第1話 バイエルンの洞窟と、8メートルの「赤子」
ベルリンの深夜、クーダム通りのネオンがホテルスイートの窓ガラスを通して、床に細かい光の粒を散らしていた。
外の車の音は二重ガラスで柔らかく濾され、部屋の静寂をより際立たせている。
木江民は窓際の黒檀の机にもたれ、指先に無菌サンプルケースを挟んでいた。
ケースの中には手のひらほどの生体組織が入っている。筋繊維は驚くほど緻密で、中に埋もれた数本の太い紫黒い血管は、極めて弱い頻度でまだ脈打っていた——8メートルの巨体が死んだ後も、その欠片は執拗に生命力を握りしめているようだった。
彼女の指先には長年銃を握ってできた薄い茧があり、指節は綺麗に整い、爪は余分な装飾もなく短く切り揃えられている。
黒いスーツの袖口には落とせない暗褐色の染みがつき、洞窟の中で飛び散った怪物の体液だ。張りのある生地には岩屑で裂けた細い傷も数か所あるのに、襟元の白いシャツは一番上のボタンまできっちりと締められ、乱れがなかった。
特徴的な鮮やかな赤い瞳を垂らし、サンプルケースに視線を落とす時の彼女の目には、僅かな冷たさが宿っている。次の瞬間、ケースを恒温サンプルボックスに入れ、ロックを閉める。
「カチャ」という乾いた音は、まるで銃のスライドを引く音のように、静寂の部屋に響いた。
彼女は携帯端末の仮想キーボードを開き、指先でライトスクリーンに文字を打ち込んでいく。その文体は、裁決会最高責任者が書く任務報告書とは思えないほど気まぐれで、まるでコンビニの買い物リストを書くように随意だった。
任務番号:20280323-01
記録者:木江民
日付:2028年3月23日、曇り
場所:ドイツ・バイエルン森林、未登録地下鍾乳洞、仮称:クリス洞窟(別に深い意味はない、呼びやすいから)
この任務は、山に入った瞬間から何かがおかしいと感じていた。
洞窟の外の林は、不自然なほど静まり返っていた。3月のバイエルン森林なら、鳥のさえずりやリスが枝を駆ける音がするはずなのに、その日は風までが止んでいた。腐葉土を踏む足音だけが、林の中に虚ろな反響を残す。
洞窟の入り口は垂れ下がったツタの奥に隠れていて、ツタをめくった瞬間、むせ返るほど濃い血の臭いが正面から襲ってきた。普通の野獣の臭いじゃない。腐敗臭とどこか甘ったるい臭いが混ざった、生き物の血の臭いだ。
洞窟の奥に進むほど臭いは強くなり、壁は冷たく濡れて、手袋についた粘液は羊水のようにぬるぬるしていた。
そして、その音が聞こえた。
風の音でも、水滴の音でもない。
ゆっくりと、重く、それでいて強い生命力を持った鼓動音だ。
ドン――ドン――
まるで巨大な心臓が、地底の奥で一つ一つ脈打っているような。低い振動は洞窟の壁を伝って、鼓膜を痺れさせる。
私は瞬時に銃を抜いた。特注のグロック21は手の中でちょうどいい重さで、保険はとっくに開けてあり、指先は引き金にかけられている。足音を限りなく小さくし、脇に飛び出した岩の陰に身を隠した。
暗視ゴーグルを装着すると、緑色の視界の中に、十数人の黒い戦闘服を着た人影が映った。
彼らは洞窟の奥の中心にある「何か」を囲んで、採取針やスキャナーで作業をしている。動作はプロフェッショナルで、こういう仕事に慣れているのが一目でわかる。
私は呼吸を限りなく殺して彼らの動きを見ていた。その中の一人が機材を取りに反転した瞬間、戦闘服の背中に刺繍されたマークが、はっきりと視界に飛び込んできた。
ピラミッドの上の全知の目、イルミナティ。
ああ、遅かったんだな。
私は冷たい岩に背中をもたれ、頭の中で素早く計算を回す。相手は15人、全員銃を持ち、爆破資材まで持っている。正面からぶつかって勝てないことはないが、無駄なことはしたくない。
最初は、話がつくなら金を払ってサンプルを分けてもらおうと思っていた。だが次の瞬間、彼らがあの物体の土台に時限爆弾を取り付けているのが見えた。C4のブロックが一つ一つ貼られ、導火線がまっすぐに伸ばされている。洞窟ごと、あの物体ごと、きれいさっぱり爆破するつもりらしい。
数が多い。強引に奪うのは割に合わない。
私は腰につけたレコーダーを取り出し、レンズを洞窟の奥に向けた。彼らの顔も、マークも、あの物体の全貌も、全部録画しておく。
彼らの責任者が手を上げ、起爆スイッチを押そうとしたその瞬間、異変が起きた。
あの物体が、生き返った。
暗視ゴーグルの視界の中ではっきりと見えた。それは丸く球体に丸まった人型の生物で、体長は約8メートル。まるで母体の子宮の中にいる胎児のような姿勢で、半透明の蒼白い皮膚の下には、血管が木の根のように張り巡らされていた。さっきまで聞こえていた鼓動は、こいつの胸腔から発せられていたのだ。
目覚めた瞬間、丸まっていた体は激しく伸び、それを包んでいた厚い膜は一瞬にして引き裂かれた。
濁った黄色い液体が洪水のように洞窟の底に押し寄せてくる。血やら何やらの組織が混ざった液体は、あの時の血の臭いを数十倍に膨らませた。
幸いこの鍾乳洞は十分に広かった。さもないと、この「羊水」で洞窟の外まで吹き飛ばされていただろう。
私は即座に防毒マスクを顔につけた。ゴムが肌に密着した瞬間、吐き気がするほどの臭いはようやく遮断された。
マスクの視界の中で、イルミナティの連中は完全にパニックに陥っていた。
巨大な「赤子」に理性なんてない。生まれたばかりの獣のような本能だけがある。うちわのように大きな手がひと振りされるたびに、3人の完全武装した男たちがボロ雑巾のように吹き飛び、洞窟の壁に叩きつけられた。悲鳴も上げる間もなく、息絶えている。
こいつの目は濁った乳白色で、瞳孔はない。なのに、生きているものを正確に捉えられるらしい。
数分の間に、イルミナティの15人の大半が死に、残った数人は手足を折られ、地面に倒れて悲鳴を上げていた。その声は広い洞窟の中で反響して、頭皮が痺れる。
こいつは洞窟の外の世界に好奇心を持ったらしい。巨大な体を引きずり、一歩一歩入り口の方へと進んでいく。足が地面に落ちるたびに洞窟全体が震え、頭上から岩屑がさらさらと落ちてくる。
そして、その焦点の合っていない目が、私が隠れている岩の方を掠めた。
前触れもなく、風を切って手のひらがこちらに叩きつけられてきた。
岩は一瞬にして粉々に砕け、石くずがスーツに降りかかる。私は爆風の勢いで後ろに飛び退き、この一撃をかろうじて避けた。さっきまで私が立っていた場所は、大きく凹んでいた。
こいつは立ち上がると8メートルの高さがある。新生児のように薄く見える皮膚は、実際は驚くほど強靭だ。
私は銃を構えて連射した。7発の弾丸は全てこいつの胸に命中し、皮膚を貫通はしたものの、濁った体液が数滴飛び散るだけで、動きを止めることすらできない。
逆に、完全に怒らせてしまった。
こいつはうなり声を上げた。私が想像していた赤ん坊の甲高い鳴き声じゃない。低い周波数で、人の臓器まで疼くような咆哮だった。
私はすぐさま洞窟の奥へと走り出した。走りながら持っていた時限爆弾を取り出し、10秒で起爆するように設定して、後ろに投げ込んだ。
背後で爆発の炎が上がり、熱波が私を前に押しやった。
振り返ると、こいつの片方の肩は黒こげになり、皮膚が捲れ上がっている。なのに、こいつは一歩も止まらない。逆にもっと狂ったように、私を追い殺すことだけを考えているようだった。
もう、これ以上無駄に時間を使う必要はない。
私は走るのをやめ、こちらに向かって突進してくる巨大な体に正面から向き合った。鮮やかな赤い瞳に、こいつの凶悪な姿が映っている。
指先をわずかに動かし、能力を展開した瞬間、洞窟の中の空気が完全に凍りついた。
突進してきた怪物はぴたりとその場に硬直し、次の瞬間、巨大な体は内部から崩壊し始めた。濁った体液と血肉があたり一面に飛び散り、どすんと重い音を立てて地面に叩きつけられた。
世界は、ようやく静かになった。
能力を解除し、自分のスーツを見下ろした。怪物の体液がびっしりと跳ね返ってきて、ねちゃねちゃと臭い。眉根をぎゅっと寄せ、吐き気を抑えながら新しい採取針を取り出し、まだ完全に失活していない体から組織サンプルを数本採取し、サンプルボックスに封入した。これで少し経てば、裁決会のベルリン支部に送れる。
手についた汚れを拭い、立ち去ろうとしたその時、洞窟の入り口から足音が聞こえてきた。
来たのは、顔馴染みの女だ。
この先のことは録画してある。自分で見ろ。書くのが面倒くさい。
端末のライトスクリーンが暗くなる瞬間、洞窟の底の光景はそこで止まった。
裁決会ベルリン支部のオフィスで、ナランヤはこの報告書を3回も読み返し、最後はため息をついて、隣に立つアシスタントに向かってぼやいた。
「ボスの報告書って、本当に適当すぎるわ。プロフェッショナルとしての自覚が全然ない……」
スクリーンには、レコーダーが捉えた続きの映像が流れていた。
カメラが少し揺れてから安定し、画面の中にエヴィータの姿が映った。彼女は洞窟の壁にもたれ、白い戦闘服を着て、銀色の採取ナイフを指でくるくると回している。口元にはいつもの、怠けたような笑みを浮かべている。
「久しぶりね、裁決会のボスさん。まさかあなた自身が現場に出るなんて、本当に珍しいわ」
エヴィータの声は笑いを含んでいて、木江民の全身をくるりと眺め回す。
カメラは少し下に移動し、木江民の横に垂らした手が映った。指先にはまだ拭いきれていない血がついているのに、銃のホルスターにしっかりと手を添えている。彼女の声は全く抑揚がなく、洞窟の岩のように冷たい。
「だから? わざわざここまで来て、このみっともない姿をからかいに来たの?」
「そんな暇はないわよ」エヴィータは壁から離れ、二歩ほど前に進んだ。地面の血の水たまりを踏んでも、全然気にしていない様子だ。「教主がここ数日、ずっとこのプロジェクトを私に任せてたの。まさかこいつが目覚めて、うちの人員も機材も全てぶち壊して、録画機器の信号も全部ぶった切られちゃったから、後始末に来たの。そうしたら、あなたたちまで手を出してるなんてびっくりしたわ」
彼女は少し間を置き、木江民の汚れてもなお張りのあるスーツに視線を落とし、笑いを深めた。
「ついでに言うと、あなたの趣味って全然変わらないのね。いつもスーツばっかり着て、こんな命がけの任務の時でさえ、着替えもしないなんて」
「あんたには関係ない」木江民の声は依然として無関心で、地面に横たわる怪物の残骸に顎を上げた。「サンプルを採りたいなら早くしな。時間が経てば変質する。あんたと無駄口を叩く時間はない」
エヴィータはクスッと笑い、それ以上口を挟まず、後ろにいる部下に合図して採取作業を始めさせた。その動作は慣れたもので、こういう仕事が初めてじゃないのが明らかだった。
画面の中で、木江民は手元のサンプル管を恒温ボックスに丁寧にしまい、間違いがないことを確認してから、洞窟の入り口に向かって歩き出そうとする。だが、エヴィータの声に呼び止められた。
「ちょっと待って」エヴィータは採取針を持ったままこちらを向いた。「あなた、ちゃんと録画してるでしょ? この死体はあなたにぐちゃぐちゃにされちゃって、私たちは目覚める前の状態を再現できないの。録画をコピーしてくれない?」
木江民は彼女の方を振り返り、赤い瞳には特に感情が宿っていない。
「いいわ。3万ドル(約450万円)。友情価格よ」
「成約よ」エヴィータは一瞬も躊躇せずに頷いた。「時間を決めて。明日、支部に取りに行くわ」
「午後3時。案内する人を用意しておく」木江民は足を止めず、声だけが洞窟の入り口から返ってくる。「早く帰る。このサンプルも、これ以上時間が経てば使い物にならなくなる」
画面はここでぷつりと切れ、録画は終了した。
ナランヤはまたため息をつき、端末を脇に押しやった。
「まあ、いっか。伝えるべきことは全部書いてあるし、ボスの文句を言って給料を引かれるのはごめんだわ」
彼女は再び眉根を寄せ、指先で机をトントンと叩いた。
「この未知の生物は一体どこから来たのか……イルミナティまでつけてきてるし、この件はきっともっと大きなトラブルを呼び込むわ。これから全員、警戒レベルを上げなさい」
少し間を置いて、端末のファイルを指し示した。
「アシスタント。この報告書と録画、採取したサンプルデータをまとめて、最高機密ファイルに归档しなさい」
「はい、わかりました」
午前0時、ちょうど時計が鐘を打った。
ベルリンのホテルスイートに、木江民は階下のバーから帰ってきたばかりだった。一身のほこりを払い、タバコと酒の臭いがついたコートをソファに放り投げる。中に着ていたのは、もう着替えたばかりの、綺麗で張りのある黒いスーツと白いシャツだった。
机の前に歩いていき、サンプルボックスの恒温システムが正常に作動していることを確認して、ようやく肩の力を抜いた。ベッドの脇に座り、携帯電話のロックを解除した。
ロック画面には、一枚の写真が表示されていた。
ふわふわの赤いショートヘアに、水玉模様の水色のニット帽をかぶった女の子。帽子にはカラフルなお花のヘアアクセサリーがついていて、ママと同じ鮮やかな赤い瞳で、にっこりと笑っている。ふっくらとした丸い頬に、ペンギンのぬいぐるみを抱きしめている姿は、見ているだけで心が和む。
彼女の娘、木蘭花だ。
画面をスライドしてカレンダーアプリを開く。
3月26日の欄が赤いマーカーでぐるりと囲まれていて、備考欄には一行の文字が書き込まれていた。
「花花に会いに帰る」
あと3日だ。
木江民はその文字を見つめ、今までの冷たく硬い眉元が、少しずつ柔らかくほどけていった。口角は知らず知らずのうちに上がり、いつも冷たさを宿していた赤い瞳にも、柔らかい笑いが滲んでいた。
指先で画面の写真をそっと撫で、声を限りなく小さく、窓の外の夜風のように柔らかく呟いた。洞窟の中で殺気を放っていた時の硬さも、凶悪さも、この瞬間には跡形もなく消えていた。
「花花~ママが帰るまで、いい子に待っててね」
「あと3日で、ママは会いに帰るから」
窓の外のネオンは依然として瞬き、ベルリンの深夜はまだ喧騒に包まれている。だがこの小さなホテルの部屋には、一室の柔らかさと、母が娘に寄せる、一番柔らかい想いだけが満ちていた。
私の語学力はかなり低かったので、AIを使って推敲しました。原文は後ほど投稿します。




