フウセンカズラは実らない
マイルズはあっけなく死んだ。あの花を添えてすぐ。
仕える主人が死んで、ヴィートは少しの虚無感を覚えていた。好々爺のおじいさん。やわらかい物腰で、失敗の多いヴィートを叱らない。
ヴィートが初めて仕えた人だ。少し悲しくなってもおかしくない。父に遺品の整理を命じられて、ヴィートはそれを唇を固く引き結んでこなしていた。
「あれ?」
鍵のかかった引き出しを、ヴィートは躊躇なく開けた。鍵の場所は、知っている。マイルズは、それを隠そうとはしていなかったから。
その中に、金目のものでも入っているのだろうか。ヴィートは何度も、そう思ったけれど、中に入っていたのは変色した封筒となんの変哲もないハンカチだった。
なんだろう、これ。ヴィートは封筒を裏返す。
そこに書かれていた名前は、ラツィアーナ・ド・ビルハルツだった。聞いたことも見たこともない名前。家名からして、ビルハルツ家に所縁のものだ。
処分に困ったヴィートは、それをもって当主のもとに向かった。
「……母のものだ。」
「王女殿下の、ですか!」
ヴィートは思わず身を乗り出した。自分の周囲にいる、とはいってもとても遠くだが、身近に感じられる中で最も高貴な人のものと知って、ヴィートは心が躍った。だが、それにテレンツィオは苦笑する。
「違う。父の妻だった人のものだ。」
「マイルズ様の、奥方様?」
終ぞそんなことは聞いたことがなかった。マイルズに妻がいた事実も、話も、誰からも聞いたことはない。
「ああ。前時代のために犠牲になった人だよ。」
テレンツィオは、とても柔らかい表情で、その人の話をした。普段からほとんど表情を変えないという当主にしては珍しい表情だった。その時代を知らないヴィートにも分かりやすいように噛み砕いて話す様は、ヴィートが知っている当主の顔ではない。
「……なんだか、悲しいお話ですね。」
ヴィートは心のままにそう呟いていた。その女性が、テレンツィオの言う通りの人だったのなら、あまりに気の毒な話だ。恋心を抱いていた男のために、死に向かって歩いていたなんて、報われなさすぎる。
「そうだな。」
「マイルズ様は、どう思ってらっしゃったのでしょうか。」
会ったことも見たこともない女性だ。この家には、妻だった女性の姿絵すら残されてはいない。聞く限り、慎ましかったその女性の痕跡はこの家にはなかった。だが、ヴィートはこの上なくその女性に同情した。一度も妻について語ったことのなかった主を、恨めしいとすら思う。
あまりに報われないその半生は、その時代を知らないヴィートの心すらごっそりと抉っていった。
「父は、同情だと言っていた。母に抱いたものを。」
王女殿下には懸想していたと正直に、息子に告げていたらしい。あの好々爺が面白そうに話しているのは想像に難くない。
「贖罪だとも言った。後妻を取らず、私を養子にしたことも。新しい時代を共に築いた同志で、だから、この時代を育て上げねばならぬ。それが父の口癖だった。」
引退前のマイルズの顔を思い出しているのか、テレンツィオは目を細めた。
「同情、贖罪、同志。そう呼びながら、父はいつもその手紙を読んでいた。」
だが、私には、それが父の愛に思えてならなかったよ。
テレンツィオは、とても寂しそうにそう言った。ヴィートが知る限り、二人は養子と義父の関係にしては、とても近しかった。
だから、テレンツィオがそう言うなら、きっとそうなのだろう。
ヴィートは初めて、自分が仕えていた人が英雄だったのだと、心から思った。毎日、毎日、マイルズが詣でていた石碑の意味も今ならわかる。
あの石碑の下にはきっと、何もない。ヴィートが想像している通りなら、その人の亡骸はマイルズのもとには渡らなかっただろうから。
「それは、父の棺に一緒に入れてやってくれるか。」
テレンツィオの指示にヴィートはしっかりとうなずき、頭を垂れた。
きっと、マイルズとこの手紙の女性が、あの世で会うことはできないだろう。来世というものがあっても、きっと、その運命は交わることはない。
だが、この手紙だけはマイルズに、ずっと寄り添い続ける。安らかなマイルズの亡骸に、そっと手紙とハンカチを握らせた。硬くなったその手は、しっかりとそれを握りしめる。
これを、愛と呼ばずして、何と呼んでやればいいのだろうか。
ヴィートは、英雄と呼ばれた人をそっと見送ってから、初めて石碑を詣でた。
石碑に、花を供えようとして、ヴィートは手を止めた。
そこには、すでに枯れたフウセンカズラが、そっと置かれていた。
これで完結とさせていただきます。
お付き合いいただき、ありがとうございました。