは八百比丘尼とか……」
二人の前を歩いていた煉が不意に振り返り、ちらりと峰を見た。
「なんじゃそりゃ」
「人魚の肉食べて八百年生きた女の話。人魚の肉って、不老長寿の妙薬だと思われてたらしくってさ、そのせいでジュゴンも乱獲されたらしい」
「ふーん、そりゃジュゴンにはいい迷惑だな。おい、煉、『人魚の森』はこっちだって……」
途端に駆け出した煉の後ろ姿に峰が目を細めた。
「レン君って妙に大人っぽいけど、あんなにはしゃいじゃって、やっぱ子供だね。可愛いとこあるよな」
「あいつは可愛いなんてタマじゃねーと思うけど」
「俺さ、一人っ子だし、親戚にも小さい子っていないんだ。だからなんか新鮮でさ。俺、将来子供最低5人は欲しいな」
「うわ、今の発言すげー引くわ。それ彼女とかに言わない方がいいぜ?」
のんびりと克也と峰が連れ立って歩き、煉に遅れてジュゴンの水槽の前に来た。ジュゴンの水槽に張り付いている煉は無言で身動きひとつしない。
「お~、あれがジュゴンか。人魚伝説のモデルねぇ」
「写メ撮っておこうっと」
巨体を揺らめかせながら愛想良く見物客達の前を行ったり来たりするジュゴンの姿に峰がはしゃぐ。克也がふと見ると、隣に立つ煉がふるふると震えている。
「煉? どしたん?」
「……こ、こ、こ」
「こ?」
「コレのどこが人魚ナンダーーーっっっ」
❀ ❀ ❀
水族館の海を見渡す屋上で、霧雨の中、煉がうなだれてフェンスにもたれていた。そんな煉の背後のベンチでは困り顔の克也と峰がひそひそと話していた。
「参ったな……」
「まさかこんなにがっかりするとはね……」
「ちっ、しょーがねーな」克也が舌打ちすると突如すっくと立ち上がった。「おい、煉。何を隠そう、この俺様はかつて国体の人魚と呼ばれたスイマーだ。自分で言うのもなんだが、ジュゴンとやらよりはルックスも人魚に近い。俺が人魚のコスプレをしてやるから、それで我慢しろ。なんなら峰の半魚人コスプレもオプションでつけてやるぞ」
「アホかっ! 半魚人はお前がやれ!」と峰が喚いた。「ったく、ヒトに変な想像させてる暇があったらジュースでも買って来いよ」
笑いながら売店へ歩いていく克也を煉と峰があきれた顔で見送った。
「レン君、ごめんね、がっかりさせちゃって。先にジュゴンのこともっとちゃんと説明しておけば良かったね」
「ううん、こっちこそ、わざわざ遠くまで付き合ってくれたのに、気を遣わせちゃってごめん……」
煉が売店の方をちらりと振り返った。
「あのさ、克也、あいつ、『かつては』とか言ってたけど、何で過去形なの?」
峰が少し迷い、やがて海を見ながら低い声で話し始めた。
「……櫻井は幼年期から将来を有望視されてた選手だったんだ。肉体にも才能にも恵まれたいわゆる天才スイマーでさ。奴の泳ぎは本当に綺麗で、完璧なフォームが凄く自然で、まるで水の中に在る為に生まれてきたような奴だった。だけど一年前、オリンピック選考会の直前に交通事故で……」 口籠った峰の背後から、不意に克也の声がした。
「腕神経叢損傷。俺の右腕、ほとんど動かねーの」振り向いた二人に屈託なく笑いかけると克也が缶ジュースの入ったビニール袋を振った。「コーラ、レモンティ、オレンジジュース、どれがいい?」
峰が気まずそうに目を逸らし、缶を受け取ると少し離れたベンチに腰掛けて克也の笑顔から顔を背けた。黙って海を眺めながらジュースを飲む煉の隣に立つと、克也が軽く伸びをして右肩を揉んだ。克也の右肩には、とてもとても小さな暗い色の小鬼がちょこんと座っていた。
「あのさ、お前、生まれた時から物の怪やら妖やら珍しいモン見てきたんだろ?なのに何で人魚にそんなにこだわるんだ?」と克也が煉に尋ねた。
「……八百比丘尼」
「は? それってさっき峰が話してたやつ? なんだっけ、人魚の肉を喰って不老長寿になったとか……」
あのね、と海を見つめたまま煉が呟いた。
「人魚は歌を紡ぐんだ。海を渡る風の音、風に舞う浪の花、岩を砕く波、その波を凍らせる雪、そしてそこに生きるモノ。人魚はその全てを歌に紡ぐ。一度聞いたら決して忘れることの出来ない、透明な生命の歌を」
克也が海を見つめる煉の横顔をそっと窺った。
霧雨に濡れる海は遥かな水平線の果てで鈍色の重い空と交じり合い、ふたつの世界の境目は余りに曖昧だった。しかしこの霞んだ景色を見つめる煉の眼には、何か違うモノが映っているのかもしれない。
「……天還」不意に煉が呟いた。
「え?」
「草木をはじめとするありとあらゆるモノに宿る精霊達。神々。そして鬼。此の世は美しく、醜く、不可思議で、懐かしく、愛おしいモノで溢れている」
鈍色の空と海の境目に立つ少年の艶やかな黒髪を潮風が乱す。
「俺はただ、俺と一緒にこの世界をみてくれるヒトを探しているだけなんだ」
俺が共に世界をみたいと願う、たったひとりのヒトを。俺と共に歌を紡ぐヒトを。
克也が何か言いかけてやめ、煉の横顔を見つめた。右腕を揉む克也の肩を煉がちらりと見上げた。
「……痛いの?」
「え? ああ、まぁ、冷えるとちょっとね。我慢出来ないほどじゃない」
「ソレ取ったら少しマシになるんじゃない?」
「え?」
不意に克也の右肩に手を伸ばし、小鬼を捕まえようとした煉を克也が左手で素早く遮った。小鬼が怯えたように克也の襟に隠れる。
「お前さ、初めて出会った時、黒っぽい鬼みたいな奴等を燃やしただろ? あれってお祓いみたいなモン? 」
「まぁね」と煉が言うと、克也があきれたように笑った。
「チビのくせにホントすげーな、お前。でも、こいつは燃やしちゃだめ」
「なんで?」
「こいつ、俺のペットなの」
「はぁっ?!」
煉の反応を楽しむように克也がにやりと笑った。「ちなみに名前はレン君」
「……なんであんたの鬼に俺の名前がついてるんだよ」 口を尖らせ、さも嫌そうに顔をしかめる煉を見て、克也がにやにやと笑う。
「かわいいだろ、このひねた顔とか、お前にソックリでさ。俺さ、お前の話聞くまで、ずっとコイツのこと皮膚病のピグミーマーモセットの幻覚だと思ってたんだよね。コイツ、毛が生えたらさらに愛玩動物風になると思うんだけど、鬼用毛生え薬とかない?」
煉が呆れたように溜息をついた。
「あんた、本当に変わってるね。それって、あんたの心の闇に巣喰う鬼だよ? そんなもん憑けてたって、百害あって一利なし」
克也が襟元から顔を出した小鬼の耳をくすぐる。
「あーあ、レン君、こんなにカワユイのに、ヒドイ言われようだねぇ」煉が舌打ちして目を逸らした。
「一体さっきから何の話?何でこいつ自分の襟首に話しかけてんの?」と背後のベンチに腰掛けた峰が尋ねた。
「あー、何というか、話せば長くなるんだけど……」と克也が言いかけると、煉が不意に峰の額に手を当て、「視える?」と言って克也の肩を指差した。
「うわ、ナニソレ?!」克也の肩を見た峰が目を剥いた。
「鬼」と煉が答える。
「オ、オニ?!」
「なに? 峰も見えるようになっちゃたわけ?」と驚く克也に煉が頷いた。
「一時的にね。人にもよるけど、数分から数時間ってとこかな」
「百聞は一見に如かずってか」克也が小鬼を指先に絡ませて峰の目の前に突き出した。「コンニチワー、レン君デース。ヨロピク♡」
峰が顔をしかめ、慌てて飛びのいた。「やめろよ! 俺、虫系ダメなんだよ! おまけになんかソレ病気っぽくね?!」
「む、虫とはなんだよ、失礼な奴だな」と文句を言う克也を見て煉が笑った。
「当たらずも遠からずでしょ? それって正にパラサイトだもん」
「この可愛さを分かち合える友が欲しい…… 」
いじける克也に峰が白い目を向ける。
「俺、今痛感した。お前とは絶対分かり合えない」
峰の言葉に克也がちょっと肩を竦めて笑った。「ま、別にいいけどね」
そんな克也から峰がふと目を逸らした。「……櫻井ってさ、諦めるのはやいよな。潔いのかも知れないけど、でもそれってなんかムカつく」
克也がキョトンとした。「は?なに怒ってんの?ってか、分かり合えないとか言ったのお前じゃん」
「……俺はわからないんだ。何故お前が “普通” でいられるのか」何か苛つきを吐き捨てるような峰を克也が目を細めて探るように見た。
「あのさ~、前から不思議に思ってたんだけど、お前ってなんかいつも喧嘩腰だよな。疲れない? そーゆーの。もうライバルでもないのにさ~」 やめようぜ、メンドクサイじゃん、と言って克也が笑った。
長い間、無言で海を見つめていた峰が不意に、俺は許せないんだ、と呟いた。
「知っているか? お前が泳ぐ時、俺はいつも誰よりも近くでお前を見ていた。俺のすぐ前を行くお前の、届きそうで届かない、あの絶対的な距離感。そこだけ世界が止まってしまったような、音のない水飛沫。あの景色を永遠に失ってしまったことが、そしてそれを全く意に介さないお前の態度が、ただ悔しくて、やるせなくて、何もかもが許せない」
お前なんか、いつか追いつき追い越してやるつもりだったのに。手が届かないまま、お前は俺の前から消えてしまった。そう呟き、峰が悲しげに笑った。
「何故なんだ? お前が泳ぎを失い、お前のいるあの景色を失って、俺の世界はこんなにも揺らいでいるのに、なんでお前自身は笑っていられるんだ? 俺にはどうしてもわからない。わからないから、余計に許せないのかも知れない」
峰の言葉に耳を傾けていた克也は、そのまま長い間無言で灰色の海を見つめていた。やがて海に目を向けたまま、微かな笑みを口許に浮かべた。
「煉に初めて出会ったあの交差点で、一年前、俺は車にはねられて、びっくりする程高く吹っ飛ばされた。その時、本当に久しぶりに空を見たんだ」
✿
濡れた路面に急ブレーキの音が響き、傘が空に舞った。街のざわめきや、人々の悲鳴がひどく遠く感じられ、一瞬、無重力空間にいるのかと錯覚する程、俺は灰色の空に近づいた。鈍色の雲が不意に割れて、その切れ目から光が射し込み、蒼い空が目に映った。細い隙間に覗いた空は、本当に蒼く澄んでいて、とても綺麗だった。
地面に激突する瞬間、やけに冷静に考えた。俺は物心付いた頃から、いつも水の中ばかり見ていて、空を見上げたことなど数える程しかなかった。これで死ぬなら、もっと、もっと、空を見上げておけば良かった、と俺は思った。
衝撃、そして暗闇。
どれほどの間意識を失っていたのだろうか。目が覚めたら俺は消毒の匂いのする病室にいて、自分を呼ぶ両親の咽び泣きや詰めかけた友人の声が水の中みたいに霞んで聴こえた。生きてることが信じられなかった。うっすらと開けた目に映る人々の影。喜ぶ声。窓のカーテンの隙間から射し込む陽が眩しかった。その暖かな光に、俺は知った。俺はこれから幾度でも空を見ることが出来る。幾度でも、幾度でも、生きている限りずっと……。
切れ切れに医者の声が聞こえた。
「……峠は越えましたが……腕の神経叢の損傷が激しく……右腕の機能は……」
泣き崩れる母親の声を遠くに聴きながら、俺は穏やかな眠りに落ちた。
✿
「本当に俺、純粋に嬉しかったんだ。生きて、もう一度空を見れるってことが」克也が寂しげに微笑んだ。「でも俺の周りの奴らは違った」
✿
病院で、家で、学校で、次々と自分にかけられる言葉。
「無理しないで、克也」「まだ若いんだ、これからいくらでも」「信じて待ってるから」「諦めないで」「あんな若くで」「できるものなら代わってやりたい」「あいつはもうダメだ」
「可哀想に」
可哀想に……
カワイソウニ……
言葉言葉言葉。空虚な慰めも同情の溜息も励ましも嘲笑も邪気の無い笑い声でさえも、全ての音が俺の周りで渦を巻き、いくら耳を塞いでも、ねっとりと湿り気を帯びた生き物のように俺の内に染み入り、俺の息を詰まらせる。水から陸に上がり、俺は初めて溺れる恐怖を知った。
俺に隠れて泣いている母親の腫れた目を見たくなくて、雨の中、ただひたすら街をほっつき歩いた。わけもわからず何かが口惜しく、息苦しく、酷く苛ついた。荒んだ表情で誰彼となく喧嘩を売り、誰でもいいから殴りつけ、そしてわざと自分を殴らせた。殴られれば、その痛みでこの悪夢から目が覚めるんじゃないかと期待していたのかもしれない。
そんなある日、ふと見たビルのショーウィンドウに自分の姿が映った。雨に濡れ、水から上がったばかりのように髪から雫を垂らし、切れた唇の端に血が滲んでいた。そんな自分の姿に、どうしようもなく嗤いがこみ上げてきた。心の内側にまで染み入り、じっとりと重く濡らす雨の中、俺は独り嗤い、嗤い続けた。
その時不意に、右肩の小鬼に気付いた。
感情のない、ただ暗く深い淵のような瞳で、こいつは俺を見つめていた。憐み、憤り、嘲り、哀しみ、俺の周りに渦巻いていた全ての感情と、そして俺自身が、その淵に吸い込まれてゆくような気がした。その底の無い暗さの中に、何故か不意にあの日見た空の蒼さを想った。
「我に返ったら、なんだか全てがどうでもよくなった。俺は腕を一本失った。それは俺にとってとても大切なモノだったけど、でも俺の全てじゃない。」
克也が指先で優しく小鬼の頭を撫でた。
「物心付いた頃から、俺はいつも水の中にいた。本当に泳ぐことが好きだった。だから、悲しい。最後に心から楽しんで、ただ純粋に水の中にいたのがいつだったのか思い出せないことが。だけど口惜しかったのは、周りの奴等に 水泳だけが俺の全てだと、水の中に在ることでしか自己の価値を見出せない人間だと思われていたということ。俺はそれだけじゃない。俺は人魚じゃないんだ。水の外にも世界は存在して、俺はそこでも生きていける」
克也が自分を見つめる峰に微笑みかけた。
「他人から見れば俺はきっと可哀相な奴なんだろう。解ってもらえないのが辛くないとは言わないけれど、でもたとえ誰にも解って貰えなくても、俺自身は何も変わらないということを、コイツは俺に教えてくれた」
潮風を胸一杯に吸い込み、吐く息と共に全身の力を抜くようにして克也が笑った。
「俺には尾ビレも水掻きもなく、そしてとても自由だ」
「……やっぱりあんたは変わってるよ」煉がぽつんと呟いた。
鬼の棲む闇。闇を宿すヒトの心。でも誰も、何モノも、抱える闇の重さですらあんたの心を縛ることはなく、あんたは独り自由に歌を紡ぐ。でも独りぼっちでみる世界はあまりに広く、寂しくて、その寂しさにあんたの心が軋み、歪むことはないのだろうか。俺のように……。
清々しい表情で水平線の彼方を見つめる克也の横顔を煉がちらりと見上げた。
そばにいるよ、と胸の中で囁く。あんたは独りで自由に生きればいい。でも、もしいつか、あんたが誰かを必要とする日が来たら、その時は俺がそばにいてやる。そっと克也の右手に触れてみる。その手はひんやりと、僅かに左手よりも冷たかった。
「あったけーな、お前の手。人間ホッカイロじゃん」
屈託なく笑う克也の肩の上で、ちんまりと膝を抱えた小鬼が無表情な暗い眼で煉を見下ろしていた。
克也が霧雨の降る空を見上げた。
「少し空明るくなってこない?」
「もうすぐ梅雨明けだしな」
「よし、どうせなら海岸まで行ってみようぜ」
「う~み~は広い~な大き~な~♪」
楽しそうに浜辺を歩いていた克也が、突如煉の肩越しに砂浜を指差して叫んだ。
「あーっっっ!アレ、アイツ、あの時の!」
浜昼顔の茂みから、のっそりと天還が顔を出し、海に向かってゆっくりと這っている。
「天還。違う個体だよ。言ったでしょ、連中はこの季節どこにでもいるって」
「うーむ。何度見ても味のある姿だなぁ。しかし気のせいか、前に見た奴よりも目玉のようなぶつぶつが大分多いような気が……」
「気のせいじゃないよ。アレ、増えるんだ」
大きく膨らんだ目玉に全身をみっしりと覆われた天還が湿った浜辺をのそりのそりと這う。少し遅れて二人に追いついた峰が後ろから、「何見てるんだ?」と訊いた。
「あぁ、あそこにいるデカイ蛙、天還っていってさ~」と克也が天還を指差すと、「蛙?」と言って峰が首を傾げ、克也の指差す方に目を凝らした。
「……お前達、またヒトが見てはいけないモノを見ているのか」
「あれ、お前、もう見えなくなっちまったのか。煉に頼んでもう一度見せてもらえば?」
「いや、せっかくだけど遠慮しておく。俺、両生類はちょっと……」
「なんだよ、お前、哺乳類以外で大丈夫なモンあるのかよ」
不意に空が明るくなり、雲の切れ間から光が射し込んだ。
「あ! あれ……」天還を指差し、克也が驚いたような声を上げた。
天還の背中の目玉が身体を離れ、次々とシャボン玉のように光の中を昇ってゆく。
「天還がナニカを見ると、ソレは目玉となって身体に現れ、時と共に天に還る」
煉が空を眩しそうに見上げて呟いた。
「なんか、雨上がりの空気って光ってるよな。なんでだろうな」と峰が言った。
「それはお前の苦手な両生類のお陰だ」 輝く蛙の目玉のシャボン玉を見ながら克也が楽しそうに笑った。
天還と共に天に還る想い。
一際大きな目玉が煉を見つめつつ空に昇る。不意に強く思った。
俺も、還りたい……。
胸を突く想いに指先が痺れた。淡くひかる珠を追い、波打ち際に足を踏み出した。
不意に克也に強く腕を掴まれた。
「煉」ひどく真面目な顔で克也が煉をじっと見つめた。
「いくらお前が人間ホッカイロでも、泳ぐにはまだ水は冷たいぜ?」
長い間、無言で克也を見つめていた煉が、やがてかすかに微笑んだ。
「……そうだね」
今はまだいかない。
此処にとどまる理由が在る間は、俺はどこにもいかない。
空の蒼さにあの人を想う。
見上げた空の彼方、シャボン玉はすでに遠く、もはや瞳には映らなかった。
雲の切れ間から覗く澄んだ空が遠い。




