エーデルワイスの花束を
突然空の向こうまで鳴り響いていく大きな花火のような爆発音を耳にしたアイリスは足を止めて町の門がある方へ振り返った。
病院まではもうすぐ。
ここまであの大きな魔物と遭遇することはなかったが別の通りからは剣を打ち合う音や兵士たちの声が飛び交っている。
「なに、いまの……」
続けて大きな波が打ち寄せるような音と共に大勢の人が叫ぶ声がした。
あの場所でなにかあった。きっと、よくないことが起こっている。
背筋を撫でられるような悪寒が走り少しずつ心臓の鼓動が速くなっていく。ナーガや二人への心配が遠ざかり急に怖くなってきた。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
アイリスは間隔の短い呼吸を繰り返しながら狼狽えたまま誰かの姿を探して辺りを見回した。
誰もいない。巻きこまれないように人のいる場所や魔物が通れそうにない道を選んでいたせいだ。
大変なことが起きている予感がする。どうしよう。
あの大きな魔物にみんな襲われて、ユーリくんもヴィオラも殺されて━━
心細さが嫌な想像ばかり呼び起こしていき、アイリスは加速し続ける胸の鼓動を両手で押さえつけながらぎゅっと目を瞑った。
そんなはずない。大丈夫だって言ってた。ちゃんと帰ってくるって約束もした。だからあたしも言われたことをやらなくちゃ。
足元を見つめたまま病院の方へ駆けだしていきながら、迫りくる焦燥感、つま先から昇ってくる冷たさに首を振る。
違う。そんなことない。
速くなる胸の鼓動に咎められたような気がしてアイリスは小さく否定の言葉を口にした。
あたしはやらなくちゃならないことをしようとしてるだけ。ナーガちゃんの様子を見に行かなくちゃならないだけ。だって二人はナーガちゃんが心配で気になってるだろうから。安心させるために絶対に行かなくちゃならない。
だから心配だけど、信じて任せるって決めたんだ。
「っ……」
それが言い訳でしかないことはわかっていた。ずっと前から知っていた。
目頭が熱くなりドレスの袖で涙を拭った。アイリスは立ち止まって路地に入ると物陰に座りこんで耳を塞いだ。
あたしはただ、逃げようとしてるだけだ。大変なことになってるってわかってるのに理由ばかり見つけて逃れようとしている。
それでも怖い。死ぬかもしれないと思うと動きだせなかった。それどころか、想像してるよりも残酷な殺され方をされるかもしれないと考えただけで身体の震えが収まらなかった。
こうしていればきっとすぐに終わる。誰かがなんとかしてくれる。いつかきっと静かになってくれる。
そのとき路地の外を慌ただしく何人かの足音が通り過ぎていった。耳から手を離して顔を上げたアイリスのもとへ大通りまで走っていく足音が届く。
大きな音があちこちで起こっていた。生きていたときには聞いたこともないような命が揺れ動く音。死への恐れを抱かなかった世界にはなかった音色。
待っていればなんて、そんなふうに都合よく救いが降りてこないことをみんなわかっている。誰もがこの町のために必死で頑張っていた。
自分にはそんな勇気はない。だからできる人たちだけでやってくれればいいんだ。
あたしはただ巻きこまれただけ。卑怯でも薄情でもない。だって自分よりも安全な場所で他の人に任せて隠れているだけの人たちだって大勢いる。
転生者だからって、聖剣を持っているからって理由だけで立ち向かう勇気を求められても無理なものは無理なんだ。
でも。
そのとき頭を抱えたアイリスの脳裏にユーリたちの姿が浮かんだ。
そうやってなにもしないまま、もしも本当にみんながいなくなってしまったらどうしよう。
涙で滲んだ暗がりの中に想起されていったのは、アイリスがまだ彼らと出会う前の記憶だった。
この町のそばで突然目が覚めて、わけがわからないまま何日ものあいだこのアンスリムで過ごした日々。
あのときもこんなふうに一人ぼっちで路地に座りこんでいた。空腹と寂しさを抱えたまま歩いていく人波を見つめていることしかできなかった。
みんな通り過ぎていくだけで誰もアイリスに声をかけてくる者はいなかった。
誰も手を差し伸べてくれなかった。
彼らは助けを求めようとしたアイリスに向かって転生者を装った卑劣な冒涜者だと罵倒するだけでまるで相手にせず軽蔑したように追い払うだけだった。
そんなふうにして昼間は人目を避けて物陰で過ごすようになり、夜になれば誰もいない港へ行って浅い眠りを繰り返すような生活を送らざるを得なくなっていた。
まるで自分だけが世界のほとりに立っているような心細さと静けさで埋まった疎外感。思いだせない罪の残響に苛まれながら、心を蝕まれ続けながら。
「ユーリ、くん……」
抱き寄せた膝に顔をうずめながら小さく名前を呼ぶ。
見ず知らずのあたしをあの化け物から守ろうとしてくれた。あたしの不注意で捕まったときも、あの女の人に襲われたときも真っ先に。
あたしよりも子どものくせにいつだって誰かのために戦おうとしてる。
あたしにはあんなふうに誰かを守るために戦う勇気なんてない。
「っ……」
けれど。
もしも、ほんのちょっとだけでも勇気を出せるなら。
あの人がくれた居場所だけは守りたい。
少しも楽しくなくてつらいことばかりだけど、陽だまりみたいにあたたかくて安心できる場所。
みんなと一緒に過ごした日々、重ねた時間の繋がりまで失ってしまいたくない。
なにより、そんなぬくもりをくれたあの人のためにも。
アイリスは顔を上げて涙を拭った。
行かなくちゃ。
立ち上がって道を引き返し大通りに向かって駆けだしていく。
ここで勇気を振り絞れなかったらあたしはこれからずっとなにもできなくなる。
狭い部屋。白いカーテン。割れた鏡の中で病衣を着た少女。ベルトのついたベッド。握りしめた破片の痛み。
意識の奥底からなんらかの既視感がある光景がふわりと浮かび上がって消えていった。きっと、心のどこかは忘れられないままでいる。
嫌なことから目を背けちゃだめだ。
そんなのはもう、いままで何度もやってきた。